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2010年7月21日 (水)

汎人類的な作品をめざした(?)ファウストの劫罰 二期会公演 スピン・オフ記事

二期会の『ファウストの劫罰』、素敵なプロダクションでしたね。二期会は新国のように装置用の大掛かりな倉庫をもたないと思いますので、これが再演される見込みがないというのは残念にも思うほどです。

いろいろなブログを拝見していると、従来のオペラ・ファンに限らず、本来は舞踊のお好きな方のご来場も相当にあったようで、アール・カオスの人気を窺わせます。どちらかといえば、従来型のオペラ・ファンと思われる方からは敬意を込めて、ダンスのほうが主体になっているとの評価もありますが、私はその見方は妥当でないと思っています。大島さんの振付は基本的に音楽を尊重したものであり、ダンス主体という考えはもっていないはずです。エラソーな言い方になってしまいますが、上のような見方については、音楽と対話する舞踊のあり方についての分析が十分でないのが明白と思われ、ここでは単に、ダンスの存在感に「見とれている」ものにすぎないという印象を抱きます。

【マルグリート? No マルガリータ!】

さて、このエントリーでは前々から疑問に思っていた事柄について、考察したいと思っています。それは物語を構成する3人の主要人物のうち、紅一点のヒロインについてのことです。ゲーテの原詩におけるマルガレーテ、愛称・グレートヒェンで親しまれる彼女。チラシを見ると、このヒロインの名前は「マルグリート」と書かれています。言わずもがな、マルガレーテのフランス語形による表記です。しかし、ベルリオーズのリブレットのなかでは、いちどとして「マルグリート!」という呼びかけは出てきませんし、現に舞台をご覧になった方は、「マルガリータ」という名前しか聴かなかったはずです(ただし字幕では、一部にマルグリートになっている部分がありました)。いちばん最初の、夢のなかでの出会いからして「マルガリータ!」なのであり、その後もずっとマルガリータで一貫しています。

調べてみると、「マルガリータ」は「マルガレーテ」のロシア語形ということです。ここでなにも不思議に思わないというならば、知的怠慢も甚だしいというものでしょう。例えば、同じ素材を扱ったフランスの作曲家、グノーの歌劇『ファウスト』(世界でもっとも多く上演される歌劇とされる)では、素直にフランス語形の「マルグリート」が採用されています。ベルリオーズもフランス人で、リブレットはすべてフランス語なのに、なにゆえ我らがヒロインの名前だけはフランス語形でも、大元のドイツ語形ですらなく、敢えてロシア語形となっているのでしょうか。もしも、このページをご覧の方で、明確なお答えをご存知の方がいるならば、教えていただきたいところです。

私もいろいろと調べてはみましたが、明確な答えは出せませんでした。しかし、これが無意味であるとは思えないのです。

【汎ヨーロッパ的なベルリオーズ】

まずひとつ考えられるのは、ベルリオーズにとって、従来の演奏伝統に凝り固まったフランスやドイツの楽壇よりは、自分の音楽を大事に受け容れてくれる傾向にあるロシアや東欧のほうが身近に感じられたという可能性です。この作品についても、パリ初演では思うような評価を得られず、失望したベルリオーズはロシアにこれをもっていったところ、大いに当たったという歴史的経緯が知られています。モーツァルトの後期のオペラ作品についても、ウィーンでは思うように受け容れられず、プラハにもっていったところで大当たりしたという先例があります。ベルリオーズは初めからフランスでの成功を期待しておらず、ロシアや東欧での展開を視野に入れていたのではないかと思えば、思えないこともないでしょう。

その証拠のひとつとして、ハンガリーのラコッツィ行進曲の挿入を位置づけることもできます。単に音楽的な必要性、もしくは、こだわりから、強引に舞台をハンガリーに設定して挿入したといわれることが多いのですが、このような視点でみれば、別の意味も見えてくるのではないでしょうか。

私は、我らが巨匠(ベルリオーズ)のことをイタリー人と勘違いしていたことがありますが、それはそれとして、この大作曲家は汎ヨーロッパ的な活動によって、懐を満たしていたということができると思います。例えば、一生を通じてウィーンを出ることがなかったシューベルトとはちがい、フランス生まれのベルリオーズは、ローマ賞をもらってイタリーに行き、ケルトの女優に恋をして最初の妻とし、次の妻はスペインの血脈の入った歌手、作曲家としてはロシアや東欧でのツアーで大成功したと言います。指揮者としては、ドーヴァー海峡を渡ったブリテン島や、ドイツ方面にも出張していたようです。

このような経歴から見てもわかるように、ベルリオーズのこころは世界に羽ばたくスケール感を内包しています。ベルリオーズはフランスの典型的な作曲家のひとりでありながら、そこでの価値観に閉じ込められることには耐えられず、より大きなスケールでの汎ヨーロッパ的、あるいは、汎人類的な作品を書きたかったにちがいありません。その想いこそがファウストに「マルガリータ!」と叫ばせ、ラコッツィ行進曲に居場所を与えたということになりはしないでしょうか。「マルガリータ」であればスペイン語形にも等しいし、イタリア語形の「マルゲリータ」にもちかい。そして都合のいいことに、歌になってしまえば、フランス語形の「マルグリート」に聴こえないこともないでしょう。幕切れで「巨大化」した、今プロダクションにおけるマルガリータの姿はこうした意味で象徴的であり、もはやファウスト、メフィストといった存在を包み込むほどの勢いがあるとみることができます。

ロシアにとっては、ベルリオーズも、ゲーテの『ファウスト』も重要な存在です。例えば、ドストエフスキーが『ファウスト』を下敷きにして、大著『罪と罰』を書いたということは有名です。また、ベルリオーズのロシア遠征もチャイコフスキーほか、ロシアの音楽家たちにつよい衝撃を与えたといわれています。今冬、ゲルギエフがマリインスキー劇場の公演で『トロイの人々』のプロダクションを日本にもってくる予定ですが、この稀有壮大な作品をロシア人がやるということには、そのような事情からして一方ならぬ意義があるのです。正に世界文学といえる『ファウスト』と同じように、世界言語(音楽)を語る作品としての『ファウストの劫罰』を、ベルリオーズは考えたのではないでしょうか。

リブレットを丁寧に読んでみると・・といって、フランス語にはさほど詳しいわけではないのですが、それでも、ベルリオーズがフランスでしか通用しないような凝った表現を避けて、なるべくわかりやすい語、例えば、ジュテームとか、フランメとか、アンコール、互いの人名、「ハ、ハ、ハ」などの具体的な哄笑の使用などに加え、幕切れの’viens’(来たれ)の連呼など、うまく要所にわかりやすいコトバをおいて、すっと身体に入ってきやすいような表現を選んでいることは明らかでしょう。また、メフィスト凱旋の場では敢えて意味不明の魔界語を使うことで、かえって言語の壁というものを取り払っています。もとがゲーテの『ファウスト』であることを考えるならば、これは我々の想像以上に難しい仕事だったと思いますが、ベルリオーズは見事に成し遂げたといえるでしょう。

【古典的教養と自由】

ベルリオーズは非常に自由な作風をもった作曲家でありながら、それでも古典的な教養もまた、豊富に持っていた作曲家です。それは例えば、第2幕の最後で、フランス語による兵士たちの合唱と、ラテン語による学生たちの合唱を対位法的に扱うという神業を成り立たしめていることからいっても明らかでしょう。ここで作曲者は、自国語による愛国的な(歌っている内容は卑猥ですが)合唱と、ラテン語による形而上的な(これも歌っている内容は卑猥ですが)合唱を組み合わせたときにできる、ある種、いびつなフォルムを際立たせることで、これらを同時に皮肉っているわけです。この音楽的構造を鋭く捉えた、今回の不思議な演出プランは秀逸なものだったと思います。ただ、演出だけに見とれていてはいけません。

ベルリオーズは、こうした古典的教養の特異な価値について尊重し、典型的なフランスの作曲家として君臨しますが、こうした道をさらに開く鍵としては、そうした古典の支配に染まっていない地域に希望を見出していたのかもしれません。ファウスト博士もここに描かれる「グレートヒェン悲劇」のあとは、ギリシア古典の世界に旅立ち、伝説的な美女、ヘーレナとの恋に落ちるのですが、それも最終的には実らずに、現実世界に舞い戻ってきます。その後、すったもんだがあって、皇帝から領地を賜ることになり、危険な土地をみなの協働で守るというところに安らぎを覚えることになり、フィナーレに突っ込むのです。この土地が、ベルリオーズにとってのロシアとか東欧であったのかもしれません。

それが具体的に、どのような形でベルリオーズのなかに結実したにしろ、『ファウストの劫罰』はより広範な世界への開かれた視野をもった作品であったことは否定できないと思います。ベルリオーズはその後、成功しては手もとに何も残らないというシーシュポスの労働的な生活を送りながら、なんとか最晩年に到達します。例えば、最後の歌劇『ベアトリスとベネディクト』の序曲を聴くと、その魂は再びもとの古典的な世界に収まりながら、その内部では、のちの現代音楽にも通じるような強いエネルギーの燃焼が窺えます。その炎(フランメ)は、より前期の『トロイの人々』ではもうすこし華やかに、しかし、繊細な形で凝縮しているようです。メンデルスゾーンやウェーバーは軽く呑み込んで、ワーグナーにバトンを渡すような仕事ぶりでしょう。

ベルリオーズは古典的教養を跳躍台にして、従来の作品にはない自由さを追い求めました。その自由さにはまだ制限がありますが、最初に比べれば、ベルリオーズの身体は随分と軽くなっています。

【傲慢の正体】

ベルリオーズの人生は決して平坦ではありませんが、それゆえに・・・というべきか、上昇力に満ちていました。本編の感想で、ファウストは傲慢だから地獄落ちしたと書きました。では、なぜ、ファウストは傲慢だったと言えるのでしょう。彼は少なくともマルガリータのために生命・・・といっても、ここでは天上での、より高貴な生命を捨てています。それなのに、ファウストが傲慢といえるのは、もはやすべてを知り尽くして、上を目指すこころがないからだと思います。彼は自分がなにをするでもないのに、すべて、どうするべきかを知っているような人間です。どこで何をすれば、自分がどうなるかということを心得ており、その結果をも恐れていません。

それはいわば、ベルリオーズの時代の音楽的な常識と照応するかのようです。モーツァルトという天才が現れたことで、すべての秘密は暴かれました。そして、どの抽斗を開ければ、どんなものが出てくるのかは想像がついていました。ベルリオーズは多分、そのような常識を何とかして覆したかったのであり、そのためならば、文学に頼りもしましたし、私小説的な告白も辞さなかった。必要ならば、世界のどこかへ旅立つことも必要と考えました。マルガリータはシェークスピア女優として有名だったスミスソンの似姿であるとともに、そのスペイン的な呼称からは第2の夫人であるマリー・レシオをも想起させます。さらに、罪を犯しながら浄化するイメージからはマグダラのマリアがイメージされ、それらの人格に基づきながら、より汎人類的な理想像として描きこまれてもいます。マルガリータとはそのような理想像を象徴する名前であり、断じて、マルグリートの単なるロシア形ではありません。

傲慢の正体は停滞であり、成熟であり、モード化でした。ベルリオーズは、どれだけ安定した形式であるとはいっても、宗教曲の形式にさえモード化を禁じようとした人なのです。マルガリータは、そうしたモードに対抗するための、自由の象徴だったといえるでしょう。マルガリータは何もない無防備な女ゆえに、限りない上昇力を持っています。これはコンサヴァティズムを基本としたファウスト的傲慢とは正反対であり、メフィスト的なアンチにも、もちろん、勝ります。彼女を救済することは、ベルリオーズの制作史にとってなくてはならない事件だったのです。

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