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2010年8月27日 (金)

ジョナサン・ハーヴェイ テーマ作曲家:室内楽 サントリー芸術財団 サマーフェスティバル2010 8/26

先日に引きつづき、サントリー財団主催のサマーフェスティバルに足を運んだ。このシリーズの3本柱は、ここ数年に発表された世界の作品を紹介する「音楽の現在」、新しい作曲家・作品の掘り起こしを目的とした芥川作曲賞、そして、「テーマ作曲家」にフォーカスし、その作曲家にレクチャー、室内楽コンサート、管弦楽コンサート(1曲は委嘱初演)を企画してもらうシリーズだ。

当夜は「テーマ作曲家」シリーズの室内楽編だったが、昨年の陳銀淑につづいて、今年も当たり年になりそうな予感がした。ただし、陳の場合は「クラシック音楽」の破壊という方向に向いていたのに対し、ハーヴェイのほうはより瞑想的な深化に軸足が置かれている。その点で、この2人の作曲家は対照的である。そして、もうひとつ決定的なちがいは、陳が「作曲者・演奏家」対「聴衆」のコミュニケートに重きを置くのに対して、ハーヴェイの作品は、演奏する側が作品、そして自らに向きあうということにより大きな価値観を置いており、その自己対話を感じ取って、聴き手もまた作品や作曲家、さらに演奏家に向きあうという独特なコミュニケーション手段が特徴となる。

演奏は、前半が板倉康明率いる東京シンフォニエッタ、後半は、クヮトロ・ピアチェーリである。

【ハーヴェイの特質】

ハーヴェイの作品は、まず緻密であることが大きな長所である。音響的なバランス感覚にも優れ、作品は現代音楽らしいイディオムを追いながらも、単に斬新ではなく、むしろ手の届く範囲でまとめられ、安定している。そのため、湯浅譲二の言うような「未聴感」というキーワードでいえば、ハーヴェイの作品はさほど尖鋭ではない。しかしながら、深い抑制に基づいた作品のシンプルさは、ある意味で日本的なものともいえ、作品の構造の穏和な美しさと、皇室人的な、静謐なエレガントはハーヴェイ独特のものといえるのではなかろうか。

【フェルドマンからの影響】

演奏会は、最初の『スリンガラ・シャコンヌ』から、最後の弦楽四重奏曲に至るまでに、徐々に編成が小さくなっていく構成になっていた。その『シャコンヌ』は題名からいって、バロック的なオスティナート・バスをもつ作品ということになろうが、それが典型的にみられるのは冒頭部分である。ゆったりした風が吹き抜けるようなシャコンヌの生成シーンは、どこかフェルドマンの音楽にも似ており、その傾向は、最後の弦楽四重奏曲のところでも触れる必要がある。

しかし、それだけでおわらないのがハーヴェイの特徴であり、作品は徐々にエピソードを増やしていく。彼の楽器法は特殊奏法を含む多彩なものだが、一方で、その楽器にイメージされる本来の味わいというものが大事にされる場面もあり、総じて響きは緻密で、美しい造型になっている。例えば、この作品ではトロンボーンやチューバといった響きのつよい楽器も使われているが、弱音器を使用するなど、その響きはきわめて抑制的に利用される一方、ここという場面では、その楽器の特徴が大胆に生かされている。

【抑制とその解放】

このような性質はどの曲に対しても言えるが、典型的なのは3曲目の『シェーナ』である。この作品はヴァイオリン独奏に対し、9人の奏者が配置され、独奏ヴァイオリンが5つのエピソードを次々に切り開いていく。私の感覚では、トレモランドが印象的に響く「夢」の部分に至るまで、ヴァイオリン独奏はきわめて抑制された役割を与えられている。正確にいえば、全てのパートが抑制的に書かれ、ピアノ、ハープ、ギターといった万能楽器でさえ、その機能を生かしきるようには書かれていない。その象徴は、ジーンという謎めいたムードを形成するピアノの内部奏法であろう。

ところが、この「夢」を境にして様相が変わる。独奏ヴァイオリンの響きがもつ甘みが次第にはっきりと提示され、それをキーにして、全ての楽器の持ち味が解放されていく。魔法が解けるかのようなトレモンランド(響きの振動)による中間クライマックスは、演奏者と聴き手の双方を、即座にカタルシスへと誘うが、その中心にあるのはいつもヴァイオリンによるシェーナである。

【月の役割】

当夜のヴァイオリン独奏は、東京シンフォニエッタでいつもコンマスを務める山本千鶴で、私はこの人のヴァイオリンの涼やかで、清澄な響きが大好きだ。そこにちょっぴり重みの加わった今回の独奏は、実に深く、また、ややリリックな感銘を付け加える。彼女の響きに自らの響きを重ねていくバックの奏者たち・・・例えば、ギターの鈴木大介などの表情ゆたかな歌声なども秀逸だった。

独奏ヴァイオリンはただ美しいだけでは駄目で、そこに作品と向きあう演奏家のセンスが問われることになるが、著名なアーヴィン・アルディッティによる初演がどんなものであったにしろ、真心を込めて響きをつくることだけに集中した山本の実直な演奏は、ひとつの規範となるはずだ。彼女の示した姿勢は人形づくりの名人が一体の「いのち」を仕上げるのに込める気迫に似たものがあり、結果として生成される響きの純朴さは、思わず涙を誘うほどであった。

ハーヴェイの作品は、正に、このような力を持っている。彼の作品は太陽の光を照らし返す月のような役割を果たしており、その形は月そのものだとしても、我々が拝んでいる光は別のなにか・・・つまりは、演奏者の発するものである。演奏者がどのような光を当てるかで、月の光は微妙に揺らぐが、形そのものは不動である。ハーヴェイの場合、その不動である面よりも、揺らぐ部分の面白さが傑出している。前半の3曲のなかでは最後の曲の完成度がきわめて高く、その揺らぎのあり方が明確になっている点で、もっとも作品の良さが明確であった。そういうわけで、ハーヴェイの作品を素晴らしく聴かせるためには、演奏者の責任が大きいようである。

【弦楽四重奏曲第4番】

その責任をもっとも真剣に果たしたのは、後半に登場したクヮトロ・ピアチェーリの4人だろう。この弦楽クァルテットはヴァイオリンの大谷康子、斎藤真知亜、ヴィオラの百武由紀、チェロの苅田雅治の4人で構成される常設の弦楽四重奏団で、定期的に催される自分たちの演奏会では必ず邦人による現代作品を入れ、直接、作曲家の指導を仰ぐというのがコンセプトになっている。この作品(弦楽四重奏曲第4番)はもちろん邦人の作品ではないが、今回もハーヴェイとの対話が可能な機会であり、クァルテットのコンセプトに基づいた活動の一環となったであろう。

さて、この作品が要求する光は、『シェーナ』のものとは若干、性質が異なるように思われる。それは多分、4人で1つの声をつくるという弦楽クァルテットという編成に基づく特徴であり、4人で1つの迷路を追いかけていくことで、より深く、内側に遡行していくような厳しさが彫り込まれていくところにちがいがあるのだろう。

作品は音があるのかないのかわからないような、弦楽器奏者が弓を楽器の弦に軽く押し当てるだけの動作から始まる。しかし、これは断じて、パフォーマンスではない。例えば、カンフーの達人が相手と手を合わせる前に、集中力を高めて気合いを内に込めるような、見えざる音が感じられるからである(実際には、途中で息づかいのような音響が挿まれるわけだが)。ヴァイオリンの大谷などは、慎重に拍を数えて弾いているのがわかる。それは何も彼女が不器用なのではなくて、なにより真面目に作品に向きあっている姿勢を表すのであろう。

表面的な響きは、チェロ奏者が弓を旋回的に動かして発されるときに生ずる、緩いロールから始まっていく。この間の奏者たちの動きは、まるで坊さんが経文を読み始める前にとっている一連の所作を思わせる。それは普通の信者には関わることのできない、神と坊主との間のみにある秘密の儀式である。と同時に、ライブ・エレクトロニクスが用いられていることもあるのか、演奏前に、なにかプログラムを打ち込んでいるような印象も与える。この二面性が、実にアイロニカルな印象につながっていく。

この作品は弦楽四重奏のほかに、リアルタイムに生成する電子音響を含んでいる。これはIRCAMのジルベール・ヌノによる特別なコンピュータ・プログラムに基づいており、このプラグラムにより「音を空間上のいかなる距離、いかなるポイントに位置づけることも可能になる」と書いてあるが、プログラムがどのような仕掛けになっているかは、いまもってよくわからない。しかし、ひとつだけ言えることは、作品を動かすエンジンは(弦楽四重奏が手を止めてエレクトロニクスだけが動いているときでさえ)、いつも弦楽四重奏のほうが握っているということである。

音響はきわめて質素で、素材の浪費も見られない。最初の作品でフェルドマンを引き合いに出したように、彼ほどではないしても、作品はのんびりした進行をとり、演奏家が音楽と向きあうための時間が豊富に準備してある。しかし、先程の儀式的なシーケンスを含めて、いくつかのシーケンスが凝縮したエピソードを成しており、これが古典的な配置を擬しながら、幾分、構造的に表れる点は異なっている。フェルドマンの場合は閉じられた世界のなかで、無限に広がっていく拡散的な音楽性が感じられるが、ハーヴェイにおいては、むしろ凝縮に向かっていくのが対照的である。

この凝縮したイメージが鏡面を成すことで、この作品は、先述の月の働きを演じる。フェルドマンでは音楽のなかに演奏者が呑み込まれていく印象さえもつが、ハーヴェイではあくまで奏者が光を発するのであり、作品はそれを反射する鏡面をつくるだけだ。ときに静寂さえ利用したこの鏡面に映るクヮトロ・ピアチェーリの音楽性は、先の山本千鶴以上に実直なものだったといえるだろう。ひとつひとつの素材に丁寧に磨きをかけていることもはっきりわかるし、それらを慎重な配慮をもって積み上げていくときの息の詰め方も真剣だ。それなのに、聴く側はとてもリラックスしていて、ある種のサウンドの厳しさに対して、まったく違和感を感じるところがない。

【音響プログラムの問題点、まとめ】

この作品について、唯一、問題があるとすればコンピュータ・プログラムによって生成するサウンドがやや単調で、乾いていて、変化も少ないことであり、これがいますこし潤いのある・・・有り体にいえば、奏者のアクションにあとちょっとだけ柔軟なものだったとしたら、作品の鏡面はより輝きに満ちた透明さを獲得したことだろう。最後のほうで、すこしばかり眠気を催したのは、そのような問題点によるのではなかろうか。

ハーヴェイは音響プログラムの利用にも積極的な作曲家として認識しているが、本来、彼のもつコミュニケーション能力のしなやかさに対して、必ずしも追いついていないコンピュータ・プログラムのサウンドの硬さは、ある種のいびつさを生み出しているのかもしれない。

とはいえ、作品自体は4曲とも魅力的である。30日には委嘱初演を含む管弦楽作品が演奏されるが、これは大いに期待できる。派手なサウンドや、煽情的なカタストロフィーとは無縁であるが、サウンドと一体となった弾き手の個性を引き出し、それを通じて、聴き手が作品、作曲家、演奏者、そして、何より自分自身と向き合うように工夫された彼の作品に、多くの人たちが接してくれるのを期待して止まない。

【プログラム】 2010年8月26日

1、ハーヴェイ スリンガラ・シャコンヌ
          〜15奏者のための
2、ハーヴェイ 隠された声2
          〜12奏者とCDのための
3、ハーヴェイ シェーナ
         〜ヴァイオリンと9奏者のための
4、ハーヴェイ 弦楽四重奏曲第4番
       〜ライヴ・エレクトロニクスを伴って

 1-3 東京シンフォニエッタ(cond:板倉 康明)
 3 vn:山本 千鶴
 4 クヮトロ・ピアチェーリ
 4 エレクトロニクス:ジルベール・ヌノ

 於:サントリーホール(ブルーローズ)

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