2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

« 田崎瑞博 モーツァルト 交響曲第40番 アンサンブル・メゾン 第25回演奏会 8/14 | トップページ | ジョナサン・ハーヴェイ テーマ作曲家:室内楽 サントリー芸術財団 サマーフェスティバル2010 8/26 »

2010年8月24日 (火)

サントリー芸術財団 サマーフェスティバル2010 音楽の現在:室内楽 8/23

サントリー芸術財団主催で、毎夏、恒例となっている現代音楽の祭典、サマーフェスティバルが23日、「音楽の現在:室内楽」で開幕した。私はこのフェスティバルのうち、当夜の「音楽の現在:室内楽」「テーマ作曲家:管弦楽」「テーマ作曲家:室内楽」、さらに、芥川作曲賞20周年を記念した過去の受賞者による作品で、独奏による作品を集めた室内楽コンサートの2回目を聴くことになっている。

まずは、初日の模様をリポートする。といっても、私は高校時代の音楽の授業では、歌はかなり上手いほうだったのに、理論のほうがまったくわからかった(和音の基本的なことが全然わからなかった)という人間なので、より高度な教養やロジックに基づいた作品を、たちどころに理解できるという自信はない。だが、聴衆全員がその音楽のめざすべきところを知っていて、「ああ、彼は誰々の影響で、こういうことをしている」とわかっている必要などないし、そうであったら、かえって面白くないであろうと思う。だから、私はあくまで素人の視点で、理論はともかく(それについても考察はするが)、こういう風に聴こえたという感想を書き綴っていくつもりだ。

さて当夜、演奏されたのはいずれも単一楽章の5つの作品である。いちばんの古株は1945年生まれのジョルジュ・アペルギスで、いちばん若いのは、1981年生まれのクリストフ・ベルトランである。これらの作曲家の作品のうち、ここ数年内に作曲されたものが選抜されて舞台にかけられた。そのうち、1つでも気に入った作品があれば収穫ありとすべきだが、幸い、2曲ほど気に入ったものがあったので、十分に楽しめたといえるだろう。

演奏は、佐藤紀雄の指揮によるアンサンブル・ノマド。

【アペルギス作品】

そのうちのひとつは、従来から知っていた作曲家、アペルギスの作品であった。名前からわかるだろうが、ギリシア生まれで、フランス・ベースの作曲家である。プログラム中の「イントロダクション」で白石美雪女史は、ブーレーズ&IRCAMの系統とは距離を置く作曲家としているが、アペルギスもIRCAMとは関係浅からぬ作曲家であるので、この紹介は語弊が多いのではなかろうか。私はこの作曲家の作品が東京日仏学院の主催により、白寿ホールを舞台にしてまとめて取り上げられた際、その音楽に接して印象ぶかかった。特に、モノ・オペラとも、レチタティーボの連続とも、すこし崩れた歌曲ともつかないようなヴォーカル作品が非常に面白く、鋭く風刺的で、ユーモアのある作品に感銘を受けたのを記憶している。

今回、演奏された『シーソー』は2007年から2008年にかけての作曲となっており、白寿ホールで演奏された作品ほどの完成度はないが、サウンドの厳しさは相変わらずのアペルギスであった。外題からわかるように、いくつかの素材がシーソーにかけられて、2つの方向性の間でバランスが調整されていくというスタイルからは、当然、繰りかえし的な要素も多くなり、まるでミニマル的なニュアンスも内包している。シアター・ピースを得意とするといわれるアペルギスのなかでは、響きそのものに注目した珍しい方向性の作品といえる。

銅鑼(小)をバチで鋭く叩くという激しい音響に出発し、どちらかといえば、重みをかける前半は演奏のせいか、やや響きにムラがあり、大きな編成でのサウンドの構成力には若干の疑問を感じさせる。しかし、楽曲が次第に落ち着いて、シーソー構造がみえてきたときには、彼らしいサウンドの厳しさがはっきりと伝わってきた。このような行ったり来たりする音楽構造は、この日の楽曲に多く通じている特徴で、そのため、どの曲もミニマル的な要素と無縁ではない。ただ、私が「クロノイ・プロトイ」という団体で聴いたような露骨なミニマルの継承性はなく、それぞれにインディペンデントな内発的根拠をもっている点が強調される。

そのなかでも、アペルギスの作品は、そのような構造自体に対する自己批判がつよい点が面白いところだ。例えば、この演奏会の最初に取り上げられたジャン=リュック・エルヴェの作品は、同じ素材が次々に位置を変えて鳴り響くことで、その場自体の環境が音楽とコミュニケートする面白さを描いているそうだが、サウンド自体への批判性が弱いために、それを構想からして当たり前のものとしてアプリオリに規定し、疑うところがない点が、サウンドの単調さにつながっている。アペルギスは対して、自ら選んでしまったロジックのつまらなさに途中で気づいており、それをアイロニーとしてしっかり織り込んでいる点が面白いのだ。

よって、彼の作品は終盤、やや躊躇いがちな休符によって象徴される。

また、既に述べたような序盤の一部分を除いて、アペルギスは自らの組み上げた作品をよくよく見直して、隙のない音楽を書き上げようとする意志を貫いている。例えば、2曲目に演奏された若いベルトランの作品は、確かに肩肘の張らないファニーなサウンドで始められ、そのシンプルな音構造は、どちらかといえば、空間を埋め尽くそうとする傾向のつよい外国の作曲家のなかでは異色といえそうだ。しかしながら、そのサウンドは見たところ、相当にスカスカであって、響きを愛らしいものというよりは、軽々しいものへの貶めているようにも思われるのであった。(それが名曲でないとはいわないが、)冨田勲による「3分間クッキング」の音楽が、私のなかで絶えず、この作品にダブって鳴り響いていた。そうしたチマチマした感じ、また、コンピューター上でコピー・アンド・ペーストしていったような、サウンドの既製品的な感じがどうしても抜けなかったからである。

これと比べると、アペルギスの作品の音構造は、リゲティのトーン・クラスターを思わせるような整然とした規律をいつも保っており、その点で、若い人たちの音楽と比べて、やはり堂々としたところがある。以前の私は、アペルギスに対していまよりもずっと無理解だったが、それでも、そこにある作品の逞しさについては、しっかりと見抜いていたようだ。繰り返しになるが、現在も、その厳しさは変わっていない。

【ジョナサン・コール 遺された灰】

本日の演奏会で、もっとも気に入ったのはこの作品である。2009年の作品で、まだ出来たてといっても過言ではなかろう。英国の若手(中堅)作曲家、ジョナサン・コールに関して理解するためには、北野武の映画を引き合いに出してみたい。北野映画の良さについてはいろいろなことが言われるだろうが、私がたけしの映画についてもっとも面白いと思っていることは、彼のもつ豊富な遊びごころである。その点、彼はコメディアンとして徹底的に磨きをかけてきたわけで、そのことはもちろん、映画に対しても無駄ではなかったといえる。

例えば、『HANA-BI』でたけし演じる主役の男が、精神疾患で子どものようになっている妻と、リハビリ用の積み木で遊ぶシーンがある。ここでは、遊ぶという純粋な行為によって端的に、ハード・ボイルドを気取るヤクザな男(元警官)の本性にある人間的な優しさが滲み出ており、それが北野武という役者の個性によく見合ってもいるのである。この映画のラストは、その妻と男が海辺で寄り添い、追いつめられた男が凧揚げをして遊ぶ少女の前で、最初に妻を、そして自分を銃殺するというもの(実際には描かれないが、多分、そういうことだろう)だが、画面に映るのは寄り添う2人ののんびりした姿だけで、カメラが切り替わり銃声だけがして、そのあとに驚いた少女のアップになって、おもむろにエンドとなる。その最後に映る男の姿は実に優しげで、例の積み木の場面に対応していることは自明である。

また、ショックな光景を目撃することになる少女だが、凧揚げをしているという状況の面白さと、自死場面が直接は描かれないという故意の描きのこしによって、むしろ、とてもコミカルな表情を見せてくれる。どこまで意識したのかわからないが、たけしの遊びごころは随所に、実に面白い効果をもたらすのであった。だが、例の積み木の場面にしても、妻の精神疾患という事実によって、はじめて導き出される優しさであるように、実のところ、遊びの要素にもまた、とてもシニカルな要素が混じり込んでいるのであり、この甘さと辛さのバランスが堪らない魅力になっている。

さて、コールの作品も、このような遊びごころに満ちた作品だ。解説文をみると、かなりクソマジメなことが書いてある。このような理論武装をしなければ、現代音楽の世界を泳いでいくことはできないのであろう。しかし、実際には、もっと素朴な作品なのではないかと思う。例えば、彼はアコースティック・ギターを取り出して膝に置かせ、穴の部分になにやらしなる棒を差し込んで、ぶるぶると振動させる。これが、一連の作品のはじまりとなるのだ。彼はそれだけでは飽き足らず、ギターを床に立て、これをガンバのようにして弓で弾かせるというようなことまでさせている。

彼の楽器の扱い方は、非常に自由である。例えば、チェロの胴体を5本指でパタパタと叩かせて、獣のうごめくような響きをつくっている。それぐらいならば珍しくもないが、さらに面白いことには、これがまた、役割を変えて繰り返されるところに遊びごころがある。後にそれは、本をめくるときの紙の音のような響きになり、端的に場面転換の役割をも担うようになる。最初のエピソードでは、沖縄のオカリナ・トロンボーンに似た楽器(あるいは、そのもの)を使った響きが、なにか中年の女性がウェットなドラマを見て嗚咽するようなコミカルな響きを発するのに、次のエピソードでは、同じ楽器が夜のとばりに声を広げる鳥の声のように変身する。パチパチと薪の炎が音を立てるように鳴らされた手拍子が、次のエピソードでは、ただの拍子とりに使われている。

このように、単に響きが独特であるだけでなく、同一の楽器をファンクション(機能)を入れ替えることにより、まったく別のあじわいをもったものとして変身させるというのが、コールの作品のひとつの面白さにあるのではなかろうか。

また、そのことにより、楽器の味わいは次々に戯画化され、シュールな外形を見せるようになる。例えば、弾き手である佐藤紀雄のパーソナリティもあろうが、ギターをあれこれいじくりまわして、本来のファンクションとは別のいじり方をする光景は、どこか子どもじみた印象を感じさせ、たとえ弾き手は大真面目であっても、どこか愛らしい、可愛らしさを感じさせる。これは最後を締めることになる風船を扱う打楽器奏者の姿で象徴的であり、正に遊びの精神が、この作品にとって、なくてはならぬものであることを教えるだろう。

そのような形で、散々に笑いを誘いながらも、サウンド自体は随所に引き締められ、このコントラストが目まぐるしく変化する。演奏し、聴く側も日本人であるせいか、そのサウンドはときどき、日本的な味わいも含んでいるように感じられた。例の手拍子が出る(最初)エピソードでは能楽のようなサウンドも聴かれたし、だからこそ、手拍子の音が薪能のときにピシッパシッと音を立てる、あの音のように感じられもしたのである。実際、コールがそのようなことを考えて作曲したのかどうかは定かでないし、恐らく、そんなこととは無関係であるにちがいないが、それにしては、最後の風船独奏による「ピシッパシッ」というサウンドなども、薪能とは別にして、やはり火が音を立てるときの響きに似ていた。そのことから、最後のシーケンスでは季節柄、線香花火に火をつけたときの光景を私は思い出していた。

線香花火のイメージからもわかるように、コールの作品は十分にアイロニカルで、渋みのある作品なのであるが、それにも関わらず、作曲者の純粋な音楽語法への興味、ユニークな発想、素朴な実験精神が感じられたのもよかったし、それが我々のこころに十分呼びかけるものであることを感じられた点も嬉しい。この日の演奏作品では、私に限らず、このコールのものがいちばん親しみやすいものと感じた人が多いのは間違いないと思う。

なお、当夜の演奏会では、同じ素材をちがう楽器でやりとりするエルヴェの作品に、あの子がほしい、その子がほしいとやる「はないちもんめ」の遊びを想像したりして、日本的なものを想像して考えると、イメージが掴みやすいものが多かったのは偶然ではないのかもしれない。

【まとめ】

もう1曲、いちばん大きな編成で、ハンガリーの作曲家、マルトン・イレーシュの『トルソⅢ』が演奏されたが、前半の巨大化した音塊における、サウンドのコントロールが若干、甘いように思われた点、それから、最後に出来あがった作品を凝視して、よく点検し、少しずつ直していくようなアクションをする場面では、あまりに休符が長く、そのことが説明的になっている点が気に入らなかった。

長所、短所はあるものの、ここに選ばれた作品は、それなりに完成度がある。コールのものが若干、外れているが、他の作品はポスト・ミニマルの影響を少なからず受けているように感じられ、それとの向き合いのなかで、いかに自分らしいイディオムを付け加え、新しい道を切り開いていくかということが、それぞれのレヴェルで試されているように思われた。私は、ミニマル的なものからは、もはや新しさは生まれないと思っていたが、作曲界の趨勢は、その語法のシンプルな構造に注目し、これを積極的に利用したコミュニケーションが好まれているようにも思われる。

これが良い傾向なのか、そうではないのか、私に判断がつくわけもないが、作曲の個性という点では若干、システマティックになりすぎている印象も受けた。典型的なのはベルトランの作品であるが、それなりのソフトを導入し、ポピュラーな数列を当てはめて、よし、ここは何小節はめこんでしまおうとキーボードを叩き、コピペ、コピペでつくったあと、若干、自分のセンスを入れて調整するといった機械的な雰囲気が感じられたのは、私の偏見なのであろうか。それは音楽というよりは、暗号遊びであり、図形描画であり、パズルのようなものだ。しかし、いまの時代、このようなパズルのような作品があちこちで増えているということだろう。

別に、パズルでも構わない。だが、実際にできてきたサウンドに対して、どれぐらい自己批判がきくのかということは、この種の音楽にとって決定的に重要な要素であるように思える。その点、若い作曲家とアペルギスのちがいである。同じミニマル的な作品でも、例えばフィリップ・マヌーリのような作曲家がつくった作品は構造的にも厳しく、サウンドが隙なく充実しているのに対して、若い作曲家たちの作品はそうした生命感に欠ける。私が若い作曲家諸氏に求めたいのは、そのような自分に対する厳しさだ。自戒の念を込めて、私はそのように言いたい。それさえあれば、クスリに手を出すような愚かなこともないはずである。

なお、ここに日本初演された作品の作り手のうち、最後のイレーシュのみが来日して、ステージに上がった。残念ながら共感のない作品だったが、このような姿勢については評価したい。なぜならば、作曲とは、コミュニケーションだからである。

« 田崎瑞博 モーツァルト 交響曲第40番 アンサンブル・メゾン 第25回演奏会 8/14 | トップページ | ジョナサン・ハーヴェイ テーマ作曲家:室内楽 サントリー芸術財団 サマーフェスティバル2010 8/26 »

室内楽」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/49234703

この記事へのトラックバック一覧です: サントリー芸術財団 サマーフェスティバル2010 音楽の現在:室内楽 8/23:

« 田崎瑞博 モーツァルト 交響曲第40番 アンサンブル・メゾン 第25回演奏会 8/14 | トップページ | ジョナサン・ハーヴェイ テーマ作曲家:室内楽 サントリー芸術財団 サマーフェスティバル2010 8/26 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント