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2010年8月29日 (日)

芥川作曲賞 20周年記念ガラ 室内楽Ⅱ 8/28 19:00〜

ちょっと垂れすぎじゃないのかというのが、正直な感想だった。芥川作曲賞の20周年を記念した過去の受賞者の独奏作品によるガラ・コンサートである。私は、19:00からの2回目の公演を拝聴した。

なお、予想どおり、覚醒剤所持容疑により逮捕された夏田作品は演奏されないことになった。差し替えプログラムはなく、夏田作品がプログラムから消えるだけなので、この演奏会でのウェイトはさほどでもないが、管弦楽編では4曲中の1曲だけに、いささか影響が大きいかもしれない。なお、芥川作曲賞の審査委員には、代わって猿谷紀郎が選任されている。この姿勢には、若干の疑問を呈しておく。なぜなら、既報の不祥事があったにせよ、その作品を残すべきかどうかはこの場合、企業のコンプライアンスと関係するわけではなく、結局のところ、聴衆が作品に接したうえで独自に判断すべきものだと思うからである。

【望月、原田作品】

序盤から、演奏会はアイディア大会&特殊楽器研究会の様相を呈す。最初の曲は、望月京が箏を使って俳句の世界を表現した作品。箏という楽器の発展にも寄与した吉村七重の熟練の技が見どころだったが、「俳句」というほど音楽表現の濃縮がおこなわれていたとは思えない。前半のクライマックスで、響きの艶消しに使われていた手拭いが、ぱっと取り去られて一気に響きが解放されるところが、印象に残る。しかし、それはパフォーマンス的にもみえ、どこまでが響きのうえでの必要性に当たるのかがわかりにくい。

原田敬子の『BOOKⅠ』は、アコーディオン独奏のための作品。私も実際に触ったことがあるし、みんなが身近と思っているわりに、意外に知らないことが多い楽器をいじくりまわした原田の試行錯誤が、そのまま作品となっている印象だ。音楽密度はわりに高く、シュテファン・フッソングのコントロールも見事であるが、こちらが十分にアコーディオンを知らないせいか、次々に起こる多彩なエピソードがどうしても、素材集のように見えてしまう。惜しい作品。アコーディオンに詳しい人ほど、素直に楽しめる作品と思われる。

【山本、小出作品】

3番目に演奏された山本裕之と、後半のほうで演奏された小出稚子の作品には、湯浅譲二の『ぶらぶらチューバ』という先行作品がある。山本作品はトランペットを使い、ミュートを変えることでいろいろな「パルラーテ」(話し方)を楽しませる趣向である。ユーモアもあり、リラックスした作品だが、作品として凝縮度は低く、やはり素材集的な面を出ない。

一方、小出の『西新宿ブルース』はユーモア性・・・というよりも、ギャグ性が強い。転換中から舞台上手にスピーカーを置き、なにか甲高い響きがチュウチュウとつづけられる。途中から、機械で変換された女性の声のようなものが加わり、妙なサウンドがつづいた。やがて、客席側からトロンボーン奏者がマウス・ピースをもって登場し、種明かしがおこなわれる。その後は、舞台上でのパフォーマンスとなるが、トロンボーンに向かって喋らせることで、膨張した声が響く部分は、正に『ぶらぶらチューバ』と同じ発想だ。

さらに、ミュートを使うことで、サウンドは変形をつづける。2つ目のミュートが取り出され、それを装着するのかと思いきや、最初のミュートをコツンと叩くのが笑いのポイントだろう。夜の西新宿というロケーションを念頭に、酔っぱらいや若者たちが蠢く混沌とした風景を風刺する意図は明らかだが、小出の場合、その風刺対象を客観化せず、そこに自ら入っていくというのが面白いところだ。おちゃらけ一辺倒ではなく、短くも、夜の寂しさに呑み込まれていくような瞬間が用意されているのは、作品に奥行きをもたらす。

とはいえ、湯浅のよく似た先行作品が想起されるうえに、やはり、おちゃらけすぎの印象も拭えないのである。まだ「若い女の子」であるうちはいいだろうが、この人は40代、50代になっても、こんな作品を書いていくのだろうか?

私は小学生の折、いろんなパフォーマンスをしてクラス・メイトを笑わせたものだが、私の恩師はそんな私のことを窘め、笑わせることと、笑われることはちがうのだと説教した。私がやっていることは、確かに、「笑われる」行為にすぎなかったと思う。ときに、小出の作品は誰かを笑わせるものであったろうか、それとも、笑われるものであったろうか。私の意見は微妙であるが、どちらかといえば、「笑われる」要素のほうが先行しているように思われた。

【三輪作品】

いつもユニークな発想をする三輪眞弘の『せんだいドドンパ節』も、ギャグ性に立脚した作品のように思われる。「NEO都々逸」として銘打たれた作品は、外面的には始めから大衆性や、サブ・カルチャーのもつ生命感に注目した作品と言えるが、その一方、内部で企図されたものの志は意外と高いようである。

作品は独特のコンピュータ・プログラムによる制御により、キーボードを叩くことで、「インタラクティヴ・ヴォーカリスト」の「高音(タカネ)キン」に、ビブラートや節回しをつけた歌をうたわせることで成立する。キンを思いどおりに操るためには、表向きの歌よりもたくさんのキーを叩くことが必要なようで、キーボード奏者(岡野勇仁)は相当のヴィルトゥオージティを求められる。しかし、それによって歌われるキンの歌は、夏祭りのノンビリした歌謡のようにゆったりした雰囲気だ。このギャップが面白いのである。さらに、キンの歌は拡声器を通して発せられるようになっており、そのこと自体がアイロニカルだ。また、バック・ミュージックはラジカセから響いてくるようになっており、最後、これを持ち去って退場するというオチがつく。

高音キンの名前は、高音がキンと響くの表意と思われるが、「キン=ゴールド」とすれば、「ゴールド=高値」とも読み替え可能で、このキンをつくるにはカネがかかるの底意も含んでいる可能性がある。パフォーマンス全体はキッチュで、屋台で音楽を聴いているような感じがするのだが、その内側には、とても「高い」テクノロジーが詰め込まれているという点もアイロニカルであろう。

このテクノロジーに関しては、三輪と、その協力者である左近田展康によるユニット「フォルマント兄弟」のHPで動画つきで解説されており、さらに興味ぶかいが、もともとお座敷芸である都々逸を念頭に置いているように、これは室内楽というよりも、ある種のパフォーマンスになっていることも否定できず、音楽そのものの生命感は伝統的な芸妓の世界を超えていないようにも思われる。この作品が本当の意味での新しさを獲得するのは、さらに先のことのように思われる。

【保守的な斉木、糀場作品】

これらの作品と比べると、斉木由美、糀場富美子の作品は、より伝統的な「クラシック音楽」に立脚したものだと言えるが、オリジナリティが相当に足りない。

斉木の作品「CONFESSION」(ピアノ独奏のための)は、彼女がキリスト教に真理を見出していく過程を表す信仰告白的な作品ということで、いかにも向こうの人が喜びそうな素材だが、プライヴェートな心理過程があまりに劇的に描かれすぎるのは、第三者からは冷ややかな視線を寄せられることになろう。例えば、高音の内部奏法を用いることで、必然的に奏者が客席側に張り出してくることで、聴衆の目の前に活け彫りのイコンを出現させるような部分は、いささか芝居がかってリアリティに欠けるし、どこまでが音楽で、どこまでがパフォーマンスかわからない。

サウンド的にも、メシアンの作品にブーレーズの『構造』を組み合わせたような作品で、ちょっとした甘みづけにドビュッシーなどが挿入される雰囲気は、いささか直裁的すぎる比喩である。

糀場の『ルブリョフの扉』は、さらに古い。

作品は、アンドレイ・タルコフスキーの映画に触発されたものであるといい、聖者の領域と、一般的な信徒の領域を隔てる扉に描かれるイコンをモティーフとしている。現代音楽的なイディオムを意図的に用いず、ヴァイオリンの響きの味わいを丁寧に引き出そうとする意図はわかるが、結果としては、ヴィルトゥオージティの高い外向的な作品になっており、これならば、パガニーニなど世紀の大ヴィルトゥオーゾの作品と比べても、さほど隔たらないことになる。

糀場は受賞作品も耳にしているが、彼女は多分、とりたてて「新しい」作品を書こうという意志をもっているわけではなく、もっと手の届きやすい素材をリラックスした手法で生かしきりたいという傾向がつよい。その潔い発想には敬意を払うべきだが、その行き方で糀場らしい個性を発見し、外部に訴えていくことは実のところ、通常の現代音楽的なイディオムを開拓していくよりも、はるかに厳しい道のりとなるであろう。幸い、ヴァイオリンに優れた協力者がいるようで、作品自体の響きはよく組織されている。素晴らしい友人をもったことに、感謝しなくてはならない。

【真面目すぎる法倉作品】

法倉雅紀の『炎の』第5番(カギロイノ)は、柿本人麻呂による『万葉集』の和歌を、鴨長明が読み下した有名な一句「東の野に炎の立つ見えて反り見すれば月傾きぬ」をモティーフに、ピッコロ独奏のために書かれた作品。歌を詠むときの精神的な闘いを描いた作品である点は、先日、アンサンブル・ノマドの演奏で聴いたフィンランド人の作品がオーバーラップする。ただ、ポエジーの捉え方は、それと比べてより直截である。

しかし、例えば人麻呂が渡来人であることも法倉は知識として知っており、彼の作品を選んだところに、法倉の意図が見て取れる。つまり、人麻呂は渡来人でありながら、日本人のこころを捉える和歌の道で身を立てようとした人だ。これは極東の日本人でありながら、西洋音楽の道で志を立てようとする法倉の身の上と近しいように思われる。篳篥のような和楽器ではなく、ピッコロを使ったのも、その意味で重要な意図を含んでいる。法倉は、異なる2つの文化を繋ぎ止めるものとして、和歌のポエジーを選び、その表出に関しては和洋を組み合わせるという手段をとったのだ。

以上のような図式から、この作品は相当にスピリテュアルな性質を持っているのは明らかである。ピッコロの永井由比の吹くピッコロは、自然、鋭く、突き刺すような響き、一音一音に魂を込める和歌の世界を、最初の望月(こちらは俳句だったが)よりもしっかりと表現できている。しかし、永井が読み上げる「ヒムガシノ!」「カギロイ!」などという言葉を読み上げるスタイルは、鋭さだけの一辺倒であり、抑揚ある和歌の表現とはいささか相容れない部分もあるように思われる。

法倉がどの程度、『万葉集』や万葉仮名について学んだか知らないが、例えば、万葉仮名の読み下しをする場合、まったく意味のない文字というのがある。また、仮名の一字を読み違えるだけで、作品はまったく異なったものとなり、異質なポエジーを生み出すことになる。簡単にこうと決められない難読文字では、アイディアに満ちた読み手のセンスが問われる。周知のように、現在の研究では鴨長明の読み下しは正しくない可能性が強いとされているが、歌に対するセンスが圧倒的であるために、誰も文句を言えない状況になっている。

そのようなことを頭に入れれば、もうすこし音楽的な発想もゆたかになっていくであろうし、万葉の歌そのものに含まれる空白的なものへの感覚や、そこに感じ取れるファンタジー(ポエジー)などをしっかりと表現できるようになるはずだ。人麻呂のこの句の読み下しは、あまりに見事な芸術的解釈であるために手出し無用となっているが、読み下しとしてはいささか問題があるものとされていることは既に述べた。そこを押し通した鴨長明の豪腕や、それを正すことができなくなっている現在のアカデミックの複雑な事情を考えていくと、よりアイロニカルな見方も可能となる。法倉の解釈は、なにごとも真面目すぎるのが欠点で、モティーフからの広がりに欠けるのが難点だ。

【すべてを洗い流す藤倉作品】

しかし、当夜の喧噪を洗い流すような最後の藤倉作品には感銘を受けた。『SAKANA』と名付けられた藤倉の作品はテナー・サックスのために書かれているが、まず、聴衆の前面に立って演奏するという常識を拒否する。以前に聴いた管弦楽作品でも、藤倉は空間性を利用した作品を書いていたわけだし、そのこと自体は「またか」という印象にすぎなかった。

ところが、演奏が始まってみると、これが素直にこころに響く。正面に置くべき奏者を客席側にもってきているのだから、私はなるべく前をみてこの作品を聴くように努めたが、これが良かったのだと思う。こうしていると、我々にとって過剰に働きかける視覚情報がないところで、響きだけに集中した藤倉の作品を、純粋な響きとして楽しむことができたからである。

サウンド的には多少、ブーレーズによるクラリネットのための作品『二重の影の対話』みたいな作風を感じさせないこともないが、もっと穏やかで、優しい藤倉的な美質が、この作品には詰まっているように思われた。微分音が多いそうだが、そのことが影響しているのか、なるほど魚が泳ぐ水のなかで聴くようなふうわりしたサウンドが心地よい。いくつかのリズム・パターンが交代的に表れ、この安定感が作品に落ち着きをもたらしている。一方、奏者はこれを手がかりにして、作品とコミュニケートする。このリズムが、作曲家、演奏者、聴き手のコミュニケーションのカギになっているのではないかと思う。

最初に述べたように、あらゆる機知、アイディア、脱線、変わった楽器の変わった奏法が飛び交った演奏会のなかで、それ自体、特徴を持たないサウンドの、静謐な輝きが沁みだしてくる藤倉作品は、傑出しているように思われた。もしも、この作品がなかったら、私はもっと「垂れている」という印象をもって帰路についたであろう。しかし、このもっとも優れた作曲家だけが、この場にいないのは残念であった。

【まとめ】

私は後半だけの臨席であったが、前半から聴いていれば、この20年で、随分とものの考え方も変わったという認識をもったのではなかろうか。ほとんど痩せ我慢のような新しさへの試みが徐々に放棄され、それとは別の方向での作品の生命感というものが試されてきている。そのなかには、現代音楽が捨象してきた笑いや生活の要素が復活し、コミュニケーション手段も、よりわかりやすいものが選ばれるようになってきた。

しかし、問題点がある。それはあまりにもロジックが垂れてしまい、作品を組織する根本的な構造が浅くなっていること。また、聴き手とのコミュニケーションを重くみるのはいいことだが、それが行きすぎ、あまりにも劇的な・・・つまり、説明的な表現が出てきていることや、楽器の珍しさや奏法の新しさばかりが先行し、その用い方に深みがないこと。これらを綜合して、何とかして評価されたい、人気を得たい、少なくともわかってもらいたいという意識が強すぎること、これらの問題には十分な警戒が必要である。

例えば、望月が箏を使った作品に愛情を持ち、先達が深めてきた可能性をより深く掘り下げていこうとする意志は立派である。しかし、そのような試みを為せば為すほど、望月は自分に厳しい創作態度をとる必要がある。

日本人が和楽器を扱うのは、なるほど自然すぎるほど自然なことのようにも思えるだろう。しかし、実際には、今日の日本人の多くは実際、和楽器の響きを直接、聴いたことがないのではなかろうか。例えば、細川俊夫氏は、尺八の響きを自分の音楽の原風景と言っていたが、このような発言にはレトリックがある。なぜならば、細川は1955年生まれで、その時代、虚無僧が尺八を吹きながらさかんに行脚していたとは思えないからである。ましてや、望月の世代で、和楽器がソウルに染みついたものであるという説明はつきにくい。

よしんば、その個性を独特に引き出し得たとしても、その作品が例えば海外で評価された場合、その評価が純粋に作品の素晴らしさに基づいているのか、珍しい楽器へのエキゾチシズムに基づいているのかを判別するのは難しい。だから、和楽器による新しい音楽の製作は、安易に為されるべきではなく、為すとするならば、本当に優れた作品以外は破り捨てる具合の気合いでないとならないと思うのである。

ただし、そのことはなにも和楽器に限った話ではなく、今回、発表された作品の多くが、作品そのものの魅力よりも、楽器そのものの魅力や、それを弾く演奏者の素晴らしさに立脚していて、作品そのものの価値がそれに十分、見合っていない場合が多かったことを思い出してほしいのだ。あるいは、この時代、もはや作曲者の個性なんていうものよりも、楽器や演奏者の魅力に頼るよりほかにない状況なのかもしれないし、そのほうが理解されやすいという、現実的な事情もあるのかもしれない。

幸い、ここに集められた作品の作曲者の個性は、非常にわかリやすく濃厚だ。しかし、演奏にしても同じことだが、クラシック音楽においては、個性が「ある」ことではなく、個性に「打ち克つ」ことこそが、作曲家なり、演奏者の勝利なのだと思っている。つまり、アプリオリにある自分の個性を発揮すること(それだけでも大仕事だが)よりも、その個性を演奏伝統やその流れのなかに位置づけ、新しいものを付け加えるという段階にこそ、重要なものがあると考えるのである。そこでは、生のままの「個性」は通用するものではなく、ときには、それを抑制することのほうが大事になる。

どんなものであれ、個性があることが重要だという民主主義的な価値観はもはや古くさく、今日、そのような個性が氾濫するなかで私たちが研究すべきことは、自らの個性をいかに制御し、コントロールして、その芸術のなかで価値あるものとして高めていくか・・・という高次の議論であるように思われる。それゆえ私などは、剥き出しに個性的なものよりも、オーソドックスで保守的なもののなかに位置づけられた、堅固な知性に惹かれるのである。

その意味で、最後に演奏された藤倉の作品は象徴的であろう。彼に対しては、いつもブーレーズの影響という決まり文句がついてまわるが、私はそのことが必ずしも、藤倉の個性を損なうものではないと思っている。一時は「劇場を爆破せよ」とまで言っていたラディカルなブーレーズに対し、藤倉大は十分に優しく、人間的な素質を持っている。周知のとおり、技法の模倣は、常に芸術を前進させるための糧になってきた。よりちかい時代では、それはコラージュなどの形で、それ自体が新しさとしてもてはやされもした。藤倉はその道を歩みながら、着実に、自分らしい穏やかな音楽をものにしつつあるのではなかろうか。

この段階で、これらの作曲たちに完全な完成を望むべくもないのは当然だ。とありあえず、9つの宝石の原石の、未だ見えざる輝きを楽しんだということで十分だったとしておこう。

【プログラム】 2010年8月28日 19:00〜

1、望月京 インテルメッツィⅡ
 (箏:吉村 七重)
2、原田敬子 BOOKⅠ for accordion solo
 (アコーディオン:シュテファン・フッソング)
3、山本裕之 パルラーテ:パルラータⅠ〜Ⅳ
 (tp:曽我部 清典)
4、三輪眞弘 せんだいドドンパ節
        〜NEO都々逸シリーズ
 (キーボード:岡野 勇仁)
5、斉木由美 CONFESSION
 (pf:山田 武彦)
6、糀場富美子 ルブリョフの扉 for solo violin
 (vn:戸田 弥生)
7、小出稚子 西新宿ブルース *改訂版
 (tb:村田 厚生)
8、法倉雅紀 「炎の」第5番
 (pic:永井 由比)
9、藤倉大 SAKANA
 (サックソフォン:大石 将紀)

 於:サントリーホール(ブルーローズ)

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