2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ

« 大阪センチュリー響 厳しい民営化への道 | トップページ | ベルティーニ マーラー 交響曲第10番:アダージョ ・・・往生際の悪さもときには美と連なる »

2010年8月 6日 (金)

小森輝彦 & 服部容子 デュオ・リサイタル vol.6 @東京文化会館(小) 8/5

小森輝彦と服部容子によるリサイタルは第2回をはじめに、第4回から第6回となる今回まで聴きつづけてきた。一流の劇場とはいわないにしても、伝統的なレパートリー制を維持するドイツの地方劇場で専属として歌い、そこでトップの人気を誇るという小森と、経験豊富、マルチな才能に恵まれたピアノ総合芸術家である服部のデュオは、毎夏、実にエキサイティングな一夜を我々にプレゼントしてくれる。

当初は10回までという計画だったようだが、6回目となる当夜のリサイタルを前に、少なくとも11回目があることが予告されたのは、ファンにとっては実に喜ばしいことであろう。今回は、直前に小森が二期会公演、ベルリオーズの劇的物語『ファウストの劫罰』に出演した関係もあるのか、後半はフランスのオペラ・アリア。前半に、シューマンの(op.39)の『リーダークライス』という構成でおこなわれた。

また、回を追うごとにお互いの信頼感を高めあってきた結果なのか、2人のリサイタルは、デュオとしての性格をより色濃くするようになった。今回、ショパンの『バラード第4番』とドビュッシー『前奏曲集』からの3曲が演奏され、ピアニストの出番がより拡張されているのも見逃せない。

【女王のバラード】

まず、その服部のソロのパフォーマンスから見てみたい。私もごく狭い体験であるとはいえ、いろいろとピアニストの演奏に接してきたが、日本のコレペティのなかでは・・・などと区切りをつけることなく、すべてのピアニストのなかで、服部ほど重いインパクトを与えてくれた弾き手というのもさほど多くない。この日のショパンもずっしり重厚な佳演であったが、仮に彼女が世界的に有名なピアニストだったとしても、自分としては、まったく違和感がないほどである。私たちがこうして気軽に、日本人の声楽家のリサイタルなどで控えめにしている彼女の演奏を聴けるというのは、実はとても幸運なことなのではなかろうか。

ショパンの『バラード第4番』は、実に厳しい演奏である。服部の演奏は、アプリオリ(自明)にショパンらしいと言われるようなイディオムを、すべて洗い流したところに始まっている。テンポ・ルバートや、華麗で軽妙なラインどりといった要素さえ、ギリギリのところまで絞りに絞った演奏は、聴く者をかえってドキドキさせることだろう。それらに代わって、服部が前面に押し出したのは左手のどっしりとしたキープの重みと、和声の繊細な重なりあいについてであった。一歩間違えれば、ジャン・ファシナの言うように(若いピアニストへの手紙)、バスの重みで作品全体を押し潰してしまうような演奏にもなりかねないところだが、そうはならないのがミソなのだ。

驚くべきことに、このような演奏にもかかわらず、服部の演奏は決して、ショパンらしくないものではあり得なかったのである。後半のヤマ場にかけて響きが凄絶になっていくにしたがって、ようやく、うっすらと感じ取れるような隠蔽されたルバート。昨今のピアニストはいかに見せびらかすかということに、夢中になっているというのに、服部は全部、おしとやかに隠す音楽をつくるのであった。先日、草冬香のリサイタルでのショパン演奏について、ルバートを装飾的なものとして忌避する傾向があるのではないかと指摘したが、服部の場合は、そのような消極的な選択というよりは、隠すということにより大きな喜び、より深い美意識を感じているのではないかという風に思える。

ともかく、ショパンの作品において、適度なルバートを甘く絡み合わせることなくして、満足なフォルムを抉ることは不可能にちかいが、服部はそこに頼らずに、しかも、ショパンらしいフォルムを崩すことなく、自分らしい表現を試みようとしている。その姿勢は例えば、ドイツ的な構造主義に徹したアンネローゼ・シュミット(過去記事を参照)ともちがうし、もちろん、ポーランド派のいくぶん華奢な演奏(私はこれが好みだ)とも異なっている。もしかしたらウィルヘルム・バックハウスがショパンの『バラード』を弾いたら、こんな感じになるのではなかろうか。その優雅なフォルムは正に奇跡のように広がり、無理なく凝縮している。サウンドは重厚で、バラードの原義を感じさせる立体的な劇性に覆われている。

若干、窮屈な面はあるにしても、それが何だろう。正しく「女王の演奏」である。気障なシューマンを模倣して、このように言ってみよう。脱帽したまえ!

一方、ドビュッシーはもっとリラックした開放的な演奏だった。『前奏曲集Ⅰ/Ⅱ』から、〈アナ・カプリの丘〉〈ヴィーノの門〉〈花火〉の3曲であるが、ナチュラルな詩情を丁寧に拾った第1曲を皮切りに、小さなソナティーヌのような構成になっている。音色のゆたかさ、ダイナミズムのコントロール、フレージングやカンタービレのデザインの巧みさ、メカニカル・・・どれをとってみても、世界の一流のピアニストたちに劣らない堂々たる表現だ。特に瞠目したのは、最後の〈花火〉である。注目すべきは機微を得たダイナミズムのコントロールで、詩情の切替に反応して、実に美しい断面を披露しながら、きれいに遷移していくフォルムの見事さには息を呑んだ。最後、一通りのシーケンスが終わってから、燃え残りがくすぶる場面などは、非常に空疎なニヒリズム的な境地を思わせる歌いくちである。

この演奏ならば、ドビュッシーのエチュードとか、メシアンの作品なども、是非、聴いてみたいものだ。

【オペラ・アリア】

一方、小森のほうも充実した声のパフォーマンスを聴かせてくれた。オペラ・アリアのほうでは、やはり、マスネ『エロディアード』の「この飲み物が私にそんな夢をみさせてくれるのだ・・・はかない幻影よ」が素晴らしい。この曲については、実はフランクフルト・ブランデンブルク州立管弦楽団のオムニバス盤で小森の声が吹き込まれており、大体、どんなものであるかは想像がついていた。このなかで、彼は最初の当たり役であったリゴレットと、もうひとつエロデ(ヘロデ王のこと)のアリアを披露している。しかし、やはり、ライヴは一味ちがうというものだ。特に、伴奏の服部の敏捷性が録音のオケと比べて段違いに優れているため、次に述べるような表現的な工夫が際立っている。

この作品はリヒャルト・シュトラウスの歌劇でつとに有名な『サロメ』の世界を、マスネが描いたものだそうであるが、私は浅学にも見たことがない。アリアは第2幕の冒頭に置かれ、叶えられることはないサロメへの密かな愛情を、酒に託して歌う場面と思われる。さて、小森の表現の優れているところは、エロデの年齢が変わるということだ。恋をしているときは、女も変わるが、男も自らの青春を復活させ、若いころに戻っていく。この場面で小森が歌うエロデは最初は尊厳ある王として登場するが、サロメへの愛を歌っているうちに、ドンドン若返っていく。しかし、後半、速度が落ちるところで夢から覚めたように、ぱっと元に戻ってしまう。そこでは元の尊厳さえなくて、恋に関しては無力な男のさもしい姿があるにすぎない。それを歌い終わりで、きりっと立てなおす歌い手の技量が問われているが、これも問題ないだろう。

このようなシーケンスを、非常に巧みに歌い分ける小森の表現の魅力に、私たちは気づかなくてはならない。

ところで、今回、アリアは4曲を披露した。先日、『ファウストの劫罰』の公演について、福井敬はなにを聞いても変わりばえがせず、面白くないと批判したのは記憶に新しい(過去記事参照)。当夜の小森は同じように、声の使い方においては、4人のキャラクターを完全に描き分けるという方向では表現をつくっていない。しかし、これはオムニバス的に歌うリサイタルという場であることを考えた、ひとつの表現手段であった。彼は自分を四者四様に変えてキャラクターを入れ替えるのではなくて、小森という1人の歌い手をどんと中央に据えたうえで、自らの共感に応じて別々の、あるいは、同一の面を角度をかえて聴かせるという選択をおこなったのである。

舞台でオペラを演じる彼と、ここで服部と組み、2人きりで「小森輝彦」を聴かせなくてはならない彼とでは、当然、ちがいがあるべきということなのであろう。

しかし、今回の演奏を聴いていると、ゲラ市において、小森が特別な人気を得ているのも当然だという気がする。というのは、この歌い手は自分の共感を、実に自然な形で歌に乗せることができる稀有な特技を持っているからである。このエロデのアリアでは、自らの地位をも顧みない純朴な愛情に対する、素朴な共感がエロデの身体を通して我々に語りかけてきたし、また、グノーの歌劇『ファウスト』のヴァランタンのアリアでは、彼の場合、頻繁に感じさせてくれる優しさとなって、声に潤いをもたらす。当夜のような幾分か奥ゆかしい表現姿勢においても、彼のそのような特徴はよく表れている。

【リート】

一方、リートの表現も、これまでの5回と同様に素晴らしかった。シューマンの(op.39)の『リーダークライス』は、テノール、バリトン、ソプラノ、メゾ・ソプラノのそれぞれで広く歌われているが、声質により、歌いやすい部分とそうでない部分は変わってくる。多分、バリトンにとってはやや声域が高めで、カヴァリエならば歌えるだろうが、より低音域を得意とする歌手では厳しいということになろうか。例えば、小森の場合は、有名な第5曲の〈月の夜〉などは若干、気を使う部類に入り、一方、第1曲の〈異郷にて〉は気持ちよく高音がはまり、第3曲の〈森の会話〉などはもっと自由自在に歌える感じだろうと思う。そのような傾向が、はっきり表れていた。

よって、全体が本当に良いデキで、貫かれているという言い方は適切ではない。しかし、若干の不安定な箇所はあるにしても、そのような場面でさえ、小森がどのような部分に気を遣ったかは明らかであり、少なくとも表現としての醜さは感じられない。作品の難しさを感じるというのは、もちろん、喜ぶべきではないと思うが、とはいえ、必ずしも悪いことではないようにも思われる。

しかも、小森の歌はドイツ語ディクションの徹底したリズム感にフォーカスしながら、彼の評価される理由のひとつである、イタリア・オペラ的な歌のフォルムの切れ味をきれいに出せるという特質も、しっかりと出せている点には注目しなければならないのだろう。そのような彼の持ち味がわかりやすいのは、彼が主にはオペラ歌手であることも踏まえて、詩の内容がそもそも対話的な第3曲〈森の会話〉であろうか。しかしながら、もっとも惹きつけられるのは、第8曲〈異郷にて〉を歌ったときの噛みしめるような、徹底して表現を大切にする歌への誠意である。

ときに、ここでいう「表現を大切にする」ということは、実はメンタルな問題ではなく、フォルムに対する磨き込みの深みに関する問題だと思っている。この第8曲は徹底した独白的な詩の内容であるが、実は、誰かに語りかけているような面もあるという二面性があるのが面白い。小森が捉えたのはこの二面性であり、まくし立てるような台詞的な歌のフォルムをしっかり抱きかかえ、はきはきと相手に伝える視点が明確である。完全な独白ならば、ゴニョゴニョでいいのだ。しかし、このナンバーは、ゴニョゴニョでは困る。

さて、このリーダークライスはいろいろと突っ込みどころがあり、実は奥御殿、奥々御殿のある懐のふかい歌曲集だと思うが、そのことについて十分に述べる時間はない。

だが、例えば、ローレライが登場する第3曲をみてみよう。ここでは森を行く貴婦人に声をかけた男が、ローレライ(森のなかで男に災厄をもたらす魔女)に出会ってびっくり仰天、まんまと彼女の森に閉じ込められてしまうというオカルト的な内容である。ただし、この歌詞には裏があり、まるで男に一目惚れした女がふざけて、ローレライの台詞を喋っている・・つまり、もうあなたは私の魅力から逃げられない・・・と歌っているようにも思えるところにミソがある。現にシューマンの付曲はすこしもおどろおどろしいものではなくて、朗らかで、愛しあう男女が睦みあうような温かみに満ちている。なんということはない。この詩は、愛しあう男女ののろけあいにすぎないのではなかろうか?

そこを小森たちは、どのように歌ったか。服部のピアノはそのとおり、明朗である。しかし、小森のほうはのろけを前面には出さず、ユーモアを隠してキッチリと歌う。しかし、そのことによって、歌のもつユーモアは聴き手によって勝手に増幅されるであろう。例の服部による「女王のバラード」でもわかるように、彼らは説明的なパフォーマンスをわかりやすく、オーヴァーにやるということは好まない。その代わり、表現をきりっと引き締めることで、かえって表現意図が自由になるという音楽芸術の核心に迫っている。

【まとめ】

結局、この2人のリサイタルのどこを聴くべきなのかといえば、ここに要諦があると言ってよいのであろう。単に真面目なのでもないし、あるはずもない個性を出そうとしてもがくような醜態とも無関係だ。彼らは自分たちの手の届くところにしか、表現が存在しないことを知っており、その厳しい把握のなかで、徹底的に自分を試すという方法を知っている稀有な音楽家である。多分、小森も服部も、自分のパフォーマンスに満足するということはない。もっと出来たのではないか、もっと挑戦できたのではないかといって、あとから悔やむタイプではなかろうか。

それはそれとして、その場でできるパフォーマンスには十分に誇りをもっており、十分な準備を怠らない。服部容子は前述のように優れたコレペティであり、伴奏ピアニストであり、多くの声楽家の相手をしている。そのなかで、小森と特につよいパートナーシップを結ぶことになったのは、どういう理由によるのか、本当の事情は私の知るところではない。しかし、このような姿勢において、また、先に述べたような表現の要諦を隠すという表現の美学において、他ではみられない濃厚な結びつきをもっているのだと思う。

シューマンの『リーダークライス』の第1曲〈異郷にて〉は、そういう意味で白眉のデキであった。正に絶望的な第1曲から浮き沈みを繰り返し、愛の成就という至高の歓喜によって12曲を締め括る歌曲集の最初は、実に甘い旋律をもちながら、胸を締めつけるような寂寥感がある佳曲である。しかし小森は、そういった曲の要諦を隠すことによって、かえって活き活きと強調するという得意技をもっている。彼の歌はみたところ、何の変哲もない自然さで流れている。しかし、それだからこそ、歌に必然的に準備された引っ掛かりがやってくると、私たちの胸に仕掛けられた爆弾は自動的に爆発し、言いようもなく深い、内側から滲み出してくるような濃厚な感情に満たされていく。

リサイタルの最初でこんな体験をさせれては、もはや、その内容にのめりこむほかないだろう。確かに、若干、フォルムが乱れたところもないではない。だが、それが何だろうか?

次回は、来年8月6日の開催が予告された。やはり、「その日」であるためか、服部が日付をコールすると、若干、会場からもどよめきが起こった。小森はリサイタルの最後に、日本語の曲で締め括ることに決めているようだが、偶然とはいえ、この日付になってしまった以上、やはり原爆に関する歌をうたってほしいと願うのは、私だけなのであろうか。直接、原爆の惨禍をうたったものでないとしても、なにかしら鎮魂の想いが籠ったものであってほしい。今年は平井堅を歌ったから、広島ではないけれども、『長崎の鐘』なんかもいいのではないかと思う。

あと何時間かで、今年もその時間を迎える・・・。

« 大阪センチュリー響 厳しい民営化への道 | トップページ | ベルティーニ マーラー 交響曲第10番:アダージョ ・・・往生際の悪さもときには美と連なる »

声楽」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/49071953

この記事へのトラックバック一覧です: 小森輝彦 & 服部容子 デュオ・リサイタル vol.6 @東京文化会館(小) 8/5:

« 大阪センチュリー響 厳しい民営化への道 | トップページ | ベルティーニ マーラー 交響曲第10番:アダージョ ・・・往生際の悪さもときには美と連なる »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント