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2010年9月20日 (月)

ケフェレック 鏡 ほか ル・ジュルナル・ド・パリ Ⅵ 9/19 16:00〜

同じくル・ジュルナル・ド・パリの第6公演は、ベテランのケフェレックとペヌティエによる重厚なプログラムである。

まずはケフェレックが登場し、はじめに、ラヴェルの『ソナティーヌ』を弾いた。あとの『鏡』もそうだが、私は彼女の録音も所有しており、しかも、よくかけているので愛着がある。しかし、この日の演奏はそれよりも、ずっと静謐な感じである。第2楽章などは響きを確かめながら、慎重な演奏ともいえそうだ。直向きに鍵盤に向かうケフェレックの姿勢は、いつ見てもいいものだが、録音のときよりも年齢を増したケフェレックの演奏は、いくぶん慎重でありながら、ライヴであるせいか、身体の動きで響きの重みをコントロールし、とても情熱的と映る場面もあった。

次は、私としても特に愛着の深い『鏡』であるが、抜粋ではなく、全部で30分以上かかる5曲全曲の演奏は意外に珍しい機会だ。第3曲の「洋上の小舟」や第4曲の「道化師の朝の歌」は管弦楽編曲もなされていて有名だが、私の愛情の中心は、第5曲の「鏡の谷」にある。下手な人がやると、ドビュッシーと区別のつかない音楽になってしまうが、もちろん、ケフェレックではそんなことはあり得ない。

響きに対するペシミズム的なコレクションをクールに打ちつけるとともに、そこにそこはかとなく張りつくラヴェルの内面を浮き彫りにしていく。パリに次々に鳴り響いたという鐘の音が、ラヴェルの「在処」を明らかにするが、その場所が平野のパリにあるはずもない谷であるというのが皮肉である。いまでこそ美しい曲として認識されているが、初演時はまったく理解を得られなかったという曲集。前日のヒンデミットではないが、そうであったとしても、自らの道を貫こうとするラヴェルの深い違和感が、この曲に詰め込まれているように思われる。

ケフェレックの演奏では、まず、最初の「蛾」が印象的だ。題名は我々からするとグロテスクな感じだが、フランスではきっと、蝶々の延長線上に捉えられているのであろう。その最初のきらきらした蛾の群れのイメージが、きわめて美しく名刺代わりの輝かしい響きである。「悲しい鳥たち」は導入部の慎重な打鍵につづき、低音による鳥の薄い目覚めの声に、背筋が寒くなる感じを覚えた。「洋上の小舟」は水のイメージよりも、水面からもくもくと立ち上がるミストのイメージがつよい。「道化師の朝の歌」はケフェレックのヴィルトゥオージティが輝き、彼女がブレンデルの弟子であることを思い出させる。

ひとつ面白いと思ったのは、こうして5曲をつづけて聴くと、ラヴェルは必ず、次の曲を予告するよるような伏線を入れているということだ。例えば、「蛾」の最後では、次のナンバーで印象的な鳥たちの声のサウンドが先取りされている。また、「道化師の朝の歌」では序盤の快活なサウンドのあとに表れる内省的な部分が、次の「鏡の谷」の内的表情と直結しているように思われる。このようなことは、5曲のうちの1曲だけを弾く演奏会を聴いた場合にはわからないことだけに、こういう機会にまとめて聴けたことは、やはり貴重な機会であったといえる。

最初の『ソナティーヌ』のあとでは拍手が出たが、彼女はできれば、全曲を一挙に弾きたかったような雰囲気だったため、聴衆も『鏡』のあとはアプローズを自粛した。そのまま突っ込んだドビュッシー『映像Ⅰ』からの「水の反映」は実に見事な演奏である。高名なピアノ教師であるドミニク・メルレは、ドビュッシーとラヴェルの音楽はあまりにもちがうため、1つの演奏会で両方を弾くことはないと言っていたが、これほどきれいに弾き分けることができれば、メルレにも文句はないだろう。確かに、2人の音楽には共通点もあるとはいえ、響きやリズム、それらの発想において、根本的なちがいがあるように思われる。しかし、油断をすれば違いがわからなくなる繊細な音楽でもあり、先述のように、「鐘の谷」などは、一歩間違うとドビュッシー的な響きになもなりかねない危険性がある。メルレは、そのことをよく知っているのだ。ところが・・・。

曲間で若干の間をとり、多分、目を閉じてラヴェルの音楽を追い払ったケフェレック。記憶のなかから呼び覚まされたドビュッシーの音楽は、メルレの懸念とは正反対に、ラヴェルを先にたっぷり弾いたがゆえの厳しさに満ちていた。もっとも、ドビュッシーの音楽の「厳しさ」とは、ボルトが抜けきったような響きの自由さのことである。リラックスした柔らかい響き、うっとりするような音楽のしなやかさ。都会的なラヴェルに対して、田園的なドビュッシーとはよく言われることだが、もうひとつ付け加えるとすれば、緊張のラヴェルに対して、弛緩のドビュッシーというのはどうだろうか。

少なくともケフェレックの弾くドビュッシーは、ゆったりした癒しのサウンドで、どこにも骨っぽいものがない。

これに対して、『映像Ⅱ』を演奏したペヌティエのドビュッシーは同じようにリラックスしたサウンドでありながら、いくぶん骨組みに立体感があるように思われる。私はペヌティエのことを、フランスでチッコリーニと双璧の重要なピアニストと見なしているが、その重要なポイントは、こうした構造的な重みをフランス的な音色の繊細さと結びつけていくときのセンスの素晴らしさと、音楽に対する真摯さ、そして、それぞれの音楽の内面に踏み込んでいく力強い潜行力に求められる。

以前、私がむせぶほどの感動を味わったフォーレの『ノクチュルヌ』では、第三の要素が重要であった。しかし、この日の『映像』では、なによりも1番目の要素が耳についた。確かに風が吹きわたる、第1曲の打鍵のしなやかさと、チャーミングな構造を浮かび上がらせるアーティキュレーションの妙。多彩な詩情を集めながら、ついにシンプルな月の描写へと回帰していく「荒れた寺にかかる月」の繊細な表情づけ。そして、「金色の魚」ではその色彩美がペヌティエの厳密な打鍵に支えられて、構造的にも堅固な味わいを示し、結果として、単に美しい魚の描写ではなくて、神々しいまでに高められた魚のイメージに行き着いていたのだ。

最後は、2人が揃って登場。聴衆の温かいアプローズに包まれていた。この2人のコンサートは、何といっても貴重。これで2000円は安すぎる。

【プログラム】 2010年9月19日

1、ラヴェル ソナティーヌ
2、ラヴェル 鏡(全曲)
3、ドビュッシー 水の反映〜映像Ⅰ
4、ドビュッシー 映像Ⅱ(全曲)

 pf:アンヌ・ケフェレック(1-3)
   ジャン=クロード・ペヌティエ(4)

 於:東京オペラシティ・タケミツホール

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