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2010年9月30日 (木)

アンティ・シーララ ブラームス&シェーンベルク @浜離宮朝日ホール 9/29

【シーララの印象】

アンティ・シーララは30歳前後のライジング・スターたちのなかでは、特に個性的な活動をおこなっているピアニストである。1997年のベートーベン国際(ウィーン)を皮切りに、2000年=ロンドン国際、2003年=ダブリン国際と、次々にコンペティションを制したエリートであるだけではなく、その後の活動のユニークさも際立っている。私はブラームスの録音(2004年リリース)を(最近、)耳にして、これは只者ではないと思ったが、期待があまりにも大きすぎたのか、当夜の実演では若干、評価を下げることになってしまった。

生で聴くシーララは、実にスピントのつよいピアニストであった。会場やピアノ、調律の具合、もちろん、前すぎた私の座席どり(9列/センターブロック右翼)も影響したのか、随所に叩きすぎている印象が強かった。これがブラームスだからいいようなものの、ショパンだと恐ろしいことになると思っていたら、アンコールが正にそれで、予想どおりの野太いショパンであった。これはいけない。せめて東京文化会館の小ホールあたりで聴いたら、どうだったのだろうか。響きの強さがあるから、N響の公演(シューマン)でなかなか好評をとっているのは理解しやすい。

才能ゆたかだが、まだまだ粗削りだというのが私の印象である。

【プログラミング】

プログラミングは、面白い。今回は、ブラームスとシェーンベルクの作品が組み合わされている。シーララ自身が書いた文章によると、シェーンベルクは意外にブラームスを高く評価しており、『革新主義者 ブラームス』というエッセイを書いて、その先進性を買っていたのだという。前半はそんなブラームスの最後期の作品『6つの小品』(op.118)とシェーンベルクの初期作品『3つの小品』(op.11)を並べて、シェーンベルクにおいても、ブラームスにおいて確認できるような劇的なイメージと無関係ではないことを示そうとした。また、後半では、そうはいっても理知的なシェーンベルクと、情熱的なロマンティストのブラームスでは話が違うということを、2人の初期作品で比較するという構成になっている。

そういえば、グレン・グールドもブラームスとシェーンベルクをともに得意としていたが、彼のなかでも、シーララと同じようなイメージが浮かび上がっていたのであろうか。

【前半の演奏】

私としては、前半の演奏のほうが好きだった。特に、ブラームスの(op.118)は若さに似合わぬ落ち着いた音楽運びで、音色や表現の重厚さが申し分ない。第1曲は軽いルバートが効果的に用いられ、ゆったりした構造を編み上げる。第2曲は冒頭、ショパンっぽいレッジェーロな響きを配しながら、今度はルバートを抑え、クールな表現に徹することでブラームスらしい奥ゆかしさを出している。第3曲のバラードはこれとセットで扱われ、いかにもドイツ的なバラードの系譜を貫く堅固な構造観をよく掴んでいた。次のインテルメッツォと、ロマンツェがまた1セットだ。特に歌曲のエッセンスが溶け込んだ後者の演奏が味わい深く、あくまでピアノ的な表現に徹しながらも、潤いのあるカンタービレが浮かび上がり、内省的な奥行きが加わってくる。

シェーンベルクがいかなる面をもって、ブラームスのことを革新的と考えたかは詳らかではないが、多分、和声の進行や和音の選び方に対する分析的な視点から導かれた結論と考える。そのことに関するものでは、第2曲と終曲のインテルメッツォでのアルペッジオの描き方などに特徴があり、和声の面白さを強調して、こころなし客観的な表現を試みているのが面白い。特にフィナーレでは、明らかにあとのシェーンベルクを意識した構造的な積み上げが丁寧に表現され、そこからいかにも変ホ短調的な危うい響きが立ち上がってくるときの感興が印象ぶかくもあった。

アプローズもそこそこに、自ら譜面をもってきて、すぐに弾き出したシェーンベルクの演奏は、怜悧で理知的にすぎるというシェーンベルクのイメージを外し、彼の一部の歌曲や管弦楽作品、それに鍵盤作品にもみられるような、ヒューマニスティックな表情を混ぜ込んでの演奏である。鋭敏な打鍵ながら、こころなしゆとりのあるアーティキュレーションによって、作品はなるほどブラームス・・・そして、それを通して、ワーグナーやドビュッシーの影までちらつくようなイメージになっている。

【後半の演奏】

後半は、シェーンベルク→ブラームスの順である。シェーンベルクは飛ばして、ブラームスについて触れる。このソナタ第3番は、ブラームスがまだ20歳のときに完成した作品であることからもわかるように、やりたいことは全部やったというほど、内容が豊富な作品であるが、その分、いろいろ問題のある作品でもあることはしばしば指摘されるところだ。

シーララの演奏においては、そのことが強調されすぎているというほどに、欠点が激しく目立つことになっている。例えば、第1楽章の力みかえった構造、特に、高音にアクセントのある旋律構造のいびつな・・・あるいは、スピント的な構造をシーララは録音よりも明確に打ち出すのだが、既に述べたような条件の影響もあるのか、表現はどうしてもうわずって聴こえてしまい、アーティキュレーションもいくぶん単調なものに思えた。

このため、次のような弊害がある。シーララはこの作品における構造のダイナミックさをプラスに評価しており、それをワイドなダイナミズムと、思いきった打鍵の鋭さで表現しようとしていた。もしも、それにもかかわらず響きがゆたかで、十分に無理のないものに聴こえるなら、シーララの表現には妥当性があると判断できる。しかし、既にみてきたようにブラームスの若さばかりを感じさせるような表現のアラが目立ち、しかも、叩きすぎの印象まで残るとあっては、いささか考え方にヴァリュエーションをつける必要がありそうだ。

つまり、ダイナミズムや打鍵の質だけに頼らない表現の奥行き、ヴァリュエーションが必要だということである。このことに関して、シーララの表現に「青さ」を指摘するのは論難ではないだろう。

アンダンテ・エスプレッシーヴォの大半の部分における柔らかい表現は、シーララというピアニストの質の良さを象徴するもので、こうしたものをなるべく損なわないような表現を見つけたい。例えば、この楽章の後半にみられるテクニカルな部分での叩きすぎなどには、もっと慎重になるべきだ。そうすれば、偽終止を粘りづよく繰り返す弾き終わりの、明らかに苦心を重ねた磨き込みがもっと功を奏することになるだろう。

スケルッツォ以降はほぼアタッカで繋げられ、5楽章のソナタが、構造的には意外に凝縮されていることを示す点は面白い。終楽章は、コーダに書かれた見事なカノンが有名だが、ポリフォニーの構造はそれよりもかなり前から印象づけられ、ベートーベン、そしてバッハへの憧れを示すかのようだ。コーダの演奏はテンポを速める部分で、悪魔的な疾走感を示すが、これはやや力ずくの印象も与える。しかし、その限界点で踏み止まり、ぐっと形式を受け止めるようなダイナミックなルバートが用いられるのは、核心を突いたアイディアともいえる。

終楽章は全体的には「マ・ルバート」(ルバートを伴って)であるが、規模の小さなルバートをチョコチョコと挿むだけで、大げさではない。その意味でも、シーララの表現は終盤のカノンにより大きな比重が注がれているのは明らかで、この部分に関しては、やはり凄いという感想を持たざるを得なかった。

【まとめ】

シーララはまだまだ日本での知名度はなく、招聘元、パシフィック・コンサート・マネジメントの営業もいまひとつだったのか、客入りはまばらだ。プログラムも渋すぎた(だからこそ、私は来たのだが)のかもしれないが、N響に出るようなアーティストなのだし、もうすこし頑張れたのではないかという想いもつよい。終演後はCD購入者へのサイン会が予定されていたが、もとが少ないために、並ぶ人もさほど多くはなさそうで、どうにも気の毒になった私はCDを買って並んでみようかと思ったほどだ。きっと、短いサイン会であったにちがいない。

今回のリサイタルは完全には満足でなかったが、その才能の素晴らしさは私が改めて言うまでもないだろう。しかし、彼には今後、次のようなことを求めたい。

まず、レパートリーの面では、ハイドンやバッハなどへの挑戦。できればフォルテピアノなどを経験し、ダイナミズムに頼らない表現の奥行きを増していく努力をしてほしいのだ。次に、室内楽などアンサンブルでの経験。このことにより、彼の表現はもっと視野が大きくなり、客観性がより強くなることは必定だ。これで特に成功したのは、アンスネスである。そして、できれば、ツィメルマンばりにピアノも持ち歩くぐらいの気概がほしい(日本まで持ってこなくてもいいが)。彼の演奏は、楽器や場所を特に選ぶものだと思うからである。

録音を聴くかぎり、事前にはアンスネスばりに完成度の高いピアニストだと思っていたが、実際には、まだまだ粗削りな部分が大きい。ということは、可能性もまだ大きく残っているということだ。また、アンスネスばりという意味のなかには、主に響きの美しいピアニストというイメージも混ざっていたが、こうして聴いてみると、チッコリーニやオピッツといったスピント系への道も開かれているように思われる。まだまだその道を究めるには遠いが、長い目で見ていきたいピアニストであるとはいえるだろう。

【プログラム】 2010年9月29日
 
1、ブラームス 6つの小品 op.118
2、シェーンベルク 3つの小品 op.11
3、シェーンベルク 6つの小品 op.19
4、ブラームス ピアノ・ソナタ第3番 op.5

 於:浜離宮朝日ホール

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