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2010年9月29日 (水)

シベリウス 交響曲第6番 1923年 P.ベルグルンド指揮ヘルシンキ・フィル(EMI)

フィンランドの作曲家、ジャン・シベリウスについてはいまさら説明の必要もない。しかし、その作品のなかでよく知られたものは、ほんの一握りでしかない。交響曲でいえば、キャッチーなメロディで知られ、わが国でも名曲として定着している交響曲第2番が圧倒的に高い知名度を誇る。それと、交響詩『フィンランディア』が人気の上では双璧をなす。ただ、シベリウスが好きで堪らない人たちにとって本当に大事と思えるのは、交響曲では第5番以降の3曲だろう。形式美の凝縮した第7番や、フィンランドの雄大な自然が詰まったような第5番もいいが、私にとって愛着が深いのは、その間にある第6番である。

ここでは、パーヴォ・ベルグルンド指揮ヘルシンキ・フィルの演奏を中心に、この曲について語ってみたいと思う。

【シベリウスの人生】

その前に、シベリウスの人生を概観してみよう。シベリウスは1865年、フィンランドのハメーンリンナという都市に生を受けた。父親は医師であったというが、シベリウスが幼いころに亡くなっている。シベリウスのファーストネームである「ジャン」は本名ではなく、亡き父の名刺に書かれていたフランス名からとったとも言われている。さて、シベリウスは母国・ヘルシンキの音楽院に学んだあと、ベルリンに留学し、ウィーンにもいってカール・ゴルトマルクにも師事している。ワグネリアンで、優れたヴァイオリニストでもあったというゴルトマルクは、ブラームスとほぼ同時代の作曲家で、独学で作曲法を収めたという。

キャリア初期の19世紀後半はロシアとフィンランドの緊張関係が強まった時期であり、それゆえ、シベリウスといえば、交響曲第2番や『フィンランディア』といった愛国的な作品が有名なのである。しかし、シベリウスの本領が発揮されるのは1904年、よく知られているアイノラ荘に入ってからと言われている。この山荘を根城にして、1923年ごろまで作曲をつづけたが、その後、1957年になんと91歳で亡くなるまでに、ほとんどシベリウスは断筆状態になってしまった。

長生きしたことからもわかるように、からだが悪くなったとか、そういう理由ではないようだ。その理由はいろいろに忖度されているが、これといった結論は見出されていないと理解している。創作意欲を失っていなかった証拠として、幻の交響曲第8番について指摘する人もいる。彼の書簡に、その根拠となるものが見出されるようだし、スコアがあったとかなかったとかいう話もある。推理小説的な面白さのある話題ではあっても、シベリウスについて語るにはあまりにも空想的なはなしである。

【非完結的な第6番の魅力】

交響曲第6番は、この断筆も近づいた時期に書かれた傑作群のうちのひとつである。この時期に書かれた作品は、アカデミックにも評価の高い第7番をはじめとして、ひとつとしてハズレのない傑作の宝庫なのだ。第6番は前の5番と同じく、やはりフィンランドの自然と関連づけて考えたくなる作品だが、5番と比べると、よりコンパクトにイメージが凝縮されている。しかし、第7番ほどは客観的ではなく、各楽章が彼の得意なジャンルのひとつであった交響詩的な喚起力に富んでいて具体的だ。

シベリウスは形式の新しさへの感覚をもっている人であるが、その感覚と自己の作風のマリアージュに適当な答えを見つけられなかったため、断筆に至ったというのが私の意見である。ここにみられる2つのセンスは、ワーグナーにおけるトリスタン和音、ライトモティーフ的な面と、それとは対照的なロマン派的な面に相当し、その両方のストリームが悩みながら、ひとつところに凝縮しているのが第6番である。第1楽章の謎めいた序奏には、その悩みが詰まっているように思われるが、そこから出現する走句はきわめて快活で、ストレートな表現である。

これらの要素が対位法のように、ひとひとつのラインとして構造をつくっているように、私には思われる。構造学的には、これは旋法的な手法として説明されるようだが、その説明はかなり舌足らずなうえに、誤解を生みやすい。世界大戦による作曲の中断、パトロンのカルペラン氏の逝去という事実が重なってくれば、なおさらのことだ。つまり、シベリウスはこれらの「死」のイメージに対して、教会旋法などの形式で応えたという話は有名なのだが、どこか頼りない感じがする。私はやはり、こうした形式的な特徴は、シベリウス自身の悩みから導かれたものとして考えたい。

その証拠というわけでもないが、4つの楽章はいずれも完結的でなく、ふわっと響きが見失われるようにして切れてしまう。私には、これが面白くてしようがないのだ。楽章全体の構造はきりっと明確で、形式に詳しい人たちには説明もやりやすいだろう。ところが、その結尾はある意味で期待を裏切るような呆気なさである。死病の人が最後に言い切れなかったメッセージ、途中で強制的に中断された演説、締切前にやり残した仕事、話の途中で席を立った友人、電池切れの携帯で中途半端に残された言葉じり・・・いろんな言葉のイメージが浮かぶが、とにかく、シベリウスの響きは我々の予想を裏切って、いきなり消失する。

第1楽章では、ソナタ形式の型どおりの筋書きが済んだああと、ワーグナー的とも思われる内省的な展開から、シベリウス特有の透明なハーモニーが導かれ、はじめの主題が浮かび上がって、その余韻のうちに響きが消えていく。どこかメルヒェン的な、独特な弾き終わりである。第2楽章も、伝統的な形式に乗っ取りながら、突如、地図を失ったように構造が曖昧になり、付け足しのようなフレーズで響きが消化されてしまう。第4楽章はよりエレガントではあるが、あとで述べるように、その弾き終わりは俳句的な言い落としを含んでいて、奥ゆかしい。

【私の愛する終楽章】

この交響曲に関して、私の愛着の中心はなんといっても終楽章である。この楽章は、木管とホルン、それにヴァイオリンの高音で構成される響きと呼び交わす、ヴィオラとチェロの温かな響きに始まり、それらがドリア旋法の手法で紡がれていくという構造的説明になる。冒頭に現れるモティーフが右肩上がりの構造でゆったりとせり上がっていく2つのクライマックス。特に、前者は初期の『フィンランディア』を思わせる勇壮さも含んでいて気持ちがいい。ただ、後半の上り坂の頂点から、柔らかく減衰していくときのはかなさというものが、芭蕉の俳句に通じるような切ない美しさを湛えていて、私の愛情はどちらかといえば、こちらに傾いているわけだ。

1つの楽章を独立させ、交響詩と名乗らせてもいいような充実した構造観と、甘い旋律美をもつ終楽章の美しさは、ほかにどんな交響曲を並べてみても叶わないほど、ゆたかなイメージに満ちている。最後、一枚一枚ヴェールを被せていくような弾き終わりの奥ゆかしさも魅力的だ。このあたりは、なるほどレクイエム的な雰囲気もなくはない。しかし、よくよく聴いていると、響きはすこしずつ解体され、クラスタ的に展開していくような傾向を示している。そして、その限界線でふっと切れていることに気づくのである。

(終楽章における)このようなイメージは、最初に挙げたベルグルンド&ヘルシンキ・フィルの録音で、もっとも上手に拾われているように思われる。ヴァンスカやセーゲルスタムのようなインターナショナルな指揮者(ベルグルンドもインターナショナルだが)を含め、どちらかというとドイツ的な指揮者は、あまりに構造を優先しすぎるあまり、作品内部に含まれるシベリウス自身の悩みについて鈍感なように思われる。あるいは、「愛情がつよすぎるため」と言ってもいい。

例えば、ヴァンスカ指揮ラハティ響は田舎オケながら、よく鍛えられたシベリウス演奏のスペシャリスト集団といえるのであろうが、きわめて緊張感に満ちたテンポ設定を採ることで、雪国の厳しさが強調されすぎているのがデフォルメとなり、かえってリアリティを失わせている。無用なテンポ変化がなく全体的な構造観に優れているものの、響きはやや浅く、最後もきれいにまとめすぎの印象だ。

セーゲルスタム指揮ヘルシンキ・フィルは響きが肉厚で、冒頭部分のカンタービレには優れている。しかし、その後の動的な部分でテンポを上げて演奏する際、上記のような旋法的な構造のラインを強調しすぎているあまり、若干、リズムが硬くなっているのが歯がゆい。ワーグナー得意の指揮者だけに、そのようなサウンドの積み上げには力があり、聴きごたえのある演奏だが、そこにある構造をあまりにもアプリオリなものとして捉えている点が素直すぎるように思われる。

ドイツ人指揮者ではクルト・ザンデルリンク指揮ベルリン響が最右翼だが、やはりテンポを速めたときに、響きや構造にバランスをかけすぎていて、このナンバーに関してはもうひとつの印象を拭えない。再び北欧の指揮者に戻り、ペトリ・サカリ&アイスランド響は、大胆なルバートの構造を使う独特の演奏であるが、これもシベリウスにしてはあまりに人工的に思える。

ベルグルンドの演奏の良さは、非常に大らかな雰囲気を追いながら、それをきりっとまとめあげる響きの緊張感がいつも効いていることである。響きが多少ゆれるのは、録音時代(1986年)にはまだ多用されていたヴィブラートの具合から来るものであろうか。この微妙にゆれるような弦の響きが、シベリウスの悩みというキーワードにうまく適合しているのかもしれない。テンポの速まる部分も、単にメトロノーム記号にあわせるのではなく、速度の解放をできるだけ辛抱して、全体的な雰囲気の謎めいたところを損なわないようにしていることも重要といえる。

【まとめ】

第7番はシベリウスの交響曲の最後を飾るに相応しい完結形で締められるが、第6番は、それとは対照的な未完成形の極致といえる。未完成だからこそ、開かれる外側への可能性というものもあるのであり、第7番はあくまで受け取るだけの音楽であるのに対して、第6番は聴き手のコミットメント(参加)がより重要な作品と言えるのではなかろうか。

また、第7番は韻詩的であるが、第6番は俳句的なのだともいえる。第2番のときはわかりやすい散文調だったが、シベリウスは数十年かけて、自己抑制こそが最大のテーマである、俳句の境地まで辿り着いたのだ。韻詩はプーシキンのように、若干、自己を飾るイメージがあるが、俳句というのは、名人を(良い意味で)小さくみせる作用がある。優れた人が自分を小さく見せれば、人々は喜んで寄ってくるだろう。例えば、芭蕉は旅の道中、あちこちにお呼ばれしていたようだが、この交響曲第6番もそんな雰囲気のある作品ではなかろうか。

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