2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ

« ケフェレック 鏡 ほか ル・ジュルナル・ド・パリ Ⅵ 9/19 16:00〜 | トップページ | シベリウス 交響曲第6番 1923年 P.ベルグルンド指揮ヘルシンキ・フィル(EMI) »

2010年9月25日 (土)

エフゲニー・スドビン ハイドン ピアノ・ソナタ集 (BIS)

さいたま芸術劇場の企画で、ピアノ・エトワール・シリーズというのがある。教育関係やコンペティションを中心に勢力を張る中村紘子女史のプロデュースによる企画で、これまでは、ブレハッチやコブリン、上原彩子など、日本のコンペティションでも活躍したコンクール戦線の猛者たちを中心に、若いピアニストたちが腕を競ってきた企画だ。その公演リストのなかに、エフゲニー・スドビンという、ちょっと聞かない名前のピアニストの名前が紛れ込んだ。

【メトネルから〜出会い】

このシリーズには何を隠そういちども足を運んだことがないし、これまでは、わざわざ与野くんだりまで足を運ぶ理由も見つけられなかったというわけだが、もちろん、このスドビンについては、ほかの公演にも増して無関心だった。しかし、なんの偶然か、ピアノ協奏曲をたくさん聴いていたある日、このスドビンの演奏を耳にすることになった私は驚いた。彼は私の信頼するレーベルのひとつであるBISから、メトネルのコンチェルト(第2番)をリリースしていた。

実は、このメトネルのコンチェルトは私が以前からラフマニノフ以上に愛好している作品で、ずいぶん前に、同じくBISのジェフリー=ダグラス・マッジ独奏、イリヤ・ストゥペル指揮アルトゥール・ルビンシュタイン・フィル(ポーランドにあるらしい)の演奏で親しんできたものだ。バリバリのヴィルトゥオーゾであるマッジを独奏に立てたディスクは、メトネルの協奏曲を全部カヴァーしていて、私にこの作曲家の魅力を教えてくれた。個人的なことばかりで恐縮だが、この録音からメトネルのコンチェルトに恋をしていた私は、東京でようやく実現したこの曲の実演に接するために、マルク=アンドレ・アムラン独奏の演奏会(東京フィル)に足を運び、その音の小ささに驚きながらも、どちらかといえば、その名技性よりは繊細な音楽づくりに共感して、以来、アムランは私のスターになった(自註:しかし、現在は足を洗っている)。

さて、そのコンチェルトを弾くスドビンの演奏は、マッジたちの演奏ほど濃厚ではない。多分、米国のローカル・オーケストラと思われるノース・キャロライナ響によるツケは、上のポーランドのオーケストラと比べても、かなり劣ることも影響しているのだろう。しかし、メトネルらしいピアノのラインの繊細さが程よくハッキリと彫琢され、独奏に関しては、マッジよりも筋がいいように思われた。

幸いなことに、このスドビンにはBISも力を入れているようで、若いのにディスコグラフィーが充実している。次に聴いてみたのは、チャイコフスキーのコンチェルト。ツケはジョン・ネシュリングが育て上げたサンパウロ(州立)響(なかなかレヴェルの高いオーケストラだ)に代わり、よりダイナミックな表現が可能になった。この演奏は非常にインパクトがあり、スドビンのゆたかな可能性をはっきり匂わせる。ヴィヴィッドな部分の表現もパワフルだが、より素晴らしいのは、対位法的なラインを丁寧に織り上げるような細かな部分であった。

ここで私はGoogle検索をかけ、彼のことをより詳しく知ることになった。スドビンがこともあろうに「ホロヴィッツに匹敵する」という、相手が偉大すぎるだけに、まったくリアリティのない大げさな時評を多少信頼してみることににして、そのもとになったドメニコ・スカルラッティのソナタ集をかけてみた。これは本来、チェンバロで弾くべき曲目なので、根本的な違和感が拭えないのであるが、かつてのアルゲリッチなどの演奏を思い出すと、こういうのもありかもしれないという感想になった。非常に音色が明るく、構造が開放的に捉えられているのが、いかにもラテン的である。

【驚愕のハイドンⅠ】

そこで、これはあとのお楽しみにとっておくことにして、途中で止め、これもまた所詮はチェンバロやフォルテピアノに相応しいプログラムとはいえ、より現代ピアノ時代にちかくなるハイドンのアルバムに切り替えてみたのである。これがどうやら、スドビンの最新盤ということになるようだが、やはり、スカルラッティと比べると、ハイドンの曲目はピアノで弾くためのメソッド的なもの(=音楽界全体での経験値のようなもの)が発達しているのか、ずっとハイドンらしい味わいが楽しめる。スドビン本人の成長もあるのか、スカルラッティのときと比べると、響きのデザインが良い意味で慎重になり、表現が繊細となっている。

47番、60番、53番に加え、より規模の小さな作品がいくつか置かれているアルバムだ。ソナタにおいては表現のまとまりに注目すべきであり、それ以外の小品では、思いきって個性を効かせた演奏が楽しめる。この明確なコントラストにも瞠目させられる。

まずは、47番(Hob.XVI:32)である。これはポリフォニーの清潔な、優雅な演奏である。清澄で美しい音色に惹かれるだろうが、それを下支えする和声の堅固さにも注目しておきたい。ベースにおける、このような美しさを前提に、スドビンの表現は実に味わいがある。本来はより古い楽器が想定されていることを踏まえて、強調やフレージングに特徴がある。例えば、低音のタイトな打鍵と、高音のさらさらとした流れは、シンプルながら、チェンバロ的な響きのゆたかさをイメージさせる。装飾は非常に上品で、中庸なテンポを選んでの慎重な表現が、こうした強調と絶妙なバランスを構成して、やりすぎない適度な表現で、現代ピアノの味わいが無理なく、このレパートリーで生かされている。

緩徐楽章は若干、ショパン的な麗しい詩情を感じさせるものの、それは多分、ショパンがこうした種類の音楽を積極的に学び取ったことに起因し、様式的な混同ではない。また短調へ転じてのトリオでは低音の重みが強調され、のちのベートーベンを想起させるような表現の重厚さがみられる。このあたりはハイドンそのものを弾きながら、その作品のもつ後進への強い影響力を省みる試みであるとも解釈できる。

60番(Hob.XVI:50)ではまず、最初の楽章で、のちに発展するスケルッツォ的な展開にハイドンらしいユーモアが明確に浮かび上がっており、ポリフォニーの伝統的な形式に、圧倒的なユーモアを注ぎ込んだハイドンの面白さを肌で感じさせる演奏になっている。あくまで鍵盤作品としての表現に徹しているものの、そのなかに管弦楽的、オペラ的な展開を垣間見せるスドビンの表現センスは面白い。

ここまでの評言にも見えるように、スドビンの演奏は作品の立脚する要素に忠実でありながら、その背景に浮かび上がる要素、例えば、ハイドンの書いたその他のジャンルでの精華や、ハイドンのもっていた未来的な可能性までを幅広くフォローして、ワイドにみせていくという独特な表現になっている。若いのに、「個性」というものをはき違えることなく、限られたフィールドをいっぱいに使って、自分なりの表現を組み立てていることは驚愕に値する知性だ。

60番の第1楽章では、構えのしっかりした作品の特徴を丁寧にと捉え、その一部では大バッハと共通するような宇宙的な広がりをもつ、ダイナミックなポリフォニーのゆたかさも確認できる。アダージョ楽章は、ロマン派的な可能性をも感じさせる表現であるが、そこに力みはなく、自然な表現である。右手のカンタービレが非常に伸びやかで、爽やかである上に、柔らかい左手の支えは作品の穏和な表情を見せるのに役立つ。トリオは響きのふうわりした跳躍が空間の広がりをみせ、再びバッハ的な世界観の広さを導く。

終楽章は再びスケルッツォ的な表現に回帰するが、より舞曲性が強いように思われるのは、最初よりもリズムを強調しているせいだろう。その分、ポリフォニーのラインがそれぞれ快活に響き、スケールの大きさをもたらすことにつながっている。この楽章では、特に終盤において意外な和音が置かれており、一瞬、戸惑いを覚えるところがあるが、スドビンの精密な打鍵にかかれば、ハイドンの書いた音符の狙いは誰の耳にも明らかというものだろう。

【驚愕のハイドンⅡ】

53番(Hob.XVI:34)のプレスト(第1楽章)は、快演である。まず、テンポ自体はプレストといっても、さほど忙しなくすることなく、パッセージの流れの速さを上手に印象づけることで、緊張感に満ちた展開を導いているのが大きな工夫である。このパッセージの流れの良さは、クリアーなトリルの表現の美しさや、独特の伸縮するフレージングによって、徹底的に磨き込まれている。そのため聴き手は、この作品のなかに人間の呼吸にも似た自然な流れを感じることだろう。

一方で、アダージョ楽章はずっと古い形式に基づく感じの長閑な雰囲気が徹底されている。ただし、この楽章でもフレージングによる呼吸感が意識的に強調され、まるでバロック時代、もしくはルネッサンス時代の歌曲を聴かせるような演奏になっている。ところが、装飾は多分、わざと硬めに演奏されていて、単に人声を模すという手段ではないやり方で、ピアノにおける声(ヴォーチェ)のあり方がセンスよく捉えられている点もまた興味ぶかい。なぜ、こういう風にするのだろうか。いまのところ、明確な理由はわからないが、この硬さはなるほど作品に見合ってもいるようだ。

ほぼアタッカで突っ込む終楽章は、緩徐楽章のアリアにつづくグランド・コンチェルタートという雰囲気で弾かれている。ストビンの解釈によれば、この2つの楽章は、実にオペラ的な流れに関係するのだろうか。しかし、そぷでありながらも、後世では普通に見られるようなピアノ作品の壮麗なフィナーレの形式にもなっており、ハイドンの驚くべき先進性が、ここでもハッキリと捉えられている。

【ソナタを補強するパフォーマンス】

ここまで見てきた3つのソナタによって、ストビンの優れた個性を指摘することはできた。しかし、それを補強するのは、より大胆なデフォルメによる小品の演奏である。詳しくは述べないが、『カプリッチョ』(Hob.XVII:4)ではブッファ的な表現の徹底を試みており、ヘ短調ソナタ、いわゆる、「ピッコロ・ディヴェルティメントー変奏曲」(Hob. XVII:6)は、ハイドンらしい親密さを延々と粘りづよく醸し出しており、とても優しい響きで貫き通しているのが特徴だ。

そして、曲芸的な弦楽四重奏曲第53番「ひばり」(終楽章)のトランスクリプションでは、1本1本のラインに魂を込め、それらの組み合わされた和声の対話を効果的に表現できるストビンの妙技が、実にアジなカタチで閉じ込められているのだ。すごい演奏である。

【まとめ】

私は、このハイドンのアルバムをもって、スドビンの個性は完全に確立されたと言って憚らない。彼は1980年生まれというから、まだ30歳になるかならないかという年齢だが、この世代では圧倒的な才能を持った若者であるといえるし、その年齢にして、多くの先輩たちを凌駕する表現センスを備えている。

なお、ストビンは英国の王立音楽院でクリストファー・エルトンに師事した。このエルトンは、高名なピアノ教師であったクルッチオ、歴史的な名奏者のシュナーベルを経て、レシェティツキ、ツェルニー、そして、ベートーベンまで遡れる直系を受け継ぐストリームにある。さすがに良いピアニストは、「血統」も素晴らしいというわけだ。

なお、2011年1月のさいたま芸術劇場の公演のプログラムは、以下のとおりとなっている。

○D.スカルラッティ ピアノ・ソナタ K466/K455/K27
○ショスタコーヴィチ プレリュード op.34-2、6、17、24
○ショパン バラード第3番、第4番
○リスト 超絶技巧練習曲集第11番「夕べのしらべ」
○ラヴェル 夜のガスパール

コンペティションにおけるセミ・ファイナル的なプログラミングとも言えるが、もしも、こういうプログラムを組むコンテスタントがいれば、随分と知的な印象を与えるだろう。ショスタコーヴィチを除けば、アルゲリッチを彷彿とさせる曲目という感じもする。まあ、「ホロヴィッツの再来」はあまりにもあり得ないと思われるし、いっそ「アルゲリッチの再来」といったほうが若干、リアリティが増すかもしれない。

ラフマニノフのプレリュードは4曲を選び、ソナタ的に扱おうとするアイディアである可能性が濃厚だろう。スカルラッティもそうだ。そして、メインとなる『夜のガスパール』では、ストビンの備えた音楽性がハッキリわかるというプログラムである。このリサイタルには、是非とも足を運びたい。

« ケフェレック 鏡 ほか ル・ジュルナル・ド・パリ Ⅵ 9/19 16:00〜 | トップページ | シベリウス 交響曲第6番 1923年 P.ベルグルンド指揮ヘルシンキ・フィル(EMI) »

NML 聴取ログ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/49512821

この記事へのトラックバック一覧です: エフゲニー・スドビン ハイドン ピアノ・ソナタ集 (BIS):

« ケフェレック 鏡 ほか ル・ジュルナル・ド・パリ Ⅵ 9/19 16:00〜 | トップページ | シベリウス 交響曲第6番 1923年 P.ベルグルンド指揮ヘルシンキ・フィル(EMI) »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント