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« ジョナサン・ハーヴェイ サントリー芸術財団 サマーフェスティバル2010 テーマ作曲家:管弦楽 8/30 | トップページ | バーバラ・ボニー & フィオーナ・キャンベル デュオ・リサイタル 9/7 »

2010年9月 4日 (土)

センスの悪さが爆発 ティーレマンにブーイング? @NHKTV 芸術劇場

世評がいくら高くても、この人だけは好きになれないクリスティアン・ティーレマン氏。この人はとっても才能ゆたかで、響きをコントロールすることにかけては天下一品。古典派作品から、ワーグナーの雄大な楽劇まで、どんなに規模が大きくなっても問題ありません。とにかく、自分の音楽というものをイメージし、それを形にすることの巧さといったら、もう並ぶ者がないほどなのですし、そのことだけは認めなくてはいけませんね。しかし、それだけに「自分の」、つまり、ティーレマンの音楽のセンスの悪さが、余計に際立つという結果になっています。

このタイプでは、ほかに何人かの指揮者がアタマに浮かびます。例えば、セミヨン・ビシュコフ、マルクス・シュテンツ、ケント・ナガノといったところが、それです。これらの人たちは世評も高く、良いという人もたくさんいます。しかし、私は彼ら全員の能力の高さを認めながらも、そのセンスの悪さにはどうしてもついていけないところがありますね。その頂点にいるのが文句なくティーレマンであるのは自明であり、もっとも個性がつよい点で、私としても叩き甲斐があるというものです。

私はここで、自分の好き嫌いを語ろうとしているのでしょうかね。客観的にはそうなのかもしれませんが、自分自身では好みの問題とは思っていません。その理由は、追々説明していきます。

さて、ここでサカナになるのは、9月3日のNHK教育テレビで放送された『芸術劇場』中で視聴したティーレマン指揮ウィーン・フィルの演奏会の模様です。5、6、4番の順で放送されたようですが、私がおつきあいしたのは5番だけでした。従来、私はティーレマンの音楽を評価していなかったので、できることならば、その認識を改めたいとの想いから視聴したのですが、結果的には思わしくないことになりました。

第1楽章からして、かなりガツガツいく演奏でしたが、随所に新鮮なこだわりもみられて、どちらをとるべきかなという迷いがありました。しかし、第2楽章で、私の微かな期待は半ば崩壊しました。楽章全体への指示は「アンダンテ・コン・モート」ですが、まずテンポは「ラルゴ」といってよく、ピリオド的な演奏を貫くウィーン・フィルの弦の響きがスチール弦に支えられて延びられるギリギリのところまで、テンポを落としての演奏です。管楽器の奏者も息を詰め、ソロで入らねばならないポイントでは、一生懸命にタイミングを計っているのがわかります。

このノロノロ運転のせいで第2楽章は延び延びとなり、とても退屈な演奏になっています。よっぽど、このノロノロが良い作用をする部分もあり、主題から変奏に移っていくときに、「一体、なにが起こるんだろう?」というワクワク感があり、これはハイドン的な驚愕的要素のベートーベンなりの解釈として面白い部分もあります。また、主題からテンポを細かく動かしながらの展開は、非常に大きなルバート的構造と捉えることもでき、その点も興味ぶかいのですが、特に後者に関してはデフォルメがきつすぎるように思えます。

スケルッツォは序奏のあとに現れるホルンの主題提示が意外にも大人しく、そのせいか、全体がすっきりとまとまりすぎている印象でした。コーダは謎めいていて、第2楽章のあり方と関係がありそうですが、それでもやや劇的すぎて、芝居がかった印象も否めないでしょう。

終楽章は冒頭、深いリタルダンドがかけられ、そこから一気に響きを解き放ちます。ベースにプレスト的な流れがみえ、かなり大胆なルバートを用いて、このプレスト・ベースをうまく生かしているようです。とはいうものの、その響きはいたずらにダイナミックで、ベートーベンの仕掛けたいろいろな構想が生かしきられているという感想は持ちませんでした。むしろ、ティーレマンはそうしたものを押し潰しても、作品の奥底にあるエネルギーの強さというのを強調したかったようにみえます。

しかし、この解釈は実のところ、紋切り型のベートーベン像により親密です。つまり、ティーレマンは誰もがわかりきっているようなベートーベンのイメージを引き延ばしているにすぎず、その解釈は実のところ、個性的というには程遠いというのが私の見解です。ティーレマンの支持者たちが彼に求めているのは、実は、そのような紋切り型の知性にすぎないのはないでしょうか。

彼らはティーレマンのことを、「最近の若者にしては個性的だ」というでしょう。しかし、彼らが求めているのは、ティーレマン本人の個性ではなく、彼が知らずに追っている遠い過去の記憶なのです。では、例えばあと10年間、彼の音楽を温かく見守れば、ティーレマンは過去の「巨匠」たちが成し遂げた仕事に迫っていくような可能性を秘めているのでしょうか。私には、そのようには思えません。上に書いたように、ティーレマンはとても豊富なアイディアをもっている人であり、それを思いのままに形にすることのできる優れた指揮者なのですが、一方、それらはことごとくセンスが悪く、作品そのものの良さを引き出すようなものにはなっていないからです。

ティーレマンを料理のシェフにたとえると、彼はとても舌がよく、昔、食べたロブションの味に迫ろうとして、幾重にも工夫した料理をこしらえて鍋に香辛料をばらまきます。しかし、その結果、ロブションとは似ても似つかないどぎつい味になってしまったというようなものです。フォンの取り方も上手だし、焼きも、煮込みも申し分ないのに、この料理はどうして、こんなにも変な味なのかというものを、彼はつくってしまうのです。

それかあらぬか、ウィーンのムジークフェライン・ザールでも、派手なブーイングらしきものがコダマしていましたが、私も彼らに同調します。少なくとも、この交響曲第5番を聴くかぎり、ティーレマンの「運命」は前途多難であるように見えます。人気はしばらくのあいだ、衰えないでしょうが、あとで負債を払わされることになるのは、彼のほうではないでしょうか。

最後に、この偏見に満ちた文章のバランスをとるために、ティーレマン支持者のひとりとして、バイロイトにも深い人脈がある合唱指揮者、三澤洋史氏の言葉を借りてフォローとしたいと思います。

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

ティーレマンの演奏する「愛による救済の動機」があまりに素晴らしくて胸に込み上げるものがあり、涙が出そうになった。どうしてこんな風に演奏出来るのだろう?どうしてこんな風にヴァイオリンが押し寄せるようなうねりを持って、僕たちの心に直接迫ってくるのだろう。ティーレマンも凄いがオケも凄い!ああ、ここまで来た甲斐があった。(HPより抜粋)

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

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クラシック・トピックス」カテゴリの記事

コメント

何をどう感じようが個人の自由だが、あなたの言う「センスの良い」音楽を醸す指揮者はだれなのか。
また、最後のパラグラフにある「偏見に満ちた文章」と自認され、バランスをとるために、バイロイトでの演奏に熟知した三澤氏のことばを一部引用するのはどうかと思う。

白ネコさん、コメントありがとうございます。個人の自由なんてのは、かなり突き放した言い方に思えます。私は個人的趣向を越えて、どこかに真実があると思っています。その真実が、いつも私の言葉のなかにあるわけはなく、お前の見方は間違いであるという意見をこそ欲しています。

白ネコさんも、彼の演奏がいいと思うならば、どこがいいと仰ってください。私はここで、ほかの誰かではなくて、ティーレマンの話をしているのです。

なぜ三澤さんの意見を書いたかといえば、ティーレマンについて、自分なりに参考にしたところがあるからで、それでも私は、この演奏にまったく共感できなかったのです。その残念さがあるから、敢えて対極的な、信頼できるプロの意見を入れています。

文章の書き方は断定的ですが、私は自分の耳を基本的に信用していませんから、こういう意見を拾っていって、それとつきあわせていくことが大事だと思っています。よって、私はよく意見を変えます。でも、いまのところ、ティーレマンの音楽センスは、私にとって爆発的に悪いように思えるということで、その理由は単にセンスが悪いという言葉以上に、具体的に書いたつもりです。

アリスさん
始めまして。たまたま目にして気になったんで、書かせていただきます。私もティーレマン、以前は(別に嫌いということではないけれど)好きではなかったんです。CDや録音で聴くと、わざとらしいというか、何かわざとへんに演奏しようとしているように聞こえてしまって。でも、生で聴く機会があり、そうしたらなんとも言えない説得力がありました。生で聴くならば、すごく面白い指揮者だと思います。もしも、生で聴いたことがなければ、ぜひ一度、だまされたと思って聴いてみてください。(と、期待して行ったら、がっかりしちゃうでしょうか)

ねこさん、ご助言に感謝します。なにかの機会はつくってみたいですが、大枚はたいて、あまり共感しない指揮者を聴きにいくのもナンですね。今度、彼がドレスデンでロス・フィルのサロネン並みに成果を挙げて、かつ、関係の円熟期に来日するようなことがあったら聴いてみようと思うかもしれません。まあ、彼の場合、今後の一定の活躍はある程度、目に見えていることだし、急ぐことはないでしょう。

逆に、こういう悪口を書くと、仰るように生で聴かざるを得なくなるということもあります。貴重なご意見、ありがとうございました。

ティーレマンはオペラかな。
横浜でやったブルックナーの8番は、あのチェリビダッケに匹敵する悪趣味演奏だった。

ベートーヴェンもブラームスもダメ。R.シュトラウスのオペラがまあまあ聴けるかな。

はんすりっくんさん、コメントありがとうございます。ティーレマンがいまほど時代の寵児ではなかった4−5年前に買った『トリスタン』の、味も素っ気もない演奏が、彼に対する悪い印象のはじめでした。その後、みるみる人気が出て驚いたものです。

比べる相手として適切ではないが、フルトヴェングラーやベームのものと比べると、何らいいところがないし、ずっと前に聴いた神田慶一の編成縮小版の演奏のほうが、はるかに面白かった。『マイスタージンガー』や『ワルキューレ』だったら、まだいいのかもしれないですが、もう4−5年は、彼について興味をもつことはないでしょう。

始めまして。大変まじめに書いていらっしゃる姿勢に好感が持てたのでコメントさせていただきます。ティーレマンについて、また彼の「第5」についての私見詳細は、私のブログ、「ザ・クラシック評論」でティーレマン論をいくつか書いているので、そちらに代行させていただきます。評価については、先立つ好悪といふものがあり、アリスさんにはティーレマンがお歯に合わなかった。これは仕方のないことです。小生、生来、不粋な人間ゆえ料理のたとえはうまくできませんが、実は牡蠣アレルギーで、次に当たったら多分死んでしまうだろうと思います。そんな私が、いくら、牡蠣が好きな人間に牡蠣の魅力を講義されても、生涯好きになることはできますまい。アリスさんにとってティーレマンの能力は評価するがその悪趣味についてゆけないというとき、それは根源的な批評であり、抜き差しならぬものなのでしょう。
ところが、私はと言えば、ティーレマンを、フルトヴェングラーを超え得る100年に1度の大指揮者だと考えています。勿論、このような比較にはあまり意味がないので、力説するつもりはありません。ただ、1950年にフルトヴェングラーがロンドンでウィーンフィルとベートーヴェンチクルスをやった時、ロンドンの評論家に、「なんて時代錯誤なベートーヴェンだ。フルトヴェングラーの起用は間違っていた。ヨーゼフ・クリップスを起用すべきだった。」との論評が出たこともある。ゴッホの絵も、悪趣味、冗談、として生前まるで売れませんでした。「永遠のバッハ」なんて売り文句があるが、バッハ時代からたかだか300年しか経っていませんから、こんな言葉は本来冗談にもならないはずです。そう思うと、藝術の寿命も評価も大変微妙で流動的なもののようです。
その上で、アリスさんのティーレマンへの評価について。往年の巨匠を追尾するエピゴーネン、あるいはベートーヴェンの通俗的なイメージへの追従に過ぎない、というティーレマン評価にとりあえず絞りますが、これはこれできわめてステレオタイプな論評ではないでしょうか。ティーレマンの音楽にはスコアそのものとの対話、作曲家との対話、そして過去の偉大な演奏との対決、その両面がぎりぎりの強度で漲っていると私には聞こえます。演奏の新しさを、私はイデオロギーの新しさだとは考えません。変わった着想にも興味はあまりない。むしろ、鳴り響きの瞬間の経験、意味と、聞き手との対話の中にこそ新しさがあると考えてきました。
ティーレマンのコンサートは、その挑戦があり、しばしば、彼はその挑戦に敗れてきた、そして稀に勝利してきているのだと思っています。たとえば昨年の来日でのベートーヴェンの「第5」! 私は名古屋とサントリー両方を聴きましたが、2楽章には弛緩の気配すらなかったと思います。3楽章コーダから4楽章の冒頭は、心臓が痛くなるほど、吐き気がするほどの緊張を覚えました。4楽章についてのご指摘も、私の実感とはだいぶ違います。もてあますほどのエネルギーの奔出は、生で聴いていると、ほとんど生理的限界を超える強烈さでしたが、一方で、彼は曲のエネルギーの方向や動機の扱いについて、矛盾する多方向性のようなものをあえてそれぞれ強調しつつ、統合しようとしていたと私には聞こえました。アクセルとブレーキを瞬時に架け替え続けるような、とてつもないきしみを重ねながら、全体が徐々にプレストに近づいてゆく。なるほどこれは、悪趣味な挑戦かもしれません。が、それを言えば西洋の藝術はすべて悪趣味ともいえるのではないかとも愚考します。
以上、蕪雑な感想恐縮です。益々の健筆お祈りいたします。

小川さん、コメントありがとうございます。ご立派な意見であり、特に反論はありません。見方にかなりちがいはありますが、私は自分の見方が絶対だというつもりはなく、それに見合った能力もないことを自覚しています。しかし、一方では他人のいうことを容易に受け容れない悪癖もあります。人間ができていないのでしょう。

ご意見はご意見として心に留めますが、現時点で、自分が耳にした音楽の感想は変えようもないのです。ここに書いたとおり。それが更新される体験が来るのを待つしかありません。私の貧弱な感性では、小川さんのご指摘はまだ理解できません。私のセンスでは、ティーレマンなどよりも、高関健が(アマチュアの)新響で録音したディスクのほうがはるかに面白いし、エキサイティングなんです。ベルティーニが都響最後の定期で披露した演奏や、井上道義が鬼軍曹のような形相で披露した演奏のほうが、はるかにこころに残っています。

私も、相当な悪趣味であることは認めざるを得ません。ただ、ひとつだけ、ステロータイプ云々というのは、受け容れがたい議論です。私の言説の一部を勝手にステロータイプに当て嵌めてのご批判は、この場合、まったく当たらないかと存じます。

失礼します。ただの音楽好きで、皆様のようにそれを分析的に言葉にすることもできませんので、ただただ感心しながら議論を読ませていただきました。
私の専門は視覚的なデザインの分野です。専門家の意見が常に正しいわけではないことは申し上げるまでもないとは思いますが、このウェブサイトのデザイン、非常に「センスが悪い」です。ピンク色、富士山、扇、どれをとっても。

ご意見、ありがとうございます。テンプレートは私じゃなく、ココログがつくっていますので、そちらにご意見くださいますと幸いです。この前までは、リラックマでした。大体が、長文をだらだら連ねているページですので、視覚的センスなんてどうでもいいと思ってます。読む人は読むだろうし、好まない人は寄りつかないで構わないですから。そういうページです。私の見方が気に入らないなら、正面から議論すればいいだけですね。ニフティ作製のテンプレートを批判されても、あまりに筋違いだ!

音楽好きの素人です。クラシックは最近余り聞いていませんでした。
ベートーヴェンもワグナーも音楽自体は、当たり前ですが、素晴らしい。でも、最近、ゾクゾク感、新鮮さを感じなくなってしまった。歳をとったからかな、と思っていました。 しかし、you tubeでたまたまティーレマンという指揮者のベートーヴェン6番に遭遇し、久々に聴き入ってしまいました。「うーむ、何とも美しい。カラヤンの出していた音と同じ響きだ。」この指揮者は一体何者か。これはもしやして5番も聞いてみる価値があるかと思い、聞いてみました。「これはフルトヴェングラーの再来か。」と。皆さんと違い難しいことは書けませんが、単純に感じたことはこのとおりです。
ウィーンフィルの演奏家一人ひとりが指揮者に食らいついて行こうと必死。そしてそれを楽しんでいるように見えます。 失礼ですが、ウィーンフィルがこんなに美しい響きを出すのはベーム以来ではないかと感じてしまいました。でも、これこそ本来のウィーンフィルの実力なんだろうなとも思い、演奏そのものにも聞き惚れました。 私は、ティーレマンのことを全然知りませんでしたから、先入観は全くありませんでした。 新鮮で、音楽と演奏にただただ引き込まれました。ティーレマンに遭遇したのはほんの二週間程前ですから、これからの更なる発見が楽しみですね。

田中さん、ありがとうございます。個人のご趣向に私ごときが口をさしはさむものではありませんが、私の感性は、貴兄とはまったく別の方向をむいていることは確かです。もちろん、上にも書いたとおり、私は自分の見解が絶対的に正しいとは言っておりませんし、そう思うえるようないかなる裏付けもありません。

しかし、現時点では、皆さんがお書きになられるようなビッグ・ネームと、どこでどのようにつながるのかがまったく理解できないのも確かです。フルトヴェングラーなんてとんでもないことだし、わが愛するカール・ベームとは比較になりません。『トリスタン』の録音を聴けばわかります。

特にティーレマンのバカなところは、歌手の指導がまったくできないことで、オペラにおいては、これが明らかなように思えます。なぜなら、彼の演奏では、必ずオケと歌手の声が別々に聴こえてくるからです。オケの使い方は確かに巧みですが、本文のように、それを用いた響きのつくり方については、まったくセンスを感じません。

それこそ、私にとってのヒーローであるクレメンス・クラウスやフルトヴェングラー、ベーム、ワルター、ヨッフム、デ・サバタなどとはちがうところです。

私としても、彼の音楽がいつかわかる日が来るのかもしれませんが、いまのところ、特にわかりたいとも思いません。財政がおもわしくなくなったベルリン・ドイツ・オペラを簡単に見捨ててしまったり、人格的にも好きではないのです。田中さんにとって、その発見が喜びであるなら、私はなにも申しませんが。

アリスさん、私のような素人にお返事頂き、ありがとうございます。フルトヴェングラーとかベームとかの名前を軽率に出してはいけませんでしたね。そんな名前を出すのは10年早かったと反省しています。私もティーレマンをもっと聞き込んでいくと飽きてしまうかもしれませんね。音楽というのは、同じ曲、演奏でも私たちリスナーの気持ち、心構え、考え方、経験、感性、知性、育った環境、もっと言えば、年齢、体力、血圧などの身体条件によってもとらえ方が違いますよね。 それは音楽のみならず様々なことにも当てはまるんでしょうね。 ところで私はビートルズも大好きですが、アリスさんのようなクラシックに造詣の深い方は、ビートルズの音楽、特にPaul MacCartney辺りの曲とか演奏について、どの様な感覚と言いますか印象を持っていらっしゃるのですか。聞いたこともないのかもしれませんが、数百年経っても朽ちないクラシック音楽を鋭い感性で聞かれているアリスさんのご意見を、そのうちお聞かせください。

田中さん、御機嫌いかがでしょうか。

一時期、ビートルズはリバイバルが起こりましたし、1979年生まれの私の世代でも、知っている曲はあります。高校時代はカーペンターズやセリーヌ・ディオンを聴き、大学時代はビートルズやワム!なんかを少しずつ、社会に出てからはクラプトンやフィル・コリンズ、ルーサー・ヴァンドロスなどを聴いたものです。ビートルズの曲で特に共感のつよかったのが、”Love me do”でした。ほとんどワン・メッセージですが、それがとても多彩な表情に切り替わっていくのが面白いと思います。

それから、カレンも歌った”Ticket to ride”。この曲は原曲とカーペンターズではまったくイメージが異なりますが、いろいろな解釈を可能にする奥行きをもっていたと思っています。これはジョンの曲だそうですが、ポールの”Yesterday”も同じように、どういう風に歌い崩しても味があります。その点をみると”Love me do”はとても堅固な曲で、そんなにヴァリュエーションは広がらないのではないでしょうか。

ビートルズについて知っていることはごく僅かですが、少なくとも著名な作品に関してはとても言葉が大事で、かつ、そこにオリジナリティがあるという点が、現在のROCKS&POPSと異なっています。若いバンドではザ・コアーズ The Corrs というアイルランド人の兄妹4人組のグループが良かったのですが、現在は解散しています。彼らの音楽はいまでも、ときどき人知れずBGMで流れているのを聞きます。今後、ツイッターでは、こういうのも紹介したいと思っています。

ちなみに、こういう音楽を聴いているとき、私は、クラシック音楽はまったく知りませんでした。バレエ付の『カルミナ』のチケットを先輩に貰ってみにいったのですが、意味がわからなかったものです。

長じてからは椎名林檎という歌手を特別に愛し、美空ひばりや北島三郎の圧倒的なうまさに気づきました。ラ・フォル・ジュルネでギター・デュオのいちむじんを知り、夢中になりました。また、〈東京の夏〉音楽祭のなかでセネガルのユッスー・ンドゥールが昭和女子大の人見講堂でライヴをやったときは、歌手のことをまったく知らないでいったのですが大興奮で帰ってきた記憶があります。演奏自体がとても良かったのですが、昔はあんなホールでクライバーやベームに演奏させたりしていたのだと思うと、いまは良い時代になったものだと思いました。

私たちの父母や、祖父母の努力が、そうした豊かさのもとを生み出してくださったことには、いつも感謝しなければならないと思っています。

初めまして。いささか辛辣なコメントを致しますがご容赦下さい。

私はベームやサロネンの良さは全く理解できないので(もっともベームはウィーンフィルとの来日公演のレオノーレ序曲は評価します)、共通項のフルトヴェングラーとの比較で論じたいと思います。

私はフルトヴェングラーの運命を第1と思っているので、アリスさんのお考えが分からないではありません。ですが、アリスさんのティーレマンの評価は主観面なら十分理解できますが、客観面としては納得できません。

「終楽章は冒頭、深いリタルダンドがかけられ、そこから一気に響きを解き放ちます。ベースにプレスト的な流れがみえ、かなり大胆なルバートを用いて、このプレスト・ベースをうまく生かしているようです。」というアリスさんの解釈はミスリーディングだと思いますよ。

ティーレマンは第4楽章のテーマを「ドミソファミレドレド」と解釈しているのだと思います。だから遅くするのです。ティーレマンのように第4楽章をこのようにとらえると第4楽章だけでなく全楽章が非常に整理されます。他の点もよく楽譜を読むとティーレマンの意図が分かり、彼がパフォーマンスだけでやっているのではないことがよく分かります。

ティーレマンの強みであり弱みであるのはスコアリーディングの深さだと思います。そこんじょらの個性的な指揮者とは次元が違うと思います。マルクス・シュテンツは存じませんが、セミヨン・ビシュコフ、ケント・ナガノとは比べようがありません。彼の演奏を聴いてスコアスコアを読むと見落としていた構造が見つかるので勉強になります。ですから、ティーレマンを批判なさるならスコアを広げてからにして頂きたい。ティーレマンの解釈が誤りではないことが分かるはずです。

ティーレマンの不幸な点は、往年の巨匠と同じ分類をされている点です。彼の音楽の作り方は、自分の個性を出すという点では、往年の巨匠に似ているのかもしれませんが、彼の作っている音楽は全く異なります。彼はスコアに隠された作曲者の構造上(表面上)の意図(と彼が考えるもの)を表現しているのであって、フルトヴェングラーのようなドラマ(作曲者の主観的意図と彼が解釈する物語)を描いているのではありません。響きはフルトヴェングラーやクナッペルツブッシュに近いかもしれませんが、音楽に対する解釈姿勢はむしろトスカニーニやカラヤンに近いのかもしれません。
ですから、フルトヴェングラーが好きな方からのティーレマンへの批判を整理すると結局の所、解釈が肌に合わない(頭でっかち、悪趣味)、ティーレマンの解釈にはドラマがないのいずれかになるように思います。これらは主観の問題ではないかと私は思います。

私もフルトヴェングラーと比べたらティーレマンは劣ると思います。しかし、彼の能力を考えれば、客観的評価としては、フルトヴェングラーと比べるのがフルトヴェングラーとって失礼な指揮者ではないと思います苦笑。好き嫌いを含めれば比べるまでもなくフルトヴェングラーですがね。

敵対的なコメントはここで終わりにして笑・・・

アリスさんはフルトヴェングラーのどういったところを評価されますか?
私は、フルトヴェングラーの紡ぎ出す物語性を評価します。特に運命の解釈は構造的なものになりがちな曲ながら、フルトヴェングラーを聴くと人間のドラマが浮かぶところがさすがだと思います。スコアを丹念に読み込んだ上で物語を描けるのはフルトヴェングラーが最後でしょう。

ご意見、ありがとうございます。もとより、私はスコアをみて研究するという専門的スタイルは放棄したリスナーであり、知識をひけらかすつもりもなければ、自分を必要以上に大きくみせる必要も感じておりません。自分は音符や楽想記号の意味は分かりますが、一からスコアを読めるとは言いがたいですし、その点についてはより熱心で、知識も教養も豊富な方に任せています。

自分の追求するのは、正に響きの観点から、演奏家が私に対してどのようなインスピレイションを与えてくれたか、ということに尽きます。仰るように、その点についても、私の見方に欠けるものが多いのは当然でしょう。しかしながら、私の良さは単に一生懸命に聴くという行為そのものにあり、かつ、それを誰よりも真剣に論じるということに尽きます。結果として間違えることはあるでしょうし、教養もないので噴飯ものの議論も散見されるはずです。

しばしば、「それは主観だ」とか「客観的に評価せねばならん」とか言いますが、私にとっては、そうした教養主義的な見方はどうでもいいことで、自分の論じたいものを論じたいようにやればいいだけだと思っていますし、もとより、自分の考えが誰よりも正しいとは思っていません。ただ、私のように何時間もかけて、こうして真剣に記事を書くシロウトは稀でしょう。そこを楽しんでいただければ、幸いです。

私の好む音楽家は、誇張のない音楽家です。ただし、この意味は非常に哲学的な部分を含んでおり、私自身、完全に把握しているわけではありません。例えば、この誇張のなさには、必ずしも美しからぬものもあっていいと思います。この範囲において、もっとも強く、起伏に富んだ音楽をつくったのがフルトヴェングラーではないでしょうか。

例えば、『ワルキューレ』のプレリュードを聴くだけでも、フルトヴェングラーの音楽からみたら、ティーレマンのそれは道路工事できれいにならされ、広々と整備された道のようです。私には、それが誇張だと感じられました。新しい構造を見つけられて勉強になる・・・結構でしょう。しかし、それをどう出して、どう隠すかというのが芸術だと思います。すべてあからさまなのが、良い表現とは限らない。

そのセンスが、過去の巨匠とはくらべものにならないと論じたつもりです。そんなものは、君の主観にすぎないと言われれば、そうかもしれません。

しかし、例えば、クレメンス・クラウスの指揮で『ばらの騎士』を聴いてみると、最後のクライマックスの三重唱で、音楽的表現がベルカント的な声の競演だけに単純化されています。それこそ、クラウスほどシュトラウスのスコアを知っていた人はいないはずです。当時の録音技術の問題かもしれないが、その彼にして、こんな凄い隠し方をしているわけで、しかも、この効果は壮絶です。ティーレマンのセンスにないのは、こうしたダイナミクスではないでしょうか。

ティーレマンのことをwebで調べていたらたどり着きました。今朝NHKBSで昨年のNHK音楽祭でのティーレマンのブラームスを放送していました。もしこの演奏会に行かれていた・この放送をご覧になっていたならご感想をお聞かせ願えますか。こんなうすい響きでいいのか、とびっくりしたものですから。以前サヴァリッシュ代役でVPOと来日した際のサントリーでのトリスタンとブルックナーは粘りつくような音楽でしたので。

非常にお返事が遅くなり、もうご覧になってないかもしれませんが、お答えします。

私はここで書いたように、現在の彼の演奏には興味をもっていませんから、テレビ視聴にすぎませんが、仰るような要素に関しては、ホールの問題が大きいのではないかと思います。

私が問題にしているのは、もっと根本的な要素です。このブラームスでいえば、たしか終楽章の第1主題が出る前だったか、思わせぶりで、不格好なタメなどについて失望した記憶があります。こういうことをやると、私のなかでは致命的です。

最近BSで録画したティーレマンのブラームス交響曲を全て試聴しました。
印象は「ブラームスのシンフォニーってこんなにつまらない曲たっけ」。
途中で投げだしたくなりましたが、これだけ評価の高い指揮者なんだから、自分のほうが悪いのかも、と思い全て視聴しましたが、まったく感動のない演奏でく、あとで別の指揮者のCDでお口直しをしました。ちなみにバルビローニですが。

この指揮者の評価の高さは何なんでしょうね?
画面で見る限りオケも納得して演奏している様子でしたが、でも、彼のテンポ、フレージング、強弱、さらに、わざとらしい全休止、コーダで急にテンポを速めてあおる、どれも全く私はついていけず、おいけてけぼりで、まったく共感できませんでした。

別の方々のコメントにあるように、演奏会に足を運ばない限り感動できない指揮者なのかもしれませんが、それほど裕福でない私にとっては最悪の指揮者です。

確かに同感でありますが、推察するに、ティーレマンの評価する聴き手は、彼の音楽から、いままで聴いたことがないなにかを感じ取っているのでしょう。我々はそれぞれの体験のなかで、なにかを大事に過ぎているのかもしれません。

なお、基本的に、実演を聴かないと魅力がわからないなんて話は、僕はないと思います。録音でよく調べていった場合、その印象を覆して、素晴らしかった体験はありません。その反対の例はいくつかありますが。

大変面白く、読ませていただきました。
確かに、「センス」と言うのは、大変大事なものですね。
よく、問題になることは、一体、純音楽とポップスやロックあるいは流行歌の違いは何なのか、と言う議論がありますが、それと同じじゃないでしょうか?
例えば、ガーシュインは、クラシックでしょうか、とか、ジョップリンはクラシックですか、とか、あるいは、マントヴァーニは、クラシックか、とか考えますと、厳密な区別はありませんが、直感的に、これはそう、これは違う、とより分けることが出来ます。そして、それは、残念ながら、商業主義と完全に一致することでもないのです。もう、「センス」で分けるしか仕方が無いのです。
もちろん、個人個人で意見が違うでしょう。

私に、言わせますと、彼の演奏は、ヒトラーの演説と同じようなものではないかと思います。その時点では、感激しますし、ちょっと、フレーズがおかしいな、とか、テンポが遅いとか、言うことはあるのですが、巧にそれを補うような押し返しがあり、その演奏を信じて、わき目もふらずに聴いているとのめり込んでしまう魅力があるのですが、でも、何か、食わせ物のように感じます。

特に古典のベートーヴェンまでの作品に関しては、所謂古典の解釈、と言うことをもっとお考えになった方がよいのではないか、というような過度にロマン的な演奏をします。

彼のベートーヴェンの交響曲を聴いたあとでバックハウスのピアノソナタを聴くと、「あれは何だったの?」と言う気分になります。
特にベートーヴェンの音楽などは、別段ドラマティックに演奏せずとも、内容が充分ドラマティックなので、むしろさらっと流す方が、本当に心に訴えてくるのです。大変逆説的なものの言い方ですが、モーツァルトもそうです。

カラヤンのモーツァルトを若いころに聴いた時は、テンポが速すぎる、とか、変化が少なすぎる、と思ったものですが、少し歳が行くと、あるいは何度も他の演奏と聞き比べると、やっぱりモーツァルトはこれでいい、と思うようになりました。
つまり、ドイツ国民がヒトラーの演説に暫し、酔ってほだされたような、同じ漢字が彼の演奏にあると思います。特に若い人は、同調しやすいのです。

「センス」と言うのは、おそらく、音楽における「直感」なのでしょうね!

誰にも説明できないけれども、正しいんですよ!
例えば、1と1を足すと2になる、と言うのと同じように。
高度に概念的な世界の真実は、直感でしかわからないのです。
知識の羅列では、ダメで、それに頼ると間違いが起こります。直感的に正しければ正しいのです。直感的にセンスが悪い、と言うのはやはり、センスが悪い、と言うことです。

私と同じように感じおられる方がおられたので、うれしいです。

放送や公演があるごとに、この記事はよく読まれており、ティーレマンがなにかと話題になることがわかります。そして、多くの人を不快にするとともに、多少の方から支持を頂いております。

センスというのは、非常に難しい問題だと思いますし、それは誰もが磨いていかなければならないものだと思います。しかし、同時に、誰もが平等にもっているものでもあります。ゆえに、それを否定するということは、大変、リスキーな行為だと思います。私はティーレマンのそれを、否定的に書きました。それゆえに、私はいっそう真剣に、それについて考えなければならないのだと思います。

「高度に概念的な世界の真実は、直感でしかわからないのです」という言葉を書かれていますが、これは私のこころにピッタリ来ます。では、その直感をどう磨くかという話ですよね。音楽愛好家の場合は、良いものだけを聴きつづけるということに尽きるのではないかと思います。

アリスさん、ご返事ありがとうございます。
そうですね。私は、物心つかないうちから、ヴァイオリンを父親に持たされて育ちましたので、殆ど第二の天性として音楽に対するセンスを磨かせていただきました。そういう意味では、大変贅沢人間だと思います。

しかし、若いころは、それなりにいろいろ冒険的なものが好きではありました。
例えば、マルタ・アルゲリッヒ(アルヘリッチ)とギドン・クレメルが演奏するベートーヴェンのヴァイオリンソナタ、とくに9番のクロイツェル、聞いていると、非情に情熱的で引き込まれるのですが、聞き終わってから、何かむなしい思いがします。それから、ギル・シャハム兄妹のモーツァルトのソナタも同様です。結局、古典派の曲のセンスからすると甚だおかしいのです。対極にあるダヴィッド・オイストラッフの演奏と聴き比べていただければよくわかります。モーツァルトのソナタは残念ながらオイストラッフのレコーディングが少ないので、ヘンリック・シェリングと聴き比べてください。
まぁ、極端な例で言いますと、古今和歌集をビート付きのロック音楽の伴奏で詠んでいるような違和感ですね。
それがおかしい、と言う感覚が、もしかすると今から数十年後にはなくなってしまうかもしれません。しかしそれは、ある部分の日本文化の消失、と言うことでしょうね。(悲しいことです)

このあたりは、大変難しい問題だと思います。
よく、正統な解釈、と言われるものがあります。それは、西洋音楽における、一つの普遍性を併せ持った解釈、と言うものではないでしょうか?

正しい感覚を育てるには、やはり、古今の名演奏と言われるものを聴き比べることだと思います。そんな中で、ある種の普遍的なものが浮き彫りになってきます。もし、3~4回繰り返し聴いて耳につくようになってきたら、その演奏には何か癖があるのです。あるいは、全く単調にしか演奏してないのか。もちろん、同じ曲を何度も聴くとその旋律自体が耳についてしまうこともあります。そういう場合は、演奏が悪いのではありませんので、別の曲に切り替えてください。

それから、バロック、古典派、ロマン派などの音楽の系譜と解釈の方法を少し学問的に勉強する必要があります。ただ単に自分中心の偏狭な解釈ではなく、音楽の進化してきた歴史を振り返ることも重要です。それによって、例えばモーツァルトがどのような演奏を目指していたか、作曲家の意図が見えてくると思います。

もう一つは、批評を注意して読むことです。残念ながら世の中には、商売熱心な批評家がおられて、とんでもない演奏を「斬新な解釈」とか、「個性的な演奏」と好意的に書く場合があります。ダメなことははっきりダメと書いてあげるべきだと思うのですが。だから、そういう記述には特に注意する必要があります。
優れた感覚を磨く、というのは本当に大変なことだと思います。しかも、そうやって培った感覚も自分の死と共に永久にこの世からなくなってしまうのです。

しかしながら、一度、磨きますと、生涯の宝です。そういう目で、批評を見ると、どの批評家がダメでどの批評家が鋭いか、よくわかるようになります。

例えば、古い話ですが、ブーニンがブレイクしたショパンコンクールで、「あれは一体なんだ}ということで、随分といろいろなところで騒がれたのですが、私が聴いていたところでは、3位か4位になったフランスのルイサダの方が余程、音楽的に優れていたと思います。テクニックは確かにブーニンは優れていたかもしれませんが、あのショパンの解釈はどうしてもいただけませんでした。
その後、ブーニンも良くなりましたが。「若気の至り」だったのでしょう!

あの時、センセーショナルということで日本の批評家の中にも大変好意的に評価する批評家がおられましたが、日本でもショパン弾きのベテラン女流ピアニストNさんは、ばっさり「解釈が不適当」と斬っておられました。

私も全く同じ感覚でしたので、Nさんはあれ以来私の中で信頼できる批評を書く人に数えております。

とまあ、こういう風に一度感覚を身につけるとそれが直感として新しい演奏にも適用することが出来るようになります。
あの、決して新しい演奏だからダメ、と言うような感覚ではありませんので念のため。

また、いろいろ読ませていただきますね。
ありがとうございます。

ご教示ありがとうございます。ゆたかなご助言に感謝します。

あなたの言ってることは、すべて正しいと思う。

この「巨匠のでなささ」は社会的な側面から再考察すべきだと思います。だからこそ「巨匠と信じたい」人たちもわんさかいてムキになるんだと。

結局、音楽がまたアマチュアの元に戻ってきたんじゃないかと思ってます。そしてまた何十年後かにプロの元に戻ってゆくのでしょうがね。時代は繰り返すから。

何十年後が、あればいいですね。欧米の文化にとって、もはや、クラシック音楽はアクティヴな存在ではないと見做されてきているのではないかと思われる、いくつかの事象が突きつけられています。最近ではローマ歌劇場や、アムステルダム・ロイヤル・コンセルトヘボウ管に起こりつつあることがそれです。

アリスさんに同意

ここに、思っていた事が書いてあった

このブログを読ませていただいて、ティーレマンの演奏に賛意を表する人が多いのに驚きました。同じ演奏を聴いていてこれほど評価が異なるのもすごい。小生には彼のベートーヴェン交響曲は弛緩した演奏にしか思えません。ウィーンフィルもこういう風になってしまったかという失望感は大きい。100年に一度の指揮者だとかいっている人もいるのに驚いてしまった。まったく同じものを聞いていてこれほど評価が異なるとまるで違った世界の住人のようだ。ドレスデンのブラームスも何ら必然性を感じない凡演だった。ポリーニも一体何を思って彼とやっているのだろう、やはり衰えてしまったのか。

性格悪いですね。
ピカソが一番と思う人がいれば、フェルメールが一番と思う人がいる。シャネルが好きな人がいれば、逆に嫌いな人もいる。
センスとはそういうものではないでしょうか。何が正しく王道だなんてものは無い。
クラシックは母がよく聴いておりましたので、子供の頃から慣れ親しんでおりますが、やはり指揮者によってテンポや強弱が変わってきます。自分にしっくり来るのは、初めて耳にしたその曲の指揮者と、目の前の指揮者の演奏の仕方次第なのではないでしょうか。
世界に名だたる指揮者の一人でもあるカラヤン指揮の曲は、母と私には合いません。合わない、ただそれだけです。
悪趣味とも、センスが悪いとも思いません。一流レストランでも万人の舌に合うわけでは無いことと同じです。
ティーレマンはアリスさんに合わなかったというだけ。
悪趣味な表現で、ツラツラと大変長い文章を誰もが目に出来る場所で書かれる。その方が、悪趣味、センスが無いと思いますよ。

4年半も前の記事に、わざわざ流れ着いてきて、悪口雑言とは感心しません。しかし、PKさんのような反論は既に折り込み済みで書いてます。率直にいうと、あなたのいうことは考えることの否定、もしくは怠慢にすぎません。悪趣味は承知ですが、ブログはあなたを含め、自分から訪ねて見に来るものであり、私はかなりの犠牲(主に時間的な)を払って書いています。

センスというのは、磨くものですね。フェルメールとピカソだったら、どちらが好きでもよいが、ラッセンがフェルメールと同じ価値に見えるなら、その「病気」はなおすべきです。また、フェルメールを強く支持する人と、ピカソを支持する人では、その考え方の構造に大きな違いがあるはずです。僕は、そこを考えています。

カルガモのように、初めてみたものにずっと従うことはできず、自分の場合、「センス」はどんどん変わっていくものと思ってます。10年前、良いとおもっていたアルゲリッチやアンスネスが最近はこころに響きません。そのレヴェルからみると、カラヤンのような音楽家は好き嫌いを問わず、尊重すべき過去の音楽家のひとりというべきです。それを毛嫌いするのは、感心しません。そういう壁をつくることが、あなたにとって、どれほどの損失になっていることか。私はカラヤンの音楽が必ずしも好きとはいえませんが、彼のような逆らえない王道が、どこにあるかを探る旅をしているのですよ。

私はあなたのように、なんでも、その人にとったら正しいセンスだという考え方には無理があると思います。私の考え方や言動がまったくの悪趣味であるように、暗闇はいつか光に照らされる必要があります。あなたの闇も、照らされるべきでしょう。深い闇です。僕は20代くらいから聴き始めて、ようやく10年ぐらいですよ。何も語ることはできないのは、自覚しています。だが、自分は失敗することを恐れません。

とまれ、もう4年半も前の記事へのコメントに、私に対して共感的なものであれ、批判的なものであれ、リアクションするのは正直、もう嫌なので、これで最後にすると宣言します。

面白い方ですね。
私はピカソとフェルメールを出しましたが、ラッセンには一言も触れていません。ローマの休日とアバターを比較出来ないのと同じこと、ピカソ、フェルメールとラッセンは全く別物と認識しております。なのに、その病気云々とは、本当にセンスに欠ける言葉を操るセンスに長けていらっしゃると感心いたしました。

クラシックを聴き始めて約10年とのこと、大変驚きました。ある意味小学生が批評しているようなものなのですね。

芸術は知識ばかりを詰め込んで、杓子定規に見るものではないと思います。心で見て感じるものではないでしょうか。
一度星の王子様をお読みになる事をお勧めいたします。

バロックが派生した当時はおかしいと評価されても、一時代を築いたのは一定数の評価者がいたからでしょう。中には中立の立場もあったことでしょう。
それなのに、それぞれが違うセンスを持つことに無理があると仰るのは、民主主義国家ではない国でのお育ちなのでしょうか。揶揄しているのではなく、感性まで同一であるべきであるという考え方に疑問を感じたまでです。

またセンスは正しい正しくないではなく、合う合わないです。
アリスさんが一番美味しいと思われるレストランで万人が美味しいと思わない、それが感性、センスです。

こちらのブログはティーレマンさんのお名前でトップヒットとなっておりますので、このエントリーをわざわざ探しに参ってはおりません旨、念のため申し添えます。
気になるようでしたら、こちらのエントリーの削除、もしくはブログ自体のお引越しをお勧めいたします。

最後にされるところ、失礼致しました。

「ある意味小学生が批評しているようなものなのですね」。確かに、僕は小中学生が洗練されてないけど、真剣に話し合ったりするテレビ番組は好きです。そして、このブログはそのレヴェルかもしれません。それで、結構です。

あなたの言っていることは、矛盾だらけだと思うし、正直、文章はよく意味がわからないところが多いです。とりあえず、言いたいことがあるなら、別のブログか、ほかのSNSでティーレマンのセンスと、あなたの感性がいかによくあうかを書いたらよいと思います。小学生級の批評など、すぐに打ち倒してしまえることでしょう。

少なくとも私と同じくらい、真面目に考えられるようになり、他者に敬意を払えるようになってから来てほしいと思います。でも、今日はモーツァルトの誕生日。とにかく、あなたに幸多きことを祈っています。

Thielemann に関するコメントを興味深く読ませていただきました。 1970年9月1日に大阪フェスティバルホールで Leornard Bernstein 指揮 NYP の一連の演奏会を聴いて以来、国内外で色々聴き漁ってきました。Thielamannもここ数年 Live 演奏に付き合っていますが、あなたの仰るような、センスの悪さ、その通りだと思います。もっと平易に言いますと彼の表現は『ダサイ』。又或る箇所で彼の音楽が弛緩して聞こえるのはそこに確固とした概念が欠けていて、徒に効果を狙いにいっているからでしょう。これはvon Karajan の演奏会でも散見されたことです(ま、彼のは表現がもっと洒落ていましたが)。手練手管やっている割に聴き終わった後の感興が希薄なのも一貫しています。 只 live show としてはあの様な大男が指揮台で恣意的で大袈裟なアクションをするのは見物で、Celi の踊りや Lenny のジャンプと並んであれはあれで印象には残りますね。人によっては若いときは平凡で晩年に化ける、例えば近年では Mr. S や Blomstedt の場合がありますが、あなたが仰ったように Thielemannの場合その真逆になりそうな予感がします。

Perfect Wagneriteさん、上に書いたように、この記事に対するコメントへのリアクションは終了させて頂いていますが、一言、御礼のみ申し上げます。

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