2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ

« バーバラ・ボニー & フィオーナ・キャンベル デュオ・リサイタル 9/7 | トップページ | 下野竜也 ヒンデミット ウェーバーの主題による交響的変容 ほか 読売日響 サントリー定期 9/18 »

2010年9月16日 (木)

デュメイ with ヴァン・ダム 関西フィル 東京特別演奏会 楽団40周年記念ガラ 9/14

来季から音楽監督として、5年間の長期契約を結び、関西フィルを世界的な活躍の場へ引き上げるとの志のもとに、大きな仕事が始まる関西フィルの40周年を祝う東京公演に足を運んだ。

【ヴァン・ダム、最後のオペラ・ステージ】

まず、ジョゼ・ヴァン・ダムがやってくれた。プレビューでは「引退」と書いたが、これはオペラの舞台に関することで、リートや宗教曲で舞台に立つ可能性は残るらしい。お詫びして、訂正する。しかし、この日のようにオペラ・アリアを歌いあげる機会はもうないであろうし、事実上、日本でのラスト・ステージという位置づけは変わらない。確かに衰えはあるのだろうが、そのことを論ずるよりも、どうしてここまで歌えて来られたかを論ずるほうが、はるかに実のあることだ。

簡単にいえば、ベルカント的な、理想的な発声法の習得と、知性に溢れた歌いまわしということに尽きるだろう。彼らはオペラを歌うというよりは、語っている。そして、その語りくちが実に自然で、柔らかい。それこそが、ヴァン・ダムの歌のすべてだ。

例えば、『ドン・カルロ』(ヴァン・ダムはフランス系のベルジャンだが、最近、上演の増えたフランス語版ではなく、よりポピュラーなイタリア語歌唱と思われる)の「ひとり寂しく眠ろう」は、その粋を行っている。このアリアは周知のように、妃が愛してくれないことを自覚しているフィリッポⅡが、息子に裏切られた哀しみをあわせて、孤独な運命を嘆くアリアといえる。さて、この歌のポイントは、夫婦関係や親子関係といった、本来であればプライヴェートな問題での悩みが、王としての政治的な問題と不可分に語られるという非現実性を、聴き手にリアルなものとして受け取らせるために、いかにして歌うべきなのかということである。

まず、雰囲気たっぷりの管弦楽の序奏からしても、音楽的には問題なくリリックで、味わいは深い。しかし、そこに歌い手が酔いしれてしまうとフィリッポの嘆きに重みがなくなり、じめじめした説明的な表現になってしまう。

これに対して、ヴァン・ダムが見つけた答えは、言葉を凝縮して歌うということである。例えば、歌い出しではタイトルのように、’Ella giammai m'amo’と始めるわけだが、この部分に王の嘆きを表すような説明的な声の揺れや、言葉の粘っこい表現は見られない。吐き捨てるように、ひとつづきに言葉を引き締めて語る。その後の言葉の流れも、総じてカッチリしている。この場面での王の嘆きは当然のこととして、そのことを説明的に物語るなにものもジョゼは持ち込まない。そのことによって、フィリッポの男としてのプライドが引き立ち、公私を問わず、この男にとって大事なものがどこにあるのかを物語る歌唱になっている。

これを助けるのは、独奏チェロをはじめとする管弦楽の堅固な構造だ。デュメイがピットに入ったというはなしは聞いたことがなく、声楽のツケとしては不安感もあったが、見事なものだ。まず、独奏チェロに自由な歌いまわしを許し、これを管弦楽に向きあわせることで、フィリッポの立場に彼をダブらせる。そして、そのリリックな感情をオーボエに託す基本構造をしっかりと彫琢したうえで、全体の響きをフィリッポの感情とつきあわせて立体的な表現を浮き彫りにするという手際の良さは、とてもピットに入ったこともない指揮者の仕事とは思えない。

しかし、これを超える感動は、ドリーブ『ラクメ』のニカランタのアリア「おまえの優しい眼差し」のところで訪れた。まず、このシーケンスで唯一のフランス語のディクションは、さすがに柔らかい。この響きが、普段は厳しく、ときに攻撃的でもあるバラモン教の司祭が、娘に対してだけみせる深い愛情を表現するのに、なんとも効果的なのである。女声やテノールの技巧的な歌で知られるように、『ラクメ』はバリバリのベルカント作品であるが、バスの曲でも容赦はない。そのアジリタも柔らかく、言葉の感じにぴったりと合っている。

滋味に溢れた父親の愛情・・・ヴァン・ダムの歌から伝わってくるのは、ひとえにそれだけのことだ。バラモン教の司祭とか、エキゾティックな設定を越える真実を語るときだけ、このような歌のリアリティは輝くのである。例えば、息子ジェルモンへの愛を語るとき、聴き手がヴィオレッタの娼婦の身分を忘れてしまうように、非現実的な様々な装飾は、このような部分では意味をもたない。ヴァン・ダムは、この作品に関してだけは自らの感情をたっぷりと注ぎ込んで、そこに滲み出る真実味をたっぷりと聴衆に印象づけていた。

先の『ドン・カルロ』のアリアとはちがい、本当に、声だけなのだ。少なくとも私には、声しか聴こえなかった。こころをぐっと傾けても、クールな言葉の魅力は変わらず、これが突き刺すように、我々の感情をダイレクトに刺激するのである。彼の歌の傍らには見えないラクメが寄り添っており、歌いおわりでは、しっかりと父親の胸に抱かれる。この距離はやがて悲劇を巻き起こすもとになるが、それはまた別のはなし。ここでは、父親の愛情だけに心血を注いだヴァン・ダムの絶唱に耳を傾けるべきだ。そして、涙すべきである。

明らかにアンコール的な、ロッシーニの『セヴィリヤの理髪師』のアリア「悪口はそよ風のように」も本来は、悪役の参謀である音楽教師の悪だくみの歌であるが、今回は、もっと高い志を語るものとなっているかのように思われた。ヴァン・ダムのキャリアは、ほぼここに終わる。しかし、彼が愛する音楽のために献げてきたものは、はじめはそよ風のような小さなうわさ話のようであったとしても、今後、ますます世の中に広がっていくことだろう。その最後の舞台を、我々が拝めたというのは幸せなことである。さてもユーモアたっぷりに、「ソット・ヴォーチェ!」と囁くヴァン・ダムのチャーミングな歌いまわし。当夜だけは、狡猾なドン・バジーリオも我々の愛すべきオトコとなったのだ。

そして、上のような想いが、オーギュスタン・デュメイと関西フィルの思い描く夢に通じることはいうまでもないだろう。

【関西フィルの印象】

ヴァン・ダムのパフォーマンスは素晴らしく感動的なものだったが、それなしに成り立たない演奏会であったかといえば、そうでもない。冒頭のモーツァルトや、後半のベートーベンも、私のこころを捉えるに十分な演奏だったからである。

ここで、関西フィルの印象についてまとめておこう。まず、演奏姿勢がきわめて直向きで、響きのベースが美しい点においては、東京のオーケストラでいえば、ちょうど東響とよく似た特質をもっている。一方、その響きの柔らかさは東京フィルにも通じている。響きのタフさには欠けており、ブルックナーやリヒャルト・シュトラウス、それに現在の常任指揮者(飯守泰次郎)が得意とするワーグナーなどにおいて、どのような表現が可能なのかはわからないが、少なくとも古典派の作品やフランスものなどにおいては、かなりいい表現を聴かせてくれるのではなかろうか。

【指揮者:デュメイの本質】

また、これを指揮するオーギュスタン・デュメイも、言うまでもなく傑物である。ヴァイオリン奏者としてはフランコ=ベルギー楽派の正統的な継承者といわれるが、そのことが意味するところの本質的な意味を、私が理解できているという自信はない。しかし、当夜のパフォーマンスをみて感じるところに従えば、その本質的な部分ではプロセスよりも結果を重視すること、そして、個々のスタイルに合わせた自由なメソッドを採ることというのが、意外に大きな割合を占めるように思われる。

最初のモーツァルトにしても、例えば、キュッヒルやらホーネックといったウィーンの人ならば、それなりにコンサヴァティヴな型というのをもっていて、ちかく来日するアーノンクールなどはその最たるものだが、それを正しいものとして強く主張したがるところもある。もちろん、同じウィーン勢でも、より大きな音楽のうねりを好むキュッヒルと、より淡泊な味わいを好むホーネックでは、まるでやり方がちがうわけだが、デュメイのやり方は、さらに根本的に異なっている。

例えば、モーツァルト(ヴァイオリン協奏曲第5番)の第3楽章で、デュメイは大胆なルバートを用いて造型を進めるが、これをロンド主題の回帰にあわせて数種類、うまく使い分けることで、変奏的なフォルムの変化をつけようとしている。このようなスタイルはどちらかというとキュッヒルにちかく、いかに無駄なものを削りとって、素材本来の味わいを聴かせるかに腐心するホーネックとは相当に開きがある。キュッヒルと比べても、デュメイの音楽づくりは構造から導かれる、響きの自然さに対するイメージにおいて決定的なちがいがありそうだ。つまり、あくまで人間的な呼吸のなかで「自然な」うねりをつけていくキュッヒルとは異なり、デュメイはその自然さをあくまで支配して、強調することにこそ、真の自然さがあるという見解をとっているように思われてならない。

デュメイの音楽の真の面白さは、ここに極まるのではなかろうか。ベートーベン(交響曲第8番)の第3楽章では、当夜、ホルンの伸びやかな響きがサントリーホールの1階席を包み込むようにして、印象に残る。あのホルンは本来、それなりに長閑であるにしても、もっと繊細で、鋭い歌いくちが求められるように思う。しかし、デュメイはそのことが恐らく、良い結果をもたらさないということを瞬時に読み取って、代わりに、この奏者の実に大らかな、柔らかい響きに目をつけたのにちがいない。デュメイはこれをしっかりと生かしきり、かつ、作品のフォルムのなかに位置づくようなソリューションをみつけると、それにあわせて全体のアーティキュレーションを調節していく。

すると、どうだろうか。実にノンビリとしながらも、スケールの大きな表現の骨組みが浮かび上がり、この部分は交響曲の演奏のなかでも、特に印象に残る場面となったのである。

デュメイは多分、指導に厳しく、できないところは何度でも練習させるような渋とさをもつわりに、このような調節が実に巧みな指揮者でもあり、関西フィルの管楽器陣は、特にこの恩恵を受けているように思われる。彼らの「できない」ことを論うのではなく、「できる」部分をどう伸ばしていくかをデュメイは考え、それを楽曲の構造に矛盾しない形で組み上げていく。このアイディアのゆたかさ、柔らかさが堪らないのである。

それはオペラのところでも例外でなく、例えば、『ドン・カルロ』のアリアで印象的なオーボエの響きに注目してみよう。当夜の関西フィルの奏者は、例えば、東京で聴ける名手たち・・・広田智之(都響)や古部賢一(NJP)のように柔らかく、滋味に溢れる響きというわけではなくて、どちらかといえば真っすぐであることが取り柄で、響きの多彩さは十分とはいえない。だが、そのことを欠点とするのではなく、むしろ、この奏者の直向きさというのをフィリッポの性質のコアに寄り添わせ、幾分、親密な味付けを施すことで、見事に生かしきっている。もともとそういう構図になってはいるのだが、今回は、よりオーボエの響きをしっかり生かすことが意識的におこなわれているように思われたのである。

このように、良いものであれ悪いものであれ、目の前の素材と真剣に向きあい、これをいかに生かしきるかを考えてくれる点においてデュメイほど誠実な音楽家は少ないし、それを実現するための抽斗の中身も充実しているようだ。関西フィルのメンバーは彼の指揮の下では、多くのメンバーが100%を超えるものを発揮できているのではないかと思う。まず、そのことの感動が随所に伝わってきた。

また、楽章の弾きおわりの丁寧な切り方をみれば明らかであるが、アンサンブルにデリカシーが満ちているのも特徴のひとつだ。これも東響とダブる要素のひとつでもあるが、言うまでもなく、音符の最後までしっかり伸ばし、丁寧に切るということを徹底させていることで思い当たるのは、ユベール・スダーンである。細かいことだが、これをしっかり徹底する指揮者と、好い加減な指揮者では、印象がまるでちがう。そのことは音符の切り方だけではなく、アンサンブルの受けわたしや、音楽やリズムの切り替え、リズム、テンポ感など、随所に効いてくるのである。

弾き振りに関しては、最近の流行のひとつになってはいるが、私はさほど好んでいない。例えば、バレンボイムがモーツァルトやベートーベンの曲目において頻りにおこなっているパフォーマンスは、実のところ、オーケストラを彼の11番目の指にしてしまうだけのことであって、それならば、はじめから1人で弾けるピアノ・ソナタを聴いているほうが納得がいきやすい。しかし、上記の姿勢からもわかるように、デュメイの場合は、まず、弾き手の独立を要求し、そこから合わせ込んでいくというステップを踏む。

結果的には同じように見えるが、この日のモーツァルトで聴かせてくれたようなソリストとオーケストラの親密な対話力と、それにもかかわらず、はっきり声部の自立が読み取れる演奏というのは、なかなか聴けないのであって、関西フィルが既に、こんなところまで来ているというのを知って、私はこの楽団に対する夢を大きくした。

聞くところによれば、この楽団は大阪のオーケストラのなかでも特に給与水準が低いことで知られているようだが、そうだとすれば、彼らのコスト・パフォーマンスは賞賛に値する。数年後、彼らの演奏レヴェルは、現在、世評のもっとも高そうな大フィルをはるかに凌駕することになるだろう。

【ベートーベン 交響曲第8番】

さて、現在の楽団の力、そして、デュメイの表現センスを知る上で、このベートーベンの交響曲第8番は、わりに面白い素材である。このナンバーはベートーベンのなかではインパクトの強い第7番と第9番に挟まれているものの、これらと比べてずっと古典的な、シンプルなつくりがなされており、7番や9番の壮大さに近づけるか、思いきってハイドンぐらいまで交代するか、あるいは、その他の道を選ぶかで、指揮者や演奏者のもつセンスやアイディアのゆたかさを問われるからである。

デュメイの解釈は既存の録音などで聴けるものでは、ロジャー・ノリントンのものによりちかい。テンポも速く、かなりリズムを強調した演奏になっている。ただし、これは聴衆の好き嫌いが激しいので、他人の感想などみていると、まったくと言っていいほど、共感していない文章も見受けられるのは致し方ない。ただし、出だしからパワフルなサウンドが響き渡り、ティンパニーもガンガン叩くので、いささか品のない演奏に陥ることを心配した。

しかし、全体的にはバランスもとれており、求心力の高い演奏に終始した。終盤、ややバテたのは止むを得ないが、私としては痒いところに手の届く良い演奏であったと思う。

第1楽章では、ベートーベンのしつこい楽想を粘りづよく追っていて、よく頑張るという印象であった。これで響きにさらに豪華なものが出てくるといいと思うが、まず及第点だろう。第2楽章は、弦のトレモロをかなり丁寧に強調しており、ハイドンには近づきすぎず、ベートーベンらしい粗忽なユーモアを表現しているかのように思える。一方、舞曲的な拍節感が明瞭で、そこだけに拘泥しない演奏解釈の柔軟さが印象に刻まれた。第3楽章は既に述べたようなホルンの伸びやかさが生かされた、ホッとさせられる演奏。その響きがぐるっと回って、客席に置いたバンダから響いてくるようなところは、このホールの面白さ(当方は1Fやや後方、やや右翼に布陣)だが、当夜の演奏には悪くない効果をもたらした。

終楽章はノリントンほどの早口ではなく、適度な余裕のあるベースのなかで、力強くリズム動機が彫琢される。構造が積み上がり、転調に至るエネルギーの流れがすっきりと描かれており、わかりやすい。金管や木管も爽やかに響き、とてもいい感じで鳴っている。短調部分に陥ったときの響きのデモーニッシュさが強調され、ここから突き出ようとする響きの衝突を粘りづよく描くことで、先に述べたしつこさと対になって、楽曲を立体的に彫り上げるための要素となっているのは素晴らしいアイディアだ。

そして、最後、『フィガロ』の有名な音型と似たようなメロディで終わるのは、ひとつ洒落なのだろうと思う。ハイドンやモーツァルトの要素をふんだんに含むこの交響曲を演奏し、しかも、ベートーベンらしい演奏を貫くことで、このあたり古典派の語法をかなり着実に征服したという、大胆な宣言になっているのかもしれない。ベートーベンの交響曲のなかでは、特にオペラ的な要素もあり、単に前半のボリュームから調整して、8番に行き着いたというものでもなさそうである。

【まとめ】

ここに見られるように、今回の演奏会全体の構造は一見して、単に名曲を並べただけのようにも思われるが、意外に思慮ぶかい配慮も隠されているように思われる。

ベートーベンとモーツァルトを並べることによる効果は、あまりにも当たり前なので、ここで強調すべきとは思わない。しかし、ヴァン・ダムという優れた歌手を呼び、オペラ・ナンバーを演奏することで、最初の協奏曲を演奏するために大事な要素を、うまく補強した意図は指摘しておくべきだろう。やはりオーケストラは、オペラを中心とする舞台芸術と、コンサートの両輪をあわせて活動を展開した場合、もっとも効果的に成長する。この点、飯守氏のやっていることは正しい。当夜のプログラムは、そうした楽団の姿勢を端的に示すものだろう。

それ以外にも、プログラムについて述べたいことがあるが、このことをあまり広く展開しすぎるのもどうかと思うので、あとは読者(というものがいるとすれば)自身で考えてみていただきたい。ひとつだけ言っておきたいことは、このプログラムをこなすことで、楽団そのものが成長できるということだ。

今回、創立40周年記念、東京公演というプレミアがあるにしても、かなりしんどいプログラムを組んできたことはいうまでもない。特に、6曲のアリアはイタリアもの、ベルカント系の作品を中心にしているとはいえ、レパートリー的にオペラ・プログラムをこなしていない楽団にとっては、実に多様な表現力を鍛えなければ、演奏できないものばかりだったはずだ。例えば、『ラクメ』と『ドン・カルロ』では大分ちがうし、もちろん、モーツァルトはもっとちがう。そうかと思えば、レポレッロのアリアと、ロッシーニ作品では意外な共通点もある。

大変だっただろうけれども、関西フィルの団員たちならば、この日のための練習は様々な発見に満ちていて、とても楽しいものだったのではないかと思う。そして、その楽しさの分だけ、彼らはいままでよりも多くのものを知り、体験したのだ。この経験は計り知れない価値を生む。

これが初めての視聴であるが、いま、関西フィルは目に見えて成長しているのは自明と思われ、団員たちもさすがに、それがわかっているだけに士気が高い。例えば、あのアンコールで演奏した『アルルの女』(ビゼー)のアダージェトを、バス抜きの弦楽合奏で演奏し、その驚くべき清らかな音色に自分たちでさえ驚いているという新鮮さのなかで、彼らは演奏している。この状態を、どこまで維持できるかが鍵なのだ。事務局とデュメイは、活躍の場を大阪、関西、そして日本全国区から、世界に移すという志を立てた。しかし、そのことはかつてほど簡単ではないはずだ。簡単ではないが、その昔にはチャンスすらなかった。いまはまだ、それが僅かでもあると考えれば希望もわく。

そのうちに、壁にぶつかるときも来るだろう。多くの民間企業に支えられる楽団だが、経済状態もままならない現状は、今後、どんな優れた政治家でも簡単には打開できまいデュメイとの新しい5年間がなにを生むのかは、未だ明らかになっていない状態だ。そんなことは、楽団自身がよく理解しているはずである。デュメイを頭においたイノベーションは、楽団に対する人々の期待をどこまで高められるのだろうか。しかし、その第一歩となる東京公演は、かなりのインパクトを残したといっても過言ではない。

最初はそよ風のようだった評判が、ついに世界を呑み込むようなものにまで成長していくことを、つよく祈りたい。しかし、ロッシーニ・クレッシェンドは慌ててはいけないのだ。ゆっくり、我慢も大切なである。

【プログラム】 2010年9月14日

1、モーツァルト ヴァイオリン協奏曲第5番
2、モーツァルト カタログの歌
   〜歌劇『ドン・ジョヴァンニ』(レポレッロ)
3、モーツァルト もう飛ぶまいぞ、この蝶々
   〜歌劇『フィガロの結婚』(フィガロ)
4、モーツァルト 溜め息をつきながら
   〜同(伯爵)
5、ヴェルディ ひとり寂しく眠ろう
   〜歌劇『ドン・カルロ』(フィリッポⅡ)
6、ドリーヴ おまえの優しい眼差し
   〜歌劇『ラクメ』(ニカランタ)
7、ロッシーニ 悪口はそよ風のように
   〜歌劇『セビリャの理髪師』(バジーリオ)
8、ベートーベン 交響曲第8番

 vn:オーギュスタン・デュメイ

 Br:ジョゼ・ヴァン・ダム

 コンサートマスター:岩谷 祐之 

 於:サントリーホール

« バーバラ・ボニー & フィオーナ・キャンベル デュオ・リサイタル 9/7 | トップページ | 下野竜也 ヒンデミット ウェーバーの主題による交響的変容 ほか 読売日響 サントリー定期 9/18 »

オーケストラ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/49451308

この記事へのトラックバック一覧です: デュメイ with ヴァン・ダム 関西フィル 東京特別演奏会 楽団40周年記念ガラ 9/14:

« バーバラ・ボニー & フィオーナ・キャンベル デュオ・リサイタル 9/7 | トップページ | 下野竜也 ヒンデミット ウェーバーの主題による交響的変容 ほか 読売日響 サントリー定期 9/18 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント