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2010年10月20日 (水)

ショーソン 交響曲 変ロ長調 (1890年) 〜ミトロプーロスの指揮による

私の愛する作曲家のひとりに、エルネスト・ショーソンがいる。40代半ば、自転車事故により不可解で、突然の死を迎えた天才的な作曲家は、フランキストのなかではもっとも才能ゆたかといわれながらも、その真価を問われぬままにこの世を去った。元来、慎重で寡作なほうだったようで、遺された作品は実に少ない。多分、いちばん有名な作品は『詩曲』であり、これにピアノ・トリオ、歌曲『愛と海の詩』、それに、ここに紹介する交響曲がつづくという感じだろう。

1989年に着手され、翌年に作曲者自身の指揮で初演を迎えた変ロ長調の交響曲は、結局、彼の遺した唯一の交響曲となった。ワーグナーやフランクからの影響が濃厚で、できれば第2番の出現に期待したかったものだが、この交響曲も愛すべき作品であることは間違いない。ここでは、ディミートリー・ミトロプーロスの指揮による録音を例にとり、話を進めたい。

一言でいえば、この作品はワーグナーの作品にみられるような音楽の荘厳な詩情を、ぐっと凝縮したものである。そのワーグナーにも交響曲があるが、もちろん、それとは似ても似つかないもので、他人がワーグナーのオペラのなかの管弦楽を編曲して、交響的にまとめたものといっても、だまされる人がいるかもしれない。形式的なものや、楽器法などからは直接の師、フランクのニ短調交響曲との関係性が指摘されるところで、器は確かにそうであっても、中身はワーグナーの味が濃い。

とはいっても、ワーグナーにもいろいろな面がある。もちろん、ショーソンが倣ったのは、ワーグナーのサウンドの厚みではない。それよりは、情念の厚みともいうべきところである。ワーグナーの歌劇の音楽には一種のポリフォニー的な要素が働いており、ライトモティーフやその組み合わせが、作品全体を支える支柱となっている。面白いのは、その構造的な特徴がこれらのモティーフが指し示すキャラクターたちの心情や、性質と大いに結びついていることであり、そこに私は、彼の音楽における情念の厚みのようなものをみている。

ショーソンのこの作品に濃厚なのは、紛れもなくこの要素である。師匠、フランクの交響曲では、このような情念が一旦、きれいに音楽的に純化されて、結局は、ベートーベン的な形式美のほうが追求されている。だから、フランクの作品にはワーグナー的なサウンドの特徴も溶け込んではいるものの、あまり劇的という感じはせず、むしろ、古典的な教養が随所にちらつくのである。しかし、ショーソンは師匠が不要なものとして排したものの味わいを、捨てきることができなかった。

ショーソンの交響曲は標題的な作品でもなければ、交響詩でもないし、もちろん、舞台音楽ではない。しかし、それにもかかわらず、場景的な喚起を容易に引き起こす性質がある。例えば、レント(仏:ラン)による序奏の神々しさは、私にはとても古い時代の、中東の乾いた寒村の風景を思い起こさせる。自分がイエスを主役にした映画を撮るとしたら、こんな音楽を導入にもってきたいと思うような、そんな光景が目に浮かぶような音楽なのだ。

もちろん、それは指揮者が本質的に劇場人であるミトロプーロスであることや、録音がかなり古いものである印象からもたらされる、一種のデジャヴーのようなものであるかもわからないが・・・。

とはいえ、冒頭の私が勝手に十字架主題と呼んでいる、響きがクロスするような(楽譜がどうなっているかは知らないが)神秘的な出だしの主題から、金管と弦楽器が張りついて低く、からからな響きが這いつくばるレントの部分の印象は、上記の場景にぴったり来る。そこから漸次、上向して、最初のクライマックスに至ってサウンドの輝きは、もっとも明るくなる。そして、その頂点から一気に響きは収まり、アレグロ・ヴィーヴォの軽快な若々しい主題を導く。

このアレグロ部分では、私の「映画」では、美しいステップの水辺あたりの描写から始めて、徐々に、登場人物を描いていくことになるのだろう。第1楽章は、序奏における神々しいエンディングの示唆と、基本的な道具立て、その後の波瀾万丈なストーリーへの伏線が、きれいにまとめられている。これだけ手際よく、開始から10分くらいでドラマの全体像を語りきれる映画監督も、そうはいない。それこそ、先日、取り上げたアンゲロプーロスぐらいのものだ。いま、取り上げているのはミトロプーロスだったことを思い出してほしいが、ギリシア人というのは、簡潔に物事をまとめるのが得意なのであろうか。単刀直入なミトロプーロスの解釈は、ものによってはあまりにも明け広げにすぎる印象もあるが、このショーソンでは、その特質がぴったりきているように思われる。

作曲当時は難解とされたらしい第2楽章は、ワーグナーの歌劇でいえば、いよいよ謎が解き明かされるときの音楽に相当し、ここで私の「映画」も、いきなりクライマックスに突入するという荒業になっている。第1楽章の序奏で、ゆったりした上向で描かれたラインが、今度はいくぶん激しい角度をつけて奏でられ、クライマックスを迎える部分がなんといっても魅力的だろうが、それを構築するために積み上げられたレチタティーボのような前半部分の奥ゆかしさも捨てがたい。

フィナーレはややテンションが高すぎて、ワーグナーというよりは、ヴェルディによりちかい感じもする。これには、ミトロプーロスのハンドリングも大いに影響しているだろう。私の「映画」では、聖書にないが、イエスを捕縛したいユダヤ人と、彼を守りたい信徒たちのチャンバラ・シーンが始まる。しかし、第1楽章のレントの主題に乗って登場した、死を決したイエスが割って入り、自ら堂々と捕縛されて、一同は敵味方もなく畏れ入る。輝かしい長調に転調し、捕縛されたイエスを熱い陽光が照らす場面のあと(聖書の場面の時間軸なんて無視だ)、すすり泣く信徒たちの上空から天使が十字架を携えて降りてきて、その天使にイエスが接吻するところで幕となる。

私の架空の「映画」のことは置いておくとしても、私は、ショーソンのサウンドは宗教的な神秘性と無縁ではないと思う。師匠のフランクは教会オルガニストとしても活躍したように、敬虔なカトリック信者として有名である。ショーソンの創作に関しては、宗教性が強調されることはないが、ワーグナーやフランクを信奉した作曲家が、宗教性と無縁であるというほうが無理である。彼のサウンドの荘厳な美しさや、少しくすんだサウンドの趣味は、宗教・・・それも原始的なキリスト教の素朴さに照応する。

この交響曲の冒頭は、正に、その象徴となるような独特の響きである。遺作となってしまった弦楽四重奏曲冒頭、深い嘆きのようなカンタービレや、歌曲『終わりなき歌』の序奏から歌い出しの部分など、実に個性的で、ほかに比べるものがないと思う。単に響きが変わっているというのではなく、もう「現在」にはないような宗教の素朴さと、これまた「現在」は喪われた純真なロマン性がせめぎ合っているために、このような独特の響きが生まれたのではないか。

響きの斬新さという点において、私はショーソンのことを、ヤナーチェクほどにも重要であると考えるものである。

この交響曲はマイナーなようでいて、意外に取り上げられている作品でもあるが、ミトロプーロスの録音は上記のような特徴を非常にうまく拾っている。しかし、あまりにも簡潔すぎるミトロプーロスの解釈は、ショーソンのこのような斬新さに対しては、若干、切り込みが甘いようにも思われる。その点を補強すべく、私もよく知らない団体だが、チュルリョーニス四重奏団という多分、リトアニア人のアンサンブルと、レイン・ヴェレーナという歌手による『終わりなき歌』の録音をあわせて推挙しておきたい。

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