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2010年10月29日 (金)

パウル・バドゥラ=スコダ pf シューベルト ソナタ D960 ほか 〜デームスも登場 10/28

パウル・バドゥラ=スコダは1927年生まれというから、今年で83歳ということになろうか。エトヴィン・フィッシャーに師事し、古くはカラヤンやフルトヴェングラーとも共演した歴史的なピアニスト。アカデミシャンとしても著名なほか、録音も膨大であるが、私はその演奏にはかなり深い信頼を置いているつもりだ。しかし、写真をみるだけでも身体的な衰えは明らかで、昔のパフォーマンスはもう、期待できそうもないと思い込んでいた。

今回、それでも思いきって足を運んでみたのは、私にとって愛着のつよいベートーベンのソナタ30番や、ブラームスの『4つの小品』(op.119)が組まれていたせいだ。モーツァルトの短調のソナタ(第14番)、そして、シューベルトのソナタという組み合わせも興味ぶかく(できれば、D959のほうがよかったが)、まるで私のために組まれたプログラムのように思われた。

【ブラームスの奥深さ】

確かに1曲のなかで何ヶ所も、私のような素人にもそれとわかるようなミス・タッチがあって、多声のフーガなどになると、もう気合いだけで繋いでいるような演奏なのであるし、腕は落ちたというほかないのだろう。だが、それにもかかわらず、得るものの多いコンサートだったことは、いくら強調してもしすぎるということはないほどだ。

例えば、ブラームスの(op.119)の作品の第1番。その冒頭部分でみせた音色の深さは、それだけでブラームスという作曲家の本質を言い表すぐらい、鋭いメッセージに満ちている。

バドゥラ=スコダの響きは身体の外側から、私たちの耳のなかへ届くのではない。なるほど刺激は外から来るものかもしれないが、それに反応して、内側から我々を揺すぶる何ものかの作用を呼び起こすからである。この前、若いシーララだって、ひとつ前の(op.118)で優れた演奏をみせはした。とはいえ、その響きは、こんなに追い詰められてはいなかった。バドゥラ=スコダの響きは、ブラームスが既に晩年に入っていたからこそいえる、内密なメッセージに触れているようでもあり、その決死の・・・というよりは、もっと穏やかな決意に満ちた、静かな覚悟のようなものを、それでも、下から突き上げるようにして我々に問いかけていた。

あの甘く、誘惑的な響き・・・それでいて、近寄ってくるものを激しく遠ざけるような響きを、私の狭い体験のなかで、言葉にするのは容易なことではない。私たちは、自分たちの受け止められないほど衝撃的な体験をしたときに、それが喜ばしいことであれ、悲しいことであれ、涙を流さずに耐えることは難しいだろう。このとき、バドゥラ=スコダが出した響きは正に、耐えられないぐらい衝撃的な、私にとって未知の響きだったといえるし、なぜだか、しばらくは涙が止まらなかった。

ブラームスの作品は、本当に奥がふかい。若い人には若い人の、老いた人には老いた人の表現があるのは当然だが、ブラームスほど、その開きが大きい作曲家はいないだろう。ましてや、バドゥラ=スコダのようなピアニストが83歳にもなって演奏するブラームスは、私のような若造の接近を赦すものではない。しかし、誤解をしないでもらいたいのだが、響きはあくまで温かく、聴き手とのコミュニケーションを妨げるものではないことも併記しておかなくては!

【響きの質、ブラームスとシューマン】

ところで、バドゥラ=スコダのピアノの響きは、かなり軽めのリリコである。最近、聴いたピアニストのなかではレーゼルにちかいが、楽器のちがいこそあれ、同じウィーンということもあって、キュッヒルの表現によりちかいものを感じた。つまり、その特質は自然な呼吸感に満ちた柔らかいフレージングに表れており、このピアニストの演奏を評するためには、何よりも「自然」というキーワードが必須になるだろう。

然るに、ブラームスの第1曲においては、ずっしりとした重みがあった。もちろん、ドラマティコのようにはならないが、響きの芯には何ともいえない粘り気があり、どんよりとした甘みがあるのだ。それは徐々に解放され、第2曲ではやや憂いを帯びながらもリリックに、第3曲ではカラッとしたスケルッツォ風に代わり、第4曲では(ロベルト・)シューマン的な青々としたサウンドに変化する。それは人生を閉じつあるブラームス自身の自画像から始まり、シューマン夫妻を中心として、彼の人生に関わった人たちに対するささやかな贈りものとして、一枚一枚、肖像画を仕上げていくような感じに重なる。

私は常々、この(op.119-4)がどこかシューマンの『謝肉祭』(op.9)の、最後のマーチに似ていると思っていたが、そういうことならば合点がいくというものだ。ここで行進するのは、シューマン架空の芸術理想結社「ダヴィド同盟」の人たちであるが、常に新しさを求めて疾走したシューマンの足跡を追い、ついに最後の最後で追いついたという自負が込められているとすれば、実に興味ぶかい。そして、『ダヴィド同盟舞曲集』のスコアの扉には、「いつの世にも 喜びは悲しみと共にある。 喜びにはひかえめであれ。 悲しみには勇気をもって備えよ。」と書かれていたというではないか。これは本当に、偶然なのであろうか?

閑話休題。

【音の保持と支持体の美しさ】

バドゥラ=スコダの演奏では、もうひとつ面白い特徴があった。それは、最後のシューベルト(ソナタ D960)の演奏に顕著である。一体に、バドゥラ=スコダは音の保持を徹底するアーティストである。4分音符ぐらいなら誰でも当然にすることだが、8分音符、16分音符、もしくは、三連符ともなると・・・しかも、弱奏においては、優れたピアニストでも十分な保持を怠り、短めにとって、ルバート気味に演奏したりすることも珍しくはない。だが、バドゥラ=スコダはそのあたりは、きっちりしている。

そこで、1つ問題が生じる。ご存じのように、特に響きのいいホールではそうであるが、ピアノの音というのは、指をはなしてもすぐに収まるわけではない。たっぷり響きを保持すればするほど、その響きはあとのフレーズに残ることになり、一見、響きの癒着を生むように思われる。ところが、バドゥラ=スコダの演奏を聴くと、なるほど響きは残っているが、それはうまく背景に沈むことによって、クリーム色のカンバスに変わり、次の(縦の)和声に癒着するどころか、それをますます引き立てる役割を果たすのである。これには、驚いた。

12音やセリエール・ミュージックを経過したこともあり、現代人は縦の感覚には鋭い。しかし、このような音の帯というか、スクリーン的な効果について、意図的に、そして効果的に演奏できるアーティストはまずいないし、聴き手もそのことを忘れているのではなかろうか。

それで思い出したのだが、数ヶ月ほど前、渋谷でタマラ・ド・レンピッカの絵画をまとめてみる機会を得たとき、私が特に印象的だったのは、レンピッカが板(木)なら板(木)、キャンバスならキャンバスといった支持体の材質を最大限に生かしきって、作品を仕上げていることであった。彼女はドレスなど、布を描くことに長けていたが、マテリアルに対する特異な執着は、レンピッカの創作にとって生命線であるだけに、もちろん、それは絵画にとっての大地である支持体の選択、そして、その生かし方にも通底していた。

バドゥラ=スコダの演奏も、いわば(絵画でいう)支持体の美しさに、徹底的にこだわり抜いたものである。このことについては、以後、私も注意してみるようになると思うが、当夜、はじめて気づいたといっても過言ではない。私は、ピアノについてなにも知らないのだ!

さて、この支持体の美しさがもっとも際立つのは、(D960)のソナタの最後の楽章である。ここでバドゥラ=スコダは、左手の役割と、右手の役割をはっきりと色分けしている。つまり、左手はこの日、何度も登場した対位法的な動きを象っているのに対して、右手はこの上もなくリリックなカンタービレを奏でている。このバランスが例の支持体のうえで均衡し、1枚1枚のスクリーン版画としてきれいに切り取られたうえで、それらがぺらっぺらっとめくられるようにして、作品は徐々に織り上げられていくのである。この音楽づくりにも驚いた。

【デームスとともに】

そして、最後に述べなくてはならないのは、やはり、音色の柔らかさだろう。アンコール・ステージでは、サプライズ・ゲストのイェルク・デームスが最前列から舞台に上がり、「ウィーン2羽烏」(先代のグルダはもういない)連弾でモーツァルトをやるというおまけまでついたが、2人ともそれぞれに個性がちがうとはいえ、ウィーンの響きを踏襲する大事なピアニストである。デームスもそれこそ不健康そうな写真のおかげで、もう駄目になっているのだろうと決めつけていたが、どうして、2人とも自分たちの指が動く限りは、彼らが守ってきた響きを若い人たちに伝えていかねばならないと決意しているかのような、入魂の連弾が聴かれ、聴衆は望外の幸運を得た。

2人が代表するウィーンの響きは自然な風合い、自然な息づかい、自然な抑揚、そして、自然なフレージングに特徴づけられる。デームスのほうがカンタービレがつよく、バドゥラ=スコダは和声につよいという特徴を踏まえ、前者がファースト、後者がセカンドという組み合わせも自然であった。

【ピアニストと一体の作品】

演奏の上で特に完成度が高かったのは、バドゥラ=スコダ自身の委嘱で1950年代に作曲された、タカーチュ・イェネーの『パルティータ』であった。イェネーは1902年に生まれ、実に100年を超える歳月を生き抜いて2005年に息を引き取ったという、ハンガリーの作曲家にして、高名なピアニストでもあった人物だ。

この作品は5楽章構成ながら、全体で10数分しかないシンプルな作品であるが、イェネーにとっては、はじめて12音の形式に則ってつくった作品だったということである。その作風は直接の師であるバルトーク、そして、ラヴェル、ベルクなどの影響が色濃く残っており、のちのセリエール・ミュージックのように自由な展開はないが、一歩一歩、慎重に音を選んでつくられた・・それだけに、多少、硬さも残る感じのおっとりした作品として聴こえた。

作曲に際しては、バドゥラ=スコダの求めに応じ、一部、作品が手直しされた部分もあるといい、そのせいか、バドゥラ=スコダの手には本当にしっかり馴染んでいて、この作品だけは、このピアニストがいくつになろうとも、変わらず上手に弾けるのにちがいない。この友人のように、バドゥラ=スコダにも長く生きてほしいと思ったし、いつまでも活躍しつづけてもらいたいと思った。多少のミスは構わない。彼の演奏には、その何十倍にも値する魅力・・・今日のピアニストの演奏からは、なかなか味わうことのできない個性があるのだから。

演奏会が終了したのは、21:30ごろだろうか。長いコンサートであったが重さは感じず、あっという間で、ご老体はあくまで元気であった。

【プログラム】 2010年10月28日

1、モーツァルト ピアノ・ソナタ第14番
2、ベートーベン ピアノ・ソナタ第30番
3、ブラームス 4つの小品 op.119
4、タカーチュ・イェネー パルティータ
5、シューベルト ピアノ・ソナタ第21番 D960

 於:すみだトリフォニーホール

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