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2010年11月28日 (日)

スダーン ブルックナー 交響曲第8番 東響 サントリー定期 11/27

私の自宅にある小さなCDラックには、2005年に同じコンビで演奏したブルックナーの交響曲第8番の録音がある。当時、中興の祖である秋山和慶前音楽監督による体制を終了し、スダーン体制に変わってからまだ2年目の東京交響楽団の演奏だ。第3楽章の最後で、ホルンが最後の音をしっかり保持して、悠然と消えていくのを見送って、スダーンがチャーミングに投げキッスを贈った瞬間は、昨日のように思い出せる。

・・・しかしながら、演奏をつぶさにみれば大満足な演奏とはいえず、前途多難な印象は残った。あれから5年、東響の成長は世界中のオーケストラのなかでも、もっとも目覚ましいもののひとつに入るのではなかろうか。2010年11月27日の演奏は、あの日の堂々たる挑戦がまるで子どものときの出来事だったと思えるほどに、自信に満ちたものだった。80分がこれほど濃密にすぎ、ブルックナーの大曲で少しも退屈する時間がなかったこともない。この限られた時間のなかで、何度、涙がこみ上げてきたことだろう!

【スダーンのブルックナーの特長】

スダーンのブルックナーの特長は、次の3つに整理できる。①人間の身体のように、筋肉が全身を覆って、それらの収縮が響きとなって表れるということが、はっきりと掴める演素だったこと。②作品に込められた深い宗教性がブルックナー独特の強調で形になっていることが明確であること。③弦と管のバランスに均整がとれていて、それらの響きのつくるシンメトリカルな構造がくっきりと浮き出ていること。以上である。

通常、この巨大なシンフォニーの全体をくっきりとアーティキュレートすることは難しいので、結局、どこかにデフォルメを傾けることになるのが普通である。そのため、ブルックナーの交響曲演奏史は、非常に優れた指揮者とオーケストラによるものでさえ、どこかいびつなイメージを与えるものである。しかし、今回の演奏は、そのような種類のデフォルメは一切なく・・・敢えていえば、精緻な拍節感がそれに当たるかもしれないが、それを除けば、ある一部分を聴かせるために別の部分が犠牲になるということがまったくなく、楽曲のもつすべての特徴がほとんど破綻なくプレゼンテーションされている類稀なる演奏なのであった。

【響きの筋肉が導く構造の波】

まず、第3楽章について述べたい。5年前も素晴らしかったアダージョ楽章だが、まず1つ1つのラインがよりくっきりと明確な彫り込みとなったことは、東響の各奏者に芽生えた自信を示すなによりの証拠である。パート間の響きの受けわたしも長年、苦楽をともにしたクァルテットのように迷いがなく、それが有名なブルックナー休止をより深く掘り下げることになる。エピソードが細切れに浮かんでは消える序盤の演奏に込められた緊張感の高さは、ライヴならではの醍醐味だ。単に響きが清澄なのではなく、まるでワーグナーのオペラの素材がゆっくりと回想されるように、場景に喚起力がある響きがした。

この楽章にはいくつかの山があるが、それらは響きの自然な集積の結果としてナチュラルに強調され、脳から発せられた命令が神経を伝って筋肉に伝えられ、その働きがいつの間にか連動して、押し出されるようにして響きが絞り出されてくる構造が、目の前に見えるようだった。この引いては寄せる波のような粘りづよい表現の断続的な波の構造が、かつての演奏にはなかったものである。

【白眉の第4楽章】

しかし、白眉となるのは第4楽章だ。まず、冒頭の金管によるコラールと、それから導き出されるトランペットのファンファーレには度肝を抜かれた。ただし、この驚きは周到に用意されたものである。つまり、ここに至るまでスダーンは金管をそれとわからないほど、僅かに抑制して吹かせていたのだ。そのため、最初のインパクトが予想以上に強く、それが聴き手に驚きを与えるのである。それと金管の吹き方にも特徴があり、ブルックナー演奏で伝統的によく聴かれる下から巻き上げるような響きを使わず、スポット・ライトのようにパッパと点で大きく広がるような明晰な響きを用いていたことも影響している。

このことに関しては若干、議論があることも予想され、ブルックナーの交響曲に特徴的な響きの魔性のようなものが薄まる一方で、ピン・ポイントでのインパクトが強く、ハーモニー自体の味わいが際立つ点では興味ぶかい。

しかし、私が注目したのは、その下部構造を支える弦の響き、そして、中間で接着剤の役割を果たす木管の響きの頑張りだった。特に、拍の分だけ、しっかりと保持する弦の響きは構造の継ぎ目を圧倒的に美しくし、管楽器の継ぎめを上品に補っていた。金管の盛り上がりでも、必ず、それを下支えする弦の響きが緻密にデザインされており、これがいわば「筋肉」の印象を形づくるに主要な素材であったろうと思う。これはコンマスのニキティンとの連携プレーで、最小の動きで合理的に力を引き出す巧みなボウイングに支持される。つまり、強靱な肉体から気合いで声を絞り出すドイツ唱法ではなく、きっちり基本に忠実な方法で、必要なときに必要なだけ響きを取り出すベルカント唱法の適応である。

ただし、この表現は誤解を生みやすいので、念のため、書き添えておきたいのだが、これはドイツ的な作品にあるべき重厚な響きがないために、別の種類の響きを当て嵌めて取り繕うということでは決してない。そうではなく、そのように重厚な響きを引き出すために最適な、無理のないフォームをつくるということなのだ。

ただ、スダーン&東響による弦管のバランスはやや表現が難しい。例えば、弦のラインが明晰で、鋭いというだけならば、私の愛好するスヴェトラーノフ盤のそれに遠く及ばない。この録音では、弦のラインが正に生きもののように活きがよく、時折、光り輝くような響きがする。そうではなく、もっと弦管の対話が親密なのだ。先に「下部構造」という言い方をしたが、これも誤解を与えやすい言い方で、実際には、上部と下部の構造は密接に関係し、先に述べたような筋肉の動きで鮮やかに連動している。

プログラム掲載のスダーンとのインタビューにもあるように、多くの楽団では、この関係が得てして金管の支配構造となりがちなのであるが、弦セクションの響きの支えは例えば、もっとも響きの強いトロンボーンの圧力にまったくヒケをとらない。スヴェトラーノフの場合、それに加えて、弦が剥がれて浮遊するときの響きが物凄いのであるが、東響の演奏はむしろ、金管の下に入って隠れているときの響きのほうに存在感がある。

それにしても、東響の金管の響きは現在、在京オーケストラのなかでは新日本フィルと並び、響きは圧倒的に柔らかく、安定感も高い。一般的なステイタスでは上位とみられるN響や読響、さらに都響が、このセクションに人材を得ないのと対照的である。特に終楽章もコーダに入ってからの神々しい金管のコラールは、海外の優れたオーケストラと比べても遜色ないものだったはずだ。しかし、その爽やかな響きが輝けば輝くほど、その基底を支える弦の動きが気になってくるという演奏であった。

【厳しさからの解放】

また、今回の演奏は本当に息もつけないほど厳しい部分がある一方で、それを緩めて聴き手を微笑ませるようなリラックスした部分の両方が意識的に使い分けられた点でも、興味ぶかいパフォーマンスになっていた。細かいポイントの指摘は割愛するが、全体が10の場面にわけられるとすれば、せいぜい1ぐらいの割合でしかない。しかし、それでも特に重苦しい局面において、これが効果を発揮する。ブルックナーの作品に、なにか重苦しいものしかあってほしくない願望をもつ人は別として、そこでホッとすることで、全体の厳しい構造を受け容れることができる。これも、かつての東響の演奏にはなかったものだ。

以前の彼らは、ブルックナーに対して遠慮があった。日本のクラシック界では重苦しく演奏してこそクラシック音楽というような伝統的な視点もあったし、それはベートーベンの「精神性」などという意味不明の語彙のなかにも表れている。日本人はいちど瞑想に耽るなら、もう戻って来られないほど思い詰めるのがいいと思い込んできたところがある。しかし、信仰者が深い思考(瞑想)に沈んだあと、この世に戻ってくることでワン・サイクルを完成させることができるのは、キリスト教が「復活」を教義の根本にもつことからみても、至極、当然のことではなかろうか。

スダーンの演奏では、この瞑想あけの瞬間がしっかり刻まれており、それ以後は響きもこころなし軽くなるし、全体に流れがスムーズになるという特徴があるようだ。これは象徴的にはア・テンポの操作から感じられるものであろうが、それだけではないかもしれない。特に印象的なのは緩徐楽章の瞑想的な場面からの復帰であり、また、終楽章コーダの最後で、一挙に明るさに転回する場面の凄まじさも指摘できるだろう。そのため、終結の場面はきわめて快活な平和のファンファーレに包含され、どうもいろいろな録音を聴いても、最後が重苦しい音楽世界に見合わないと思っていた私の疑問に、きれいに答えを出してくれた形となる。

この部分は、明るくなくてはならない。このコーダの終結部分は信仰者が瞑想から現実に立ち返り、イエス・キリストの復活を追体験するときであり、かつ、それが国際平和条約締結(最初のファンファーレに関連し、オルミュッツ協定のことを念頭に置くか)の喇叭の音と重なり、心身の平和を祈るブルックナーの想いと重なっているのだから。

*ただし、交響曲第8番の作曲年においては、既にプロシャを中心とする「小ドイツ」による統一ドイツが生まれており、オーストリアはその埒外に置かれた事実がある。ブルックナーはそのような体制への批判や、将来、第一次大戦に繋がっていくことになるドイツ(プロシャ)、オーストリア、ロシア、フランス、トルコなどのあいだで争われた数々の紛争を念頭に置いていた可能性もある。

また、第3楽章はテンポの問題も含めて、ノヴァーク版の特徴を示す部分であることも付け加えておかねばならない。

【まとめ】

終演後は、ホルンの上間首席を中心とする金管セクションと、弦楽器からチェロ・セクションへの賞賛がつづいたが、私が個人的に注目していたのは、相澤首席率いる3管編成のフルート部隊である。相澤の技巧的なソロのパッセージも美しいが、随所に散らされるパート・ソロの華やかな響きも印象的で、この作品が3管編成で書かれていることの意義をつよく感じさせる。

確かに、弦セクションにおけるチェロのスピリテュアルな響きも注目に値するものだった。単に響きの深さやカンタービレの重みで魅せるだけでなく、全体の構造的な盛り上がりに寄り添う形で、深く食らいつくように激しく弓を入れるアクションが、深く胸に刻まれるものだったのではなかろうか。

とにかく、チームワークがいいことでは、そこに定評のあった都響を最近では完全に抜き去った(かつてはベルティーニ&都響ファンであり、いまは東響への愛情がつよくなった私からの率直な感想だ)東響の特長が、本当によく表れた演奏であり、終演後、(やや早すぎるかけ声は別にして、)拍手が盛大になってもしばらく動かなかったスダーンは、もしかして、いささか感極まるところがあったものかと想像するものである。指揮者が実際どうだったのかは知らないが、私はもう、こみ上げんばかりに感動した演奏だった。コーダの最後の部分なんて、獣のように理性を忘れて大声で叫んでしまいたいと思わせるほど、どうにかなりそうな驚きがあった。

はっきりいって、東響のここ何年かの明らかな進歩を確信する私でさえ、ブルックナーの8番で、5年前の演奏をそれほど大きく更新する自己ベストが出ることは、あまり期待していなかったのだ。しかし、それだけに結果の素晴らしさに息が止まりそうな想いをした。

なお、前半はダン・タイ・ソン独奏によるショパンのピアノ協奏曲第2番。何年も前、ジョン・ネルソン指揮パリ室内管の公演で、メンデルスゾーンのコンチェルトを聴いたことがあるが、それ以来の生演奏だ。悪くはないし、拍節感がしっかりしていて合わせやすいソリストと思ったが、ブルックナーをあとに控えての重厚な伴奏だから、(顔カタチはともかく)眉目秀麗な響きのソンではなく、エリーザベト・レオンスカヤでも呼んだらちょうど良かったのだろうと思う。

ただし、第2楽章は秀逸で、ここでもオーケストラの筋肉の動きを感じた。ピアニストよりも、伴奏の細かさに目のいくショパンだった。いずれにしても、集客には役立つとしても、ブルックナーがメインの公演では甚だ蛇足であろう。ショパンの好きな人はブルックナーに興味がないだろうし、ブルックナー目当ての人がショパンを愛好する可能性は低いだろうから。

よっぽど私は、ブルックナーもショパンも愛好する奇特な人間だから、邪魔ってことはないし、準備運動としても良かったとは思う。ただ、2つの曲では編成がまったくちがうため、前半で乗っていた人とそうでない人との差が序盤、若干みられたことは想定外のことだったのではないだろうか。

【プログラム】 2010年11月27日

1、ショパン ピアノ協奏曲第2番
 (pf:ダン・タイ・ソン)
2、ブルックナー 交響曲第8番

 コンサートマスター:グレブ・ニキティン

 於:サントリーホール

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コメント

私も聞きに行きましたが、この演奏相当大味に聞こえました。
良く鳴ってはいましたが、鳴らす演奏に終始した感が否めません。
弦が常に強く、第三楽章でハープが聞こえませんでした。
またVn.ソロを3人で弾かせていたのは、音量が強すぎデリカシーに欠ける、
とすら思えました。曲全体を通じて弱音がほとんどなかったのではないでしょうか?
バランスは良かったもののプログラム通り金管の支配構造だった・・と思った次第。
また、ダン・タイ・ソンにも同様の感想を持ちました。

でもアリスさんの方が過去の経緯とか
この演奏の背景とか良くご存知だと思います。
愚見の誤りを指摘いただければ幸甚です。


こんにちは。私もこのコンサートに行き感激さめやらず、感想をお書きになっているサイトを捜してここに行きあたりました。
1楽章をしばらく聞いて、これはすばらしい演奏になるのではと感じました。1,2楽章は申し分なく、ただチェリの8番を聞きなれていることもあって、3,4楽章はもっとテンポを落とした方が好みなのですが、演奏自体は大変立派だったと思います。

P席にいましたので、スダーンの指揮や息使いがよくわかり、指揮者の呼吸に合わせてオケも呼吸しているように感じました。そして、その呼吸を共にしている自分がいました。スダーンとしても自分の思った通りにオケが鳴っているように感じられたのではないでしょうか。

秋山のブル4ではホルンソロがとちりまくっていたのですが、今回はソロがその時と代わったこともあり素晴らしかったと思います。ブルックナーでここまでホルンが安定していたのは、私の聞いた中では一番です。
退場するときのメンバー達の表情から、オケとしても快心の演奏だったことが感じられました。
2月の5番も期待しています。

「様々な意見クン」さん、ご意見に感謝します。しかし、私の感覚とは違うという印象です。そういう大味な演奏で、mf以下がないような演奏なら、私は決して、この演奏を評価することはなかったでしょう。

確かに、スダーンはザルツブルクのモーツァルテウムでながく教鞭をとったように、学者肌でありながら、イタリアのオペラ・ハウスでも活躍するノリのいい指揮者でもあり、多少、暴走するというか、華やかにならそうとする趣向はなくもない人です。しかし、ちゃんと絞るところは絞っているし、弱音がなかったというのは偏った印象であると思います。細かい部分が徹底的に磨き込まれているから、響きにブレがなく、弱々しくならないのだと思います。

強い音が印象に残りやすいでしょうが、なんと、こんなところできれいにヴィオラが鳴るのかとか・・・弱音でじっくり粘ったりする場面が書ききれないほどあって、いかにもスダーンらしい演奏だったと思います。スダーンの演奏が「デリカシーに欠ける」なんて、秋山時代、彼のモーツァルトの交響曲第40番をはじめて聴いて、こみあげてくる涙に耐えられなかった「出会い」から、いまに至るまで、いちども思ったことはないです。繊細な上にも、繊細な指揮者と思ってます。

また、強弱というのは音量によるダイナミズムの変化だけで表現されるものではないのではないか、という提起もしておきたいと思います。

ブル好きさん、ご意見ありがとうございます。本当に、指揮者と奏者が一体となった良い演奏であったと思います。ブルックナーのファンは立場がはっきりしており、わりに好みが固定する印象があるのですが、柔軟な感覚をもたれて、この演奏の素晴らしさにも十分感応してくださったことには、その立場ではないものの、感謝の念を禁じ得ません。ちなみに、私にとっても、チェリビダッケのブルックナーはバイブルのようなものですよ。

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