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2010年11月 9日 (火)

クァルテット・エクセルシオ シューベルト 死と乙女 第20回定期演奏会 11/7

【室内楽の可能性】

室内楽というのは、もともとプライヴェートなものだ。交響楽のように規模の大きなホールや、大人数のよく鍛えられたオーケストラに頼ることなく、音楽家と聴き手の親密で、かつ、相互的な表現空間をつくりやすい。交響楽が民族や国家、地域というものの象徴であるとするならば、室内楽は茶室の機能によく似たもので、亭主=音楽家の世界観が聴き手と触れ合うための、デリケートな空間を用意することになる。

そのフレキシビリティは現代においては、実は、より大きな可能性をもっている。100名から成るようなオーケストラを養うには多くの無理も必要だが、例えばクァルテットなら、もっと少ない投資で、高い効果を得ることができる。あちらこちらへの地方へ出かけていくことも容易だし、そんなに立派なホールがなくとも、ちょっと広い空間さえあれば、わりに簡単に演奏会を開くことができる。オーケストラが動くとなれば、交通費や宿泊費の実費だけでも相当なものだが、クァルテットではその心配もあるまい。

音楽という芸術分野が人間の生き方に力を与える存在であることは、ここで改めて論じるまでもないことだが、その素晴らしさの代償として、多大なリソースをかけねばならないことから活動の継続そのものが難しくなっているオーケストラやオペラと比べれば、室内楽という分野は、特に成長性が高い分野といえる。クァルテット・エクセルシオ(以下、エク)はインターナショナルな実力がありながらも、敢えて日本国内で、そのような成長分野を粘りづよく開拓しようと頑張っている数少ないグループのうちのひとつであり、そのうちで、もっとも先進的な視野をもったグループといえる。

いまのところ、知名度では、古典四重奏団にはかなわない。日本ではクラシック愛好家にとってさえ、室内楽は不当に注目度が低いため、そもそもエクの名前さえ知らないファンだって多いことだろうと思う。しかし、彼らは単に不人気な室内楽で頑張るというだけではなく、その室内楽というものを使って、大げさにいえば日本を変えたいと志している人たちだ。エクは日本ではじめてNPO法人となり(世界的にもほとんど例はないだろう)、富山県入善市をはじめとする諸地域で、オーケストラがやるようなアウトリーチまで展開しているのだから驚きだ。定期演奏会も東京だけではなく、京都に、札幌にと広がった。オーケストラでは、なかなかこういう展開は難しい。

エクにとって、永遠の目標は巌本真理弦楽四重奏団だという。この歴史的なクァルテットは単に演奏がよかったというだけではなく、オーケストラと同じような定期的な活動をつづけたことで、室内楽グループとしては世界的にみても類を見ないような快挙を成し遂げていたという。エクは巌本真理SQの活動により現代的な社会的視点を入れて、発展的にその志を受け継ごうとする唯一のグループといえる。

【成長力のあるクァルテット】

ただ、その志はよくとも、演奏が悪くては話にならない。エクはまだ若く、発展途上の面もあるとはいえ、実力においても、海外の成熟したクァルテットと比べて決してヒケをとるものではないと思う。「若い」とはいっても、それはこの業界特有の「専門用語」で、この日の演奏会は実に20回目の定期演奏会に当たっている。途中、メンバー交代(都響の人気ヴァイオリニスト、遠藤香奈子首席が所属していた)をはさみながらも結成から16年、年間60回ちかい演奏を重ねてここに至っている事実を忘れてはならないのだ。一昨年は新日鐵財団より「フレッシュ・アーティスト賞」なるものも貰ったようだが、受賞自体には喜びながらも、本人たちもこれには苦笑したにちがいない。

さて、そのエクにとって記念すべき20回目の定期演奏会であるが、彼らにとっては通過点にすぎないのかもしれない。というのも、彼らの演奏をはじめて聴いた2005年以降、私は10年ちかくも、このグループを断続的に聴きつづけてきたのだが、その間、聴く度に印象が変わってきた記憶があるからだ。オーケストラでは東響が同じような傾向を示すが、これらのグループは演奏が良いという前提だけではなく、常に良い方向に変わりつづけ、腕とあたま・・・つまり、技術と哲学を徐々に研ぎ澄ましてきたという実感を抱かせるに足る、数少ない集団なのだ。そのことを評価しているために、私はこれらのグループを特別に愛しているというわけである。

【向上した西野のデリカシー】

今季は6月の定期を都合で聴き逃したために、間が空いてしまったが、その分、彼らの成長がよりハッキリと感じられた。特に、今回の演奏で感じたことは、良くも悪くもクァルテットの顔となる使命の、第1ヴァイオリン・西野のパフォーマンスにより一層の緻密さが認められたことである。彼女のヴァイオリンは響きに奔放さがあり、緻密なエクのアンサンブルのなかでも推進力に満ちた響きをつくる。その分、手堅い周りの3人と比べると、出来/不出来も大きいわけである(元来、それが第1ヴァイオリンの宿命ではあるが)。

ライヴでは、すべて完璧にいくことなど求めるべきではない。しかし、その分、最低限、必要なデリカシーのようなものは大事になるわけだが、そのレヴェルが高いか低いかで、響きが上手にはまらなかった場合の印象が決まるといっても過言ではない。極端にいえば、うまくいかなかった部分でこそ、音楽家の価値はみえてくるのだ。その点で、今回の西野はとても良かった。いつものように萎縮しない、開放的な響きを保ちながらも、演奏が一段と丁寧に聴こえる。そのため、全体のバランスがいつもよりも、かなり凝縮して聴こえたのだ。

【死と乙女】

この日の白眉はなんといっても、シューベルトの名品、弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」だろう。この作品については、この定期を目がけて今夏、録音された最新のディスクに収められることになったが、その録音については改めて紹介するときがあるかもしれない。

あとで聴いてみた録音と比べると、表現は少しだけマイルドなものに感じられた。特に、第1ヴァイオリンのカンタービレがいくぶん淑やかで、それにつれて、全体の構造がより柔らかく表現されている。とりわけ最初の楽章の穏和な第2主題のカンタービレに、よりジェントルなユーモアが加わり、若干、くすぐったい響きがするのが印象的だった。

白眉は、第2楽章のアンダンテ・コン・モートである。

まず、この楽章の主題はベートーベンの交響曲第7番のアレグレット楽章に類似している。ただし、この主題の出所は、自作の歌曲であることは周知のとおり。今回は、最初のモーツァルトでも自身のディヴェルティメントとの通交性、また、ヴァイオリン・ソナタとオペラの関係性などがプログラム上でも指摘されている。こうした点を紛れなく描き出すことには、メリットがある。1つにはシューベルトのもつ古典派的な性格を把握するのに幸便であり、また、シューベルトにおけるベートーベンからの影響を改めて確認する上でも意義がある。

【卓越したバランス感覚】

ただし、「意義があること」が良い演奏に繋がるのかどうかは微妙なところだろう。この理知的なアドヴァンテージに花を添えるのは、エクのつくる独特のバランス感覚だ。とりわけ感動的なのは、最初の変奏における第1ヴァイオリンの美しいソロと、それを支える他の声部のバランスの良さである。ここで西野の硬軟を使い分けたヴァイオリンの妙技を指摘するのは容易いが、私は、特に山田(第2ヴァイオリン)と吉田(ヴィオラ)のつくる内声と、それを優しく、堂々と支持する大友のチェロの響きのセットになった通奏的なバスの圧倒的な説得力に注目したい。

【全体的に和やかになったライヴ】

その後の変奏とコーダは、テンションが高く、響きに厚みのある録音よりもややクールで、シンプルな解釈に落ち着いている。私はどちらも好きであるが、数ヶ月の月日をおいてつくりなおした生演奏の響きには、やはり成熟的な深化(進化)を感じる。特に、後半のトレモロの響きはこころなしか、扇情的な録音の演奏よりも内省的で、表情が和やかなのが気に入った。

スケルッツォとフィナーレは、拍節感の逞しさで録音のほうが優れている感じもある。特に、フィナーレの終盤、チョロチョロとヴァイオリンが細い動きでハチドリが羽ばたくような響きを飾るところが、あまりに小手先な印象を受ける。しかし、あとで録音を聴きなおしてみても、この楽章はリセットが難しい一筆書きの構造に、いろいろなトラップが張ってあって難しいことこの上ない。ライヴでは、細かなズレさえも細部の印象を薄くし、それを取り返すのは容易でない。

とはいえ、ここでもサウンドの凝縮、よりシンプルな表現の浮き沈みが成熟し、より良い方向にエクが向かっていることは議論の余地がない。今後、半年ほどはこの曲を弾きつづけるようなので、機会があれば、再び聴いて印象を確かめたいと思う。私は生来、飽きっぽい性格なので、どんなに良い演奏であっても・・・否、良い演奏に接すれば接するほど、もうしばらくは、その曲を遠ざけておきたいというタイプなのだが、エクの場合は、もうひとつ奥御殿がありそうだという印象があり、興味は尽きないのである。

【かくあるべきか?】

ベートーベンの弦楽四重奏曲第10番「ハープ」は、エクが最初の録音で入れている曲目だ。リリースは3年前のことだが、この曲の演奏も明らかにインプルーヴしていた。最初の楽章の美しく儚げな滑り出しは、いくぶん響きがきりっとして、印象的な休符の処理も自然な間合いとともに、鋭く示唆的になったように思える。フレージングも以前より明確で滑らかでもあり、4つの声部の結びつきが深くなったように思われるし、上げ弓をさりげなく織り込んだ、下げ弓主体の華やかで柔らかいボウイングにも工夫のあとが窺える。

いちばん良くなったのは、第3楽章である。私はこの録音のトリオに見られるポリフォニックな部分に不満で、もっとゆったりとラインの端麗さを強調すべきではないかと思っていた。しかし、新しい演奏は意外にも、CDよりもっと速くなり、ラインの端麗さを強調するどころか、むしろ破裂させる方向にデフォルメが進んでいたのである。

だが、そのことを腹立たしくは感じなかった。今回の演奏を聴けば、私の考えはなるほど愚かであったと認めざるを得なかったからである。私はここで、チェロのアグレッシヴな響きを皮切りに、ヴィオラのつよい響きを重ね、さらに2つのヴァイオリンを奔放に走らせることで、ベートーベンが何をしたかったのかについて、なにひとつ考えていなかったようだ。自信満々に大友が速いパッセージを滑らせ、吉田がそれにさりげなく乗っかっていく。そして、これに思いがけないリズムで、ヴァイオリンが滑り込む動きがつづき、対位法的なバランスは大いに乱れるのだが、ギリギリ振り落とされないというレヴェルには止まっているのだ。

上の流れは録音のときよりも速めのテンポも手伝い、ずっとスムーズに表現されているせいか、以前よりも意図的なものに聴こえる。とすれば、演奏が悪いからポリフォニックなラインが出ないのではなく、もとから均衡が破れるようにベートーベンが書いたのだと判断するほうがより自然である。ベートーベンは古典派中の古典派であり、仕事が上手に進むと神さまに感謝するかのように、美しいフーガやカノンを書くのが常であったが、この「ハープ」の時期では、未だ「かくあるべきか?」という疑いと相半ばしていたのかもしれない。

エクの演奏ではそのようなベートーベンの問いかけが率直に表現されているように思われるが、これは同時に、常に「かくあるべきか」と自らに問いかけながら、真摯な仕事をつづけるクァルテットの姿勢そのものにも通じるものがある。彼らが記念すべき20回目の演奏会・・・それはあらゆる意味でリ・スタートの意味をもつ演奏会だ・・・に当たって、この「ハープ」を特に選んだ理由は、このようなところにもあったのかもしれない。

【かくあるべし】

一方、終楽章では「かくあるべし」という確信に満ちた美しい対位法的な書法が浮かび上がる。ただ、上のような特徴を踏まえ、明らかにベートーベン的な独創を加えたことが明確な点で、特徴のある演奏になっている。かつてのエクの演奏と比べれば、要所で響きを折りたたむ西野のヴァイオリンのユーモアが、より自然に、かつ、印象を増していたが、他の声部と協力しての跳躍的な部分の強調はより滑らかになり、その種のわかりやすさは意図的に排された。

全体的にメッセージの輪郭がハッキリとして、構造的な端正さが向上している。また、力まねばならないような場面でも表現に余裕が生まれ、最後、ふうわりと響きが千切れておわるような場面は、倍旧の説得力を備えるようになった。ベートーベンらしい力の入れ方/抜き方に、一貫した法則性のようなものが感じられ、それが響きの硬軟によってさりげなく示されているところに、感銘を受けた。また、第1楽章のハープの響きも、よりはっきりとハープらしい音色になっており、そんなところにも、演奏に生まれた余裕を見つけ出すことができる。

【まとめ】

こうして、少しずつ演奏に余裕をもたせることで、表現の可能性は幾重にも広がっていく。探求心の薄い音楽家や、そのこころはあっても技術的に磨きのかからない音楽家にとって、このような余裕はいつも変わらず、変化に乏しい。エクはそうした領域をいつも、どうにかして、少しでも開拓したいともがいているようなグループだ。

その点、例えばパシフィカQのような天才的な力をもったグループではなく、エクは人間くさいところがある。国際的なコンペティションでも高く評価されたエリート性もあるのに、その良さに安住しようとしない。いつも、なにかに悩んでいる。そして、どちらかといえば、他人が選ばないような厳しい道を行こうとする不器用さが堪らない。私もまた、彼らのような才能はないけれど、すすんで厳しい道を選びたがる不敵な人間だから、共感が深いのかもしれない。

演奏にもまだまだ不用意なところもあるとはいえ、「ハープ」は彼らにとって、ひとつのメルクマールとなるような作品となるのかもしれない。キーワードは、「かくあるべきか」「かくあるべし」。エクの冒険はつづいていく・・・。

そんな彼らに、是非とも温かいご支援を! ささやかな友情の、または、応援のしるしとして!

あるいは時代柄にあわせて、こう言ってみてもいい。成長分野に、適切な投資を!!

また、あるいは、米国の刑事ドラマ『刑事コロンボ』の有名なエピソード(邦題:策謀の結末)で、アイルランドの気障な詩人活動家、デブリン氏は次のような銘の入ったアイリッシュ・ウィスキーを愛飲する。ひとには、ふさわしき贈りものを!

【プログラム】 2010年11月7日

1、モーツァルト 弦楽四重奏曲第7番
2、ベートーベン 弦楽四重奏曲第10番「ハープ」
3、シューベルト 弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」

 於:東京文化会館(小ホール)

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