2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ

« パウル・バドゥラ=スコダ pf シューベルト ソナタ D960 ほか 〜デームスも登場 10/28 | トップページ | フェリックス・アーヨ vn ブラームス ソナタ第3番 @東京文化会館 11/3 »

2010年11月 1日 (月)

ビントレー振付 ペンギン・カフェ (Still life) 新国 バレエ公演 10/31

今季から、新国立劇場のバレエ部門芸術監督として、本格的に采配を振るうデイヴィット・ビントレーがシーズン・オープニングに選んだのは、彼の本拠、バーミンガムで1988年に初演された自作『ペンギン・カフェ』を中心に、古典的なフォーキン振付の『火の鳥』新制作、バランシン振付の『シンフォニー・イン・C』を組み合わせたトリプル・ビルの演目であった。

全幕もの=物語バレエに関心の集中する日本のバレエ・カンパニーの傾向を踏まえながら、より新しい領域を切り開いていこうとする方向性を示すかのような演目だ。万全を期して、指揮にはビントレーの盟友、ポール・マーフィーが呼ばれた。

【火の鳥 装置/振付の印象】

まず、ストラヴィンスキーの音楽によるフォーキン振付の『火の鳥』である。31日の公演は、英国バーミンガム・ロイヤル・バレエから、エリーシャ・ウィリスとイアン・マッケイという2人のプリンシパルが客演し、火の鳥とイワン王子に扮する。一方、姫役とカスチェイ王は、新国のソリストである寺田亜沙子、冨川祐樹が踊った。冒頭に幕に投影される城のデザインと、フィナーレの背景画はゴンチャロワのオリジナルを生かし、それ以外は、『アラディン』で魅力的な舞台をつくったディック・バードの装置によってリフレッシュされた。

カスチェイ王の庭は、中央に問題の林檎の木。そして、同じように背の低い木が取り囲んでいる。舞台下手に青をベースとした魔木のようなものが見えるが、最後に、そこからカスチェイの卵が取り出される仕組みになっていた。

振付自体はとても素朴なもので、時代柄を示している。初演時はこれでもかなりエキゾティックな要素を含んでいたのだろうが、例えば、最初のほうでぴょんぴょん跳ねまわる少女のように、自由に遊んでいる火の鳥の振付など、美しいというよりは、可愛らしい印象を抱かせる。

【ミニマムから最大の効果を!】

面白いのは説明的な要素を最小限に抑え、火の鳥と王子の関係の深まりが一見、型どおりに発展していく踊りのなかに、巧妙に見出されることだ。はじめは逃げようとする火の鳥を捕まえていた王子に対して、火の鳥も次第に気を赦しはじめ、飛び跳ねる火の鳥を男性が上手に助けるようになったあと、はじめて王子が火の鳥から手をはなす場面が、さりげなく印象的だ。王子に別れを告げ、去っていく火の鳥の動きが先程よりも軽く、明るくなっていることで、王子に出会った火の鳥の喜びがこれまたさりげなく表現されている。

火の鳥の動きは、一見してインパクトのつよいようなものではなく、素朴で、柔らかい手足のしなりで表現される。これはウィリスの個性であるかもしれないが、飄々と、力まない表現が、肝心なところで味を出すのが興味ぶかい。つまり、最初の王子との絡みでは、火の鳥の振りは素朴で、キュートでさえあるのだが、王子の危機に駆けつけて魔物たちを操る段までくると、そのシンプルな動きが、かえってリアリティを生み出すことになるという仕掛けなのだ。

【手の届く漫画的な表現】

この『火の鳥』というバレエ作品は、題名役の魔力が笛の音で表される部分があることを中心に、モーツァルトの歌劇『魔笛』のモティーフと重なる部分が多く、それらが下地になっていることは間違いないのだが、いずれの作品においても、魔笛なり、火の鳥という人知を越えた切り札の表現にこそ、大きな悩みの種があると言っていい。その点、フォーキンの火の鳥は、現代の我々が知るような表現手段に置き換えてみれば、アニメ的な表現に接近している。

そういえば、二期会のいちばん新しいプロダクションの『魔笛』、つまり、実相寺昭雄の演出によるプロダクションも、アニメ・ゲーム的な要素を中心に、ウルトラマンの特撮で培ったエッセンスを加えたものであった。このような世界観は我々の空想を素直に実現し、娯楽的に高めたともいえる漫画の要素と近しいのかもわからない。ストラヴィンスキーは火の鳥の伝説にこめられた人々の願い・・・それは平和や解放へのつよい希求を含んでいる・・・をわかりやすい音楽に託し、決して手の届かぬ理想ではなく、すぐそこにある希望のように描こうとした。

フォーキンの振付も同じように、火の鳥を高嶺の花に据えるのではなく、羽一枚で我々のもとに来てくれるような親しい存在として、しなやかに描いているのである。

王子もまた、特別の人間ではない。この王子の取り柄といえば、度を越すぐらい恭しい態度の和やかさにある。象徴的なシーンは王子と、魔王に閉じ込められていた女たちがはじめて出会う場面で、怖がる娘たちに王子は帽子をとり、恭しく挨拶をする。娘たちは思わず頭を垂れて、王子と会釈を交わす。その自然な所作が、マッケイの王子においてとりわけ印象的だ。無論、王子の最大の見せ場は、火の鳥と出会ったあと、彼女の踊りをサポートする動きのなかにあるが、その点でも、外国のプリンシパルらしい安定感が漲っている。

あとで貝川のところでも同じようなことを(反対の意味で)述べるが、彼のサポートは相手のダンサーの先を読むもので、女性の動きにあわせるのではなく、先導するような動きになっている。ところが、そのことを表面上、感じさせずに、火の鳥の自由を損なう印象はない。これが本来の、男性ダンサーの役割なのではなかろうか?

なお、最後の場面の背景となるゴンチャロワのデザインは、1つの見ものである。クレムリン宮殿に見られるような丸屋根の建物がぎっしりと描かれた背景画は、それだけで、当時のロシアの威勢というものを感じさせる。だが、それを生かすためには、全幕にわたって、この背景画のモティーフを逆算的に生かしていく必要があるが、そこまで緻密なプロダクションにはなっていない点が批判材料として残るだろう。

【その他の要素】

カスチェイ王は、この振付では、登場の場面でもっとも「おいしい」役割を演じる。黒い幅広のマントをまとう衣裳も格好よく、王子を圧倒する。長い爪を利用した艶めかしい動きなど、冨川が上手に踊っていた。火の鳥再登場のあとについては、既述のとおりだが、この場面は、コール・ド・バレエが非常に滑らかだった。

最終の婚礼の場面は、最初に廷臣たちが列を成し、王子と姫が手を取りあうまでで、ほとんど動きがおわり、静止画になってしまう。舞踊については詳しくないのではっきりとは言えないが、これは多分、今回のメイン・プロダクションである”Still life”、つまり、「静物画」にちなんだビントレーの意図に基づくものと思われるが、どうだろうか。

そのこと自体はあり得ない発想でもないが、それならば、最後、テンポが速くなってからの音楽表現がやや浅いように思われるのはネガティヴだ。動きを入れない分だけ、バレエの舞台では本来、さほど望めない音楽的な自由が許されることになるはずなのに、マーフィーの表現は単なる早送りであって、音楽的な余裕を楽しんでいない。その点には、不満が残った。

【シンフォニー・イン・C】

2本目の『シンフォニー・イン・C』は周知のように、ビゼーのハ長調(C-major)の交響曲に基づく物語性のないプロットレス・バレエである。ジョージ・バランシンの代表的な振付のひとつとして、音楽ファンよりも、舞踊ファンによりよく知られている作品だろう。今回のプロダクションは舞台装置がなく、衣裳も1色のクラシック・チュチュと、男性は黒タイツのみで踊るという、まるでコンペティションのようなミニマムの舞台である。終楽章を除き、踊り手の人数も多くないことから、踊り手の資質を楽しむにはもってこいの作品だ。

31日のプリンシパルは、第1楽章:米沢唯&菅野英男、第2楽章:川村真樹&貝川鐵夫、第3楽章:厚木三杏&輪島拓也、第4楽章:丸尾孝子&古川和則。このなかで特に目立ったのは、第2楽章の川村と、第3楽章の厚木である。

【川村の輝く第2楽章/貝川には不満】

川村はこれまで私が接してきたプロダクションからもみても、この劇場所属のダンサーではとりわけ基本に忠実で、1つ1つの所作がエレガントな踊り手である。クラシック音楽は多かれ少なかれ、舞踊的な音楽と関係があるが、このビゼーの緩徐楽章(アダージョ)は踊るための要素には疎遠であり、それだけに、そこに挑戦心をもって振り付けたと思われるバランシンの意図を高いレヴェルで読み込んでいく能力の高さ、それを表出する動きの高雅さが求められる。川村は例えば、右足を斜めに振り上げて直立する姿の美しさだけで、観客をドキリとさせる味わいをもつ踊りをしたのであり、役割は十分に果たした。

欲をいえば、最後のほうでじんわりと滲み出てくる官能的な動きを、適度な甘みをもって表現できればいうことはなかった。

しかし、それを実現するためには、貝川というパートナーは若干、役に余る感じがする。新国ではトップの男性ダンサーのひとりに位置づけられる貝川の踊りは初めてみたが、全体的にノーブルで、しっとりとした踊りくちは決して才能不足とは思わない。ただし、先に書いたマッケイの動きとは対照的に、貝川は相手にあわせすぎているのではないか。先、先をとる動きのリード力がなく、相手が動いてから後追いでサポートにまわるため、相手の動きのもつ美しさを、十分に引き出しきれていない感じがするのである。

【個性的な厚木/やや幼い米沢】

厚木も初めてみたが、こちらはもともと舞踊楽章(スケルッツォだが)であるため、第2楽章に比べたら、もとから見栄えがする。ビゼーは歌劇『カルメン』の成功で知られるように、ラテン的な性向の音楽を書く。厚木は踊りの表情がとにかく明るく、ダイナミックな点で、そのようなビゼーの舞踊楽章を踊るにはピッタリのダンサーである。厚木は若干、粗削りな部分もあるが、個性的な踊り手であり、どちらかというと新参ではあるが、既に高い人気があるのも頷ける。

第1楽章の米沢唯は、これが新国初登場となるのだろうか。基本に忠実で、フォルムのつくり方などが傑出して美しい点で、期待のできる新人だと思った。しかし、年齢に対して表現がまだ幼く、フィギュア・スケートで言えばジュニアの範疇を出ていなかった。自分の殻を破ってほしい。足で床を押す力が足りない点に加え、サイズがないことも影響していると思うが、スケール感に乏しいのも難点である。

【その他の要素】

終楽章は、ソナタの形式の積み上がりや素材の再現を利用して、4つの楽章のキャストが勢揃いする後半戦が見どころであるが、ここにおける群舞の整然とした動きは、いかにも新国らしいものであった。

音楽はそれなりに手堅いものであったが、若干、ダイナミズムの幅に限りがあるのと、リズムのヴィヴィッドな跳躍や、止めに鋭さが不足しており、ここでもマーフィーの指揮ぶりはもう一歩と思われた。ただし、群舞のゴチャゴチャする場面での交通整理はさすがで、その点を評価して差し引きゼロとしておく。

【ペンギン・カフェ/概要】

最後は、お楽しみの『ペンギン・カフェ』だ。原題は”Still life”で、熟語として「静物画」の意味であるが、’still’を副詞ととれば、「まだ生きている命」という意味にもなり得る。踊り自体はコミカルなものが多く、アシュトンの『ピーター・ラビットと仲間たち』のように、動物の被り物をしたダンサーたちが活躍する。ただし、それらの動物は絶滅種/絶滅危惧種の動物たちであり、これらの動物は最後、ペンギン・カフェの提供するシェルター=ノアの方舟に非難するというアイロニカルな筋書きをもつ。子ども用の部分と、大人用の部分が不可分に繋がっている。

そのベースにある音楽は、サイモン・ジェフスを中心に、70年代中葉から90年代まで活躍したフレキシブルな編成によるグループ、ペンギン・カフェ・オーケストラによる音楽を、ジェフス自身がオーケストレーションしたもの。ジェフスはもともとクラシック・ギタリストで、せいぜい室内楽的なユニットを対象とした音楽を書いていたため、本格的なオーケストラ編曲はこれが初めてだったという。なお、作曲者のジェフスは1997年に亡くなった。

当時、まだ注目されていなかったワールド・ミュージックの響きと、そのブックレットに載ったペンギンのイラスト、さらに、絶滅種や絶滅危惧種について書かれた文献などからインスピレーションを得たビントレーは、それと関連する地方のダンスなどを組み入れながら、この作品を振り付けていったという。クラシック的な動きはさほど重視されず、ブレイク・ダンスなどを含む多様なダンスのフォームを組み合わせた舞台は、あっという間に過ぎ去ってしまう密度の濃さだ。

【理想的に共存するペンギン・カフェ】

最初のペンギン・カフェの場では、メインの井倉真未を中心に、3羽のペンギンがお客たちをコミカルに迎える。客たちのなかには、カフェのホスト同様にペンギンの頭をもつものと、普通の人間が同居している。ミニマルを基調にした軽いロック・テイストの音楽は、どこかから聴こえるメゾ・ソプラノ(二期会の渡辺敦子)のヴォカリーズがアクセントになり、とっても柔らかく、温かい雰囲気を醸成する。人間と動物たちの理想的な溶けあいが象徴され、この場面で、一気に世界に惹きつけられる。

【前半のヴァリュエーション】

一転して、ユタの大羊が登場した次の場は、遠藤睦子のエレガントな舞いに息を呑むことに。男性とのコンビもよく、どちらかといえば官能的な舞台を、ユーモアも交えながら優雅に織り上げる。サロペット・ジーンズを着たテキサスのカンガルーネズミ(福田圭吾)は、人間の思いどおりには動かない気紛れを、うまく表現している。踊り疲れてぐっすり眠り、音楽も静かになって、これで終わりかと思いきや、すくっと起き上がって短いエピローグがつく。ブレイク・ダンス的な部分はとてもうまく踊らないで、すこし舌っ足らずな感じにしているのがネズミのキャラクターに相応しい。

豚鼻スカンクにつくノミの場は、小難しい動きがなく、クラシックな演目からはもっとも遠い。衣裳や動きから、アイルランドや米国の田舎のフォークダンスかと思われたが、英国の農村に伝わるモリスダンスがベースになっているという。先の川村とフォームの美しさを競う西山裕子が扮するにはもったいない役と思ったが、これにはあとで仕掛けがある。威張らずに、しかし、ふてぶてしくノミを演ずる西山が、人間にくっついたところで退場となった。

【シマウマ以降】

ケープヤマシマウマ(古川和則)の場面から、段々に雰囲気が変わってくる。その古川は精確なダンスで、リズム感が抜群だ。男性だが、女性的な動きのしなやかさもあった。さて、そのシマウマの場面の最後で、舞台に銃声が響くとシマウマは倒れ、リアルにもヒクヒクいったあとで事切れてしまう。この場面だけは、親たちが子どもにみせたくない場面だろうが、彼らだって、自分たちの同胞がしていることに目を向けなければならない。

それなのに、舞台下手に集まった婦人たちは、まるでシマウマ狩りを楽しんだあとのように、あるいは、それに関心さえ払わぬかのように、ふわふわとした表情のない動きではけていく。

その雰囲気を引きずったまま、とても静謐な音楽で、「熱帯雨林のアボリジニの家族」が登場する。雰囲気は似ているものの、シマウマの悲劇性はやがて、しっとりとした音楽の湿度のなかに消える。その過程で、再び歌手のヴォカリーズが効果的だ。夫婦役の男女のダンサー(小野絢子&山本隆之)に、子どもがひとり。動きは主にゆったりしたもので、母親が息子に添い寝して寝付かせる場面が印象的だ。小野も初めてだが、シルエットが美しく、動きが優しくて華やかである。山本はこの劇場の男性ダンサーのなかではやはり、目立ってフィジカルに優れている。

家族は寄る辺なく、どこへともなく去っていく。

【猿の転換→フィナーレ】

このムードを、吉本泰久演ずるブラジルのウーリー・モンキーが徹底的に転換する。ロック・スターのような猿の動きに導かれ、オールスターが勢揃いするクライマックスは、ブラジルの昂揚的な音楽で飾られ、興奮を誘う。吉本の機動力、そして、そのなかで質の高い動きを連続できる能力は、きっと世界のどこに行っても通用するはずだ。・・・しかし、それだけでおわらないことは、シマウマやカンガルーネズミの場で学習済みだった。踊りを楽しんでいたはずのカフェの客たちが、突如、銃弾に撃たれたように倒れ出すところから、再び大人の時間が始まる。

その場にいなかったペンギンが慌てて現れると、ミラーボールをまわし、雨か雪でも降りしきるような、あるいは、もっとマジカルな現象が起こったかのような場面が演出され、これまでとはちがう動きが試される。それまでに出演した動物たちがたがいちがいに出てくるが、今度はまとまった動きをとらず、各々走って出現すると、ちらっと象徴的な動きをとっては走り去っていくという動きがつづく、第2の盛り上がりが見ものとなった。

それらはいわば、踊りのクラスタを撒き散らしたような不思議なクライマックスであるが、ここでようやく、クラシック・バレエ的な動きも現れ、緊張感のあるシーンではあるが、ファンをすこしだけ喜ばせる。ここで印象的だったのは、ノミの場面では平易な踊りに徹していた西山の優雅なリフトであったろう。

また、動物に扮していたダンサーたちが、今度はマスク・オフで現れるというシナモンも降りかかっていた。

【シニカルなエピローグ】

このリリックな雰囲気が、エピローグに流れ込んでいく。動物たちはペンギンに導かれて、舞台奥の扉に消えていく。そして、そこにノアの方舟のようなイメージが映し出され、ペンギンがダンスで送り出す。音楽は静まり、舟を映し出していたスクリーンが透けて、なかの動物たちにもういちど会わせてくれる。私たちは、そこで彼らを舟中のシェルターに追いやった自分たちの態度に気づいて、涙するほかない。これまで踊った動物たちが魅力的であればあるほど、その思いは強くなるはずだ。

非常にウェットな方法であるが、効果的である。この日のロビーにやってきた、可愛らしいWWFの熊のマスコットのように。周知のとおり、いま、COP国際会議では、生物の多様性について話し合われている(よっぽど、ここでは人間が切り取った自然・動物の分配方法について、主に話し合っているようだが)。

【偉大な振付家への敬意】

なお、終曲の音楽は「1ー4のナンバー」とあり、最終的にコーダのまえで従来の素材が再現されるシンフォニーの構造と照応する仕掛けである。もっともシンプルなバランシンの舞台と、もっとも手を尽くしたビントレーの作品構造は、実は、同じようなものでできていたのだという不思議。最後、群舞が膨らんでいく構造も似通っている。

このような比較から、自分たちの振付は「モダン」と呼ばれ、音楽も時代に見合ったものを選んではいるけれども、バランシン、そして、バレエにおける音楽の重要性を確立したフォーキンなどの先達の仕事が、あくまで仕事のベースにあるということをはっきりと主張していた。英国人らしいペダンティックなコラボレーション作品だが、しかし、その表現がすこしも威張っておらず、自然なものに基づいている点は、フォーキンの仕事にも通ずるところがあるだろう。

惜しむらくは、まだ新国では最初の舞台ということもあり、全体的な表現がビントレーのイメージよりもずっと硬いことである。その点、特に適性が高かったのは、吉本、遠藤といったところであろうか。しかし、この問題はダンサーがどうのこうのというよりも、時間が埋めてくれることだろう。このようなプロダクションは、繰り返してこそ意義がある。

なお、マーフィーはこういう音楽に関しては、実に隙のない音楽を聴かせる。ダンサー同様、東京フィルの演奏も若干、控えめな感じではあるが、これもまた、時間が解決してくれる問題であるにちがいない。しかし、要所を締めて、特にスロー・ナンバーでの丁寧な音楽づくりに良い印象を抱いた。

それにしても、ビントレーは総力戦がお好きという感じだ。今回のプロダクションでも、ソリスト・クラスはもとより、コール・ド・バレエも含めて出番が詰まっており、トータルでものすごい運動量と思われる。しかも、特定の何人かが上手に踊れれば魅せられるという舞台ではなく、ビントレーの振付は全員が高いレヴェルで連動していないといけないもののばかり。どこのピースが欠けても、うまくいかない。クラスにかかわらず、ひとりひとりに高い向上心が必要だ。

その代わり、人一倍の努力をすれば、思いきった抜擢もあり得る。実際に、ビントレーのキャスティングは秩序的ではなく、いつも刺激的である。例えば、小野絢子は『アラディン』の演目で主役に抜擢され、一挙に注目を浴びることになったのは記憶に新しいところ。

こういう監督が来てくれたことは、本当に素晴らしいことと思う。事業仕分けで運営財団への丸投げが批判され、いつなくなるかもわからない劇場ではあるが、ビントレーの『アラディン』のプロダクションが輸出できそうだとか、前向きなニュースも聞こえてきた。結局、こういうことの繰り返しで、劇場はすこしずつ良くなっていくしかない。素敵なダンサーを多く抱える新国立劇場は、そのリソースを最大限に輝かせることで、生き残りの道を探ってもらいたいと思う。

« パウル・バドゥラ=スコダ pf シューベルト ソナタ D960 ほか 〜デームスも登場 10/28 | トップページ | フェリックス・アーヨ vn ブラームス ソナタ第3番 @東京文化会館 11/3 »

舞台芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/49901311

この記事へのトラックバック一覧です: ビントレー振付 ペンギン・カフェ (Still life) 新国 バレエ公演 10/31:

« パウル・バドゥラ=スコダ pf シューベルト ソナタ D960 ほか 〜デームスも登場 10/28 | トップページ | フェリックス・アーヨ vn ブラームス ソナタ第3番 @東京文化会館 11/3 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント