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2010年11月 4日 (木)

フェリックス・アーヨ vn ブラームス ソナタ第3番 @東京文化会館 11/3

フェリックス・アーヨは、著名な弦楽アンサンブル、イ・ムジチ合奏団を18歳のときに結成したことで知られる、スペインのヴァイオリニスト。1933年生まれということは77歳ということになりそうで、芸歴は60年に及びそうな勢いである。そのアーヨのリサイタル、東京文化会館(小ホール)の公演を聴いた。

開演前、聴き手のまえでチューニングすることを好まないアーヨのヴァイオリンの響きが、舞台袖から流れてきたのだが、望外に若々しく、多彩で夢のような響きが会場に響く。アーヨの舞台はこれが初めてだが、これは良い演奏会に来たものだと確信した。

【穏和で温かな個性的な音色】

しかし、腕ならしのモーツァルトのソナタ(K380/第24番 *整理の方法によっては第17番となっている場合も)では、その爪先を隠して、シンプルな演奏に徹する。室内楽を中心に活動してきた奏者だけにダイナミズムはやや穏やかで、キュッヒルなどと比べると、楽器の鳴らし方はかなり奥ゆかしい。

アーヨはフォルムのつくり方も丹念ではあるが、まず、音色に特徴があるヴァイオリニストだ。角がとれたまあるい響きで、温かみのある音色は、現在、壮年期にあるヴァイオリニストにはまずいないタイプで、その点の驚きに包まれながら聴いていた。前述のように床しく、聴き手が自ら寄っていくべきコンパクトなサウンドの張りと、温かく穏和な響きというのが、キュッヒルよりも1ー2世代前となるアーヨの時代の特徴なのであり、ヴィヴァルディ『四季』などの録音/実演を通じて、わが国ではクラシック音楽のひとつの象徴のように思われてきた、イ・ムジチ合奏団のイメージと重なるものがあるだろう。

【ベートーベンはスケール感を増して】

そうはいっても、それ一辺倒でもない。次のベートーベンともなれば、サウンドはぐっと引き締まったものとなり、演奏に凛とした品格がある。ただし、その締め方がまた独特だ。独墺系のヴァイオリニストでは、やはりフレージングを厳しくとることで、作品の構造的な密度を凝縮して演奏しようとするものだが、アーヨの場合は、もっとスケールが大きい。彼の演奏はどちらかといえば、ヴァイオリン協奏曲の演奏スタイルを思わせるものであるが、むしろ、協奏曲が巨大なソナタであるというイメージのほうがしっくり来る。

初期の(op.12)の3曲では、協奏曲との通交性が指摘されることは珍しいが、当夜の演奏では、同じ作曲家の協奏曲に認められるようなアクションが、既に、この時期に出現していることを明確に教え、ゆたかなピアノ・パートをオーケストレーションすれば、容易に、形式の発展を見られれそうな雰囲気も伺われる。

【上げ弓のアーヨ】

細部では第1楽章の華やかなフィナーレを、インパクトのある上げ弓で終えるのがとても印象的である。このあたりから、私はアーヨの上げ弓の素晴らしさに気づきだした。私はヴァイオリンについて、きわめて理解が浅いことは、予め書いておいたほうがいい。その私からみて、ヴァイオリン演奏の主役はなんといっても下げ弓で、その表現の継ぎ目に上げ弓をスムーズに入れることこそが、運弓の要諦であるとイメージしてきた。ところが、アーヨの場合は、上げ弓のほうにより大きなウェイトがあるように思われた。

そのため、彼のヴァイオリンの響きには粘りがあり、会話でいうストレス(強調)の間にある音の保持がこころなし、ゆったりしているようだ。この工夫こそが、彼のつくる独特の響きの温かさに繋がっていることは間違いないと思う。例えば、音階を上げ弓で一歩一歩のぼり、最高音を下げ弓で長く保持する場合、多くのヴァイオリニストは下げ弓の最高音を丁寧にとることに集中し、その保持を美しくすることでヴァイオリンの響きの端麗さを示そうとする。ところが、アーヨでは音階を上っていくときの響きの美しさにこそ表現の頂点をもってくるのであり、これが独特の味を生んでいるのだ。

よく考えてみれば、上のような場合において、多くのヴァイオリニストがとるような表現手段はなるほど、効果的ではあっても、いささか不自然である。言葉に譬えるとわかりやすいが、彼らの表現は「この花はきれい!」というべきところ、「この花はきれいー!!」と言っているようなものなので、気持ちはわからなくもないが、どうしても幼稚で、大げさに聴こえてしまうのは避け得ないことなのだ。一方、アーヨの表現は1つ1つの言葉、この場合、「この花」「きれい」というキーワードをしっかりと印象づけながら、過度な強調に陥ることがない点で、かえってフォルムの美しさを際立たせる。

このことがさらに顕著なのは、ブラームス(ソナタ第3番)の演奏であった。ブラームスのヴァイオリン・ソナタは、同じように表現の多様性を包含する彼のピアノ・ソナタ以上に、可能性がふくよかな作品である。そのなかで、アーヨの演奏は上に述べた2つの特徴を踏まえると、理解しやすいだろうと思う。つまり、響きが滑らかで温かみがあり、上げ弓の味わいがたっぷりと生かされた、粘りづよい表現である。

【ブラームスの孤独】

プログラムにも記載があったように、この作品の内面的な特徴・・・一種の哀切なメランコリーの背後には、作曲者と親しかった友人たちの死が関係していると言われる。そのことを強調しすぎるのも問題だが、第1楽章の最後の重音から響きが解け、フェルマータで延ばされる最後の部分の響きの深さには、私もぐっと来てしまったのは確かだ。ただし、それは「死」と結びつくような直接的な悲哀というよりは、夕焼けの浜に打ち寄せる波とか、美しすぎる夕陽をみたあとに、なぜか、ふっと悲しくなってしまうような、そんな感覚によりちかい。

その感覚は家を出るまえに(途中から)みた、テレビ東京のドラマ『シューシャインボーイ』(原作:浅田彰、主演:柳葉敏郎、西田敏行)の影響も相俟って、私のなかでは「孤独」というキーワードに結びついた。ドラマでは孤独よりは、人と人の絆というほうに力点があるように思うが、西田演じる食品会社の社長は、明らかに孤独なのである。部下たちはとても信用できず、長年の友人も自分を裏切る。妻とは深く結びついているものの、男女の差は埋めがたく残る(昔に返りたい夫と、いまがいいという妻の差)。戦災孤児となった自分を拾って、親代わりとなった男との感動的なこころの結びつきこそあれ、その男からは親にはなれないといって突き放されてしまう。

この種の「孤独」が、ブラームスの作品のなかにも位置づいている。戦争中、指揮していた母船を失ってひとり生き残った、先述のドラマのなかの親代わりの男の心情と同じように、ブラームスには取り残されたという想いがあるのだろうか。その重苦しい響きが、1つ1つの音符をたっぷりと奏でるアーヨの表現に溶け込んでいた。

【全体的には引きずらない表現】

彼の演奏はもちろん、全体としては目立って哀切なものではない。中盤、響きがやや重くなる部分はあるとしても、基本的に音色は凝縮していてからっとしているし、表現も大らかである。対位法的な部分の表現がなだらかで、厳しすぎないフォルムのしなやかである点も、そのような印象に結びつく。先の第1楽章弾きおわりのあと、第2楽章になると転換が鮮やかに効き、引きずらない演奏であったという印象のほうが、どちらかといえば先行する。

短い第3楽章をとおり、最後のプレスト・アジタートは「プレスト」や「アジタート」という楽想表記に踊らされることなく、音色の厚みをしっかり生かすことに軸足を置いた表現である。この日の伴奏はマルコ・グリサンディというイタリーのピアニストで、この日の前半はベートーベンの終楽章で、若干、走りすぎたような印象もあり、アーヨの表現する余地を潰してしまった感じさえ残ったが、このブラームスは音色にも厚みがあり、アーヨの演奏をうまくサポートしている。

【楽想を育てていくことの面白さ】

つまり、アーヨの穏やかな持ち味を生かしながら、プレストの緊張感はピアノの引き締まったアクションが、よくフォローしていたということである。その雰囲気を拾いながら、あくまで少しずつ、「プレスト」と「アジタート」を育てていくアーヨの表現の「成長」が実に楽しかった。

例えば、五嶋みどりのHPにある解説では、この曲がもつスケール感が強調されており、終楽章も「燃えるような興奮を呼び起こ」すと書いているが、アーヨの解釈はそれとは対照的である。もちろん、スケール感や燃えるような興奮がまるでないというのは適当でないが、それよりも、アーヨが徹底的にこだわっているのは、そうした内面的なものに転換されるまえにある響きの密度・・・つまりは、その響きを生み出すために基本となる、あらゆる要素の磨き込みだ。

例えば、ほとんどそれと感じられないような自然なルバートの流れや、アテンションに満ちたフレージングの酒脱さ。弓の当て方ひとつで、多彩に切り替わる音色のデザイン。そして、先述の上げ弓に象徴されるようなコシのある表現というものが、自然に五嶋のいうような要素を成り立たせることを、彼は示していたのである。一気に、物事の本質を突く五嶋の表現も間違ってはいないが、アーヨの音楽的メッセージの奥ゆかしさは、この時代、十分に見るべき個性となり得るものである。

楽想は表記として書いてあるからといって、はじめからアプリオリ(自明)にあるべきではない。まずはスコアに書かれていることを味わい、大事に育てていくべきなのだ。

【まとめ】

アンコール・ステージは名曲のオン・パレードで盛り上がったが、そこにはあまり触れないのが私の流儀である。しかし、そんな曲であっても、予定調和的な表現の強調に染まらず、辛口のフォルムを楽しませてくれたことには感謝したい。ひとつだけ挙げれば、ピアソラの、あんなにも格調高い演奏は二度と聴けないことだろう。

最初に述べたような、音色の温かみだけをとっても、いまでは少なくなった個性的なアーティストであり、私にとっては、レイチェル・ポッジャー、ジル・アパップ、アナ・チュマチェンコ、フランク=ペーター・ツィンマーマンらの演奏会と並び、ヴァイオリン演奏の奥深さについて知るための素晴らしい機会となった。

主催は、東京コンセルバトワール。お稽古ヴァイオリン教室の集客力も大したもので、小ホールではあるが、東京文化会館の席は9割方が埋まっていた。王子ホールの公演と若干、内容を変えて2回公演だっただけに、かなりの健闘といえるだろう。有意義な試みに、再び感謝の意を表する。ご本人の健勝が前提だが、できれば来年も・・・。

【プログラム】 2010年11月3日

1、モーツァルト ヴァイオリン・ソナタ K296
2、ベートーベン ヴァイオリン・ソナタ第3番
3、ブラームス スケルッツォ〜F.A.Eソナタ
4、ブラームス ヴァイオリン・ソナタ第3番

 pf:マルコ・グリサンディ

 於:東京文化会館(小ホール)

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