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« フィビヒ ピアノ五重奏曲 (1894年) | トップページ | エリシュカ ドヴォルザーク 新世界より & スーク おとぎばなし 東フィル オーチャード定期 12/5 ② »

2010年12月 7日 (火)

エリシュカ ドヴォルザーク 新世界より & スーク おとぎばなし 東フィル オーチャード定期 12/5 ①

東京フィルは、ラドミル・エリシュカがはじめて日本で指揮をしたオーケストラであるという。しかし、そのことを誇ることができるほど、当時の東京フィルがエリシュカに対して十分な敬意を払っていたとは思えないし、その価値に気づいてもいなかったろう。定演での登場でもなく、本拠地から遠く離れた狭山市での放送がらみの公演だったらしく、その後、すぐに再度の出演オファーがあったとも聞いていない。札幌、大阪、東京でこの指揮者が圧倒的に評価され、再び、ここに辿り着くまでに苦節6年が過ぎた。しかし、そのお詫びとしては本当に素晴らしい一日だったといえる。

【エリシュカ、東京フィルの良さを引き出す】

東京フィルも、この6年で随分と良くなったオーケストラのひとつだ。オペラやバレエのピットにも入れば、現代音楽もやり、ときどきはコンペティションにも出かけ、ラジオ録音なども手がけながら、確実に経験値を積み上げてきた結果だろう。そのうち、コンペティションのひとつでは、あまりにも酷い演奏で私の怒りも買ったし、まだまだ公演の質に差はあるにしても、良いときは、こんなに素晴らしい演奏もできるようになった。ともかく、この日、エリシュカは躍動していた。彼が思うとおりに、オケが動いた実感が、客席にも伝わってきたものだ。

東京フィルというのは、素直すぎるというほど素直なオーケストラだと思う。その分、自分たちのスタンスというものが薄く、これといった特徴がないのが問題なのである。しかし、そのことが幸いする日もあった。それが、この日であろう。彼らは舞台芸術の経験が豊富であるというひとつのメリットを生かし、現代音楽の公演などで見せる機能性の高さも動員して、エリシュカのこころを忠実に客席へと伝える役割を果たした。その結果、なにが起こったか・・・。

【スーク おとぎばなし〜イントロ】

白眉は、中間のスークだろう。この作品は、数年前にどこか日本のオケが演奏している記憶があったが、あとで調べてみれば、2007年の都響の演奏会、タン・ムーハイの指揮によるものだった。もちろん、それを聴いたわけではない。浅学な私は、有名なヴァイオリニストで、スーク・トリオのリーダーとしても鳴らしたヨーゼフ・スークがつくった曲だと勘違いしていた(ヴィオリストのドルジーニンも作曲をしたことからの発想である)が、今回、エリシュカの演奏に際して調べたところ、その祖父で、ドヴォルザークの女婿だった同名の人物による作品だとわかった。

当日のプログラムによれば、スークは22歳のとき、劇付随音楽として13曲構成でこの作品をつくったが、そこから4曲を抜き出したあと、調性を整えるなどして交響詩風に仕立てたのが、この組曲だという。演奏会の予習に選んだ「旬」の指揮者、ベルトラン・ド・ビリー(ウィーン放送響)がとてもいい録音を残しているが、エリシュカのはもっと凄かった。なにしろ、もとのはなしを知らなくても、バンバンとイメージが浮かんでくる。とてつもない喚起力。ドラマティック。それでいて、とても構造がわかりやすい。第4曲で、ライトモティーフ的な王子の主題が完全な形で再帰するとき、「あっ!」と思った。

ド・ビリーの演奏はいいのだが、印象的なヴァイオリン独奏の王女のモティーフはなんだか唐突で、きれいだけど・・・という感じだった。音色の美しさはあっても、イメージの喚起力が弱いからだ。そこへいくと、荒井コンマスのソロが単に素晴らしいだけでなく、これを支える全体の響きから匂ってくる喚起力の逞しさが際立ち、こちらのほうがずっといい。これなら第4曲の最後で、再び王女のモティーフが王子の魂を癒やすとき(プロコフィエフのロメジュリの最後を思い出す)、リアリティに満ちた説得力があるだろう。

【内側からこころ突く第4楽章】

第3曲の葬送行進曲も、とてもよかった。私はリアルタイムでは、この部分が感情の極点になるだろうと予想していた。あとで書くが、私はこの部分でも若干、しゃくり上げるほどに深い感動を味わったのだから。だけれども、第4曲の最後はもっと内側から、こころを突いてくるような美しさがある。荒井のソロは、最初よりもすこしだけガッツリした響きで、いきなりショスタコーヴィチが出てきたみたいになっているが(さすがショスタコ・マニアの荒井!)、結果的には、それが面白い効果を引き出す。鍵となるのは、それを独りにしないアンサンブルのゆたかさだろう。

ド・ビリーの録音ではあまり聴こえないぐらいのバックとの呼びかわしが、この日はとてもきれいだ。そして、最後の小さなヤマを築くとき、ややアクションの大きいヴィオラの首席と、荒井コンマスが両翼ですこし楽器を持ち上げ気味にして、うんと踏ん張るシーンで圧倒的に重みがでる。そこから、深い緊張感を持続してゆったりと響きを解いていくときの響きの繊細さ。この流れを引き出したのは、良くも悪くも、先に触れたような荒井のヴァイオリンの根太さだった。

冒頭の響き(王妃の呪いのテーマ)も見通しが良く、迫力があるのに、とても明晰なサウンドだ。特に弦の音型が美しく決まっていることで、全体のアンサンブルがぎっしり凝縮しているのだと思う。そして、そのことが同じテーマの再帰のあと、絶望の淵のような音楽から、王子の響きが甦ってくる音楽と鋭く対置されることで、この構造的なオーソドックスさを光り輝かせることになる。惜しむらくは、王子のテーマの音程が若干、サスペンド気味に聴こえたことだが、それには目を瞑ろう。

ここから構造的には再現部となるが、以降、終結まではシンプルで、最後はやや構造的なぼかしがあるのが作品の特徴である。しかし、そこをうまく使って、聴き手のこころを内側からちくりと刺す表現の巧さは、既述のとおりである。

【葬送の場面の明るさ】

第3楽章はヴィオラ、チェロ、コントラバスの低音弦のセットが魅力的だ。私はもともと低音マニアだからというのもあるが、東京フィルのこれらのセクションは、私が半期会員であった2004年には想像もできなかったほど、響きが深くなっている。特に、かつて神奈川フィルにいた黒木岩寿が首席に加わったコントラバスが拍をきっちりと「ポイントで」抉る演奏で、胸にずしりとした響きをくれるのがボディ・ブローのように、コツコツと効いてくる。コントラバスの森のなかで、ボウイングが独りだけとても鋭く機敏で、息づかいにも深みがある(彼がいなければ、ここのコントラバスは半分も響かないだろう)。

そのあとに来る葬送行進曲は、前日に頂いたある方の文章が役に立った。その方はラファエル・クーベリック指揮によるマーラーを論じる際に、次のような事実を明らかにしている。それは、20世紀前半までのボヘミアでは、葬儀の際に吹奏楽などによる賑やかな音楽を奏で、埋葬時にはこともあろうに、ポルカやフリアントの音楽が奏でられたというのだ(そして、マーラーの交響曲第1番の第3楽章に、このイメージが導入されていることを提起している)。

それでピンと来たのだが、この曲でも確かに明るい音楽の部分が相当にある。ド・ビリーは多分、そのことを知らないから、それこそ『リング』のジークフリートが死ぬときのようなイメージで、ガンガンと悲劇を歌うのだが、それがかえって嘘くさい面があるのだ(演奏はいいのだが)。エリシュカの演奏では、それがそっくり反対になっている。暗く、衝撃的な部分の響きは柔らかく、むしろ明るい部分の響きを浮き立たせて、内側から感情を揺さぶる。これが、堪らないのだ。

【ヴィオラの脱皮】

このナンバーから、ヴィオラがとても穿ったカンタービレや刻みを見せることになるが、そのことも付言しておきたい。前半はこのあたりが内側に秘められていて、ここのヴィオラ・パートはとても気に入っていたつもりだけに、「どうしたかな?」と訝っていた。ところが、この第3曲の出だし、そして、決定的には後半のパート・ソロで悲しい歌をうたう場面で、ぐっと響きが立ってくる。これは意図的なものかどうかわからないが、少なくとも奏者のアクションを見ている限りは意図的なものと思えた(ヴィオラの須田首席?なんて、アクションが大胆だからわかりやすい)。

【絞られた焦点】

もちろん、第1楽章も素晴らしい。華やかにドラマの大事な要素が花開いていくが、劇の筋をつぶさに追いかけながら聴くというよりは、なんとなく粗筋をあたまに置いておきながら、気楽に響きを楽しむほうが良い聴き方だと思うし、イメージを感じやすいだろう。最初のクライマックスまでは、そんな想いでリラックスして楽しんでいた。

ところが、クラリネットのソロから、ヴィオラのトレモロが不穏に響く場面の切りくちが、なんとも切実に聴こえたのは、エリシュカの演奏で特別なことのひとつだ。その予兆は実に、その前の盛り上がりの頂点で打ち鳴らされるシンバルの響きにある。ド・ビリーの演奏は実に効果的に、このシンバルの響きを(月並みな曲のように)愛の結びつきの頂点にシンボライズするが、エリシュカの演奏はそうではない。単にパーカッショニストの失敗である可能性もなくはないが、この日の演奏ではシンバルの音がぐっと抑えられていて、響きが抜けていく感じで叩かれた。そして、美しい音楽が続くなか、油断すれば見逃してしまうほど僅かずつではあるが、ここから微妙に流れが変わっていることに気づく。

ここから、ド・ビリーはストラヴィンスキーの発想でスークを捉えている。それも悪くないが、エリシュカの演奏ではきりっとした構造が目立ち、むしろベートーベンにちかいと思われた。それなのに、中間部分の響きは本来の筋である(ヒロインの)父親の死というよりは、もっと内面的な問題・・・男と女が結びつくとき、その間にある壁のようなものを想起させるのが面白い。そう考えるほうが、最後に再現するヴァイオリン・ソロを、その克服として考えることができて都合がいいのだ。また、挿入的なエピソードを呼び入れる必要がないために、構造的な必然性もいっそう高まることになろう。

つまり、エリシュカの演奏では筋書きを若干、端折る(というより、焦点を絞るというべきか)ことによって構造的な厳しさをより的確に導き、全体としてより引き締まったドラマを喚起することができるというメリットがある。その表現はある意味で不親切だが、だが、その分だけ聴き手のイマジネーションを刺激する。表現としては下手に流れがわかりやすいよりも、こちらのほうがずっといいと思えた。

この1曲に満足して、もう私としては帰ってもいいぐらいの思いだったが、東京フィルの団員のブログからもわかるように、練習の大半はこの曲のために割かれたようだ。エリシュカ渾身のスーク。中プロのアプローズは優れたソリストが呼ばれた場合を除き、大体は3回でおわるのが普通だが、もう1回付け足されたところにオーディエンスの只ならぬ共感が読み取れた。

エリシュカの指揮の場合、確かにメインの曲も大事にしている曲ではあるのだが、前半のほうに、本当にやりたい曲が来る場合もあることは知っておいて損はない。札響における、ヤナーチェク・シリーズ然りである。

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