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2010年12月 7日 (火)

エリシュカ ドヴォルザーク 新世界より & スーク おとぎばなし 東フィル オーチャード定期 12/5 ②

【下野竜也の新世界】

ここで、メインの交響曲第9番「新世界より」についての記事に移る。東京フィルとの同曲ということになると、2004年の、故岩城宏之の指揮による微に入り細を穿つ演奏が思い出ぶかいものだった。ただ、その演奏はテンポのキープに焦点を絞りながらも、基本的にはオーソドックスなもので、この曲の解釈で近年、目覚ましいものといえば、下野竜也(読響)の演奏ぐらいしか思い当たらない。以前は公開されていた第2日本テレビの動画が見られなくなっているので、以下、簡単に説明する。

彼は最近のピリオド研究と演奏の流れを踏まえて、近代においてこれが徹底されていたとするならば、この曲において、どのような可能性があるかを真面目に掘り下げたパフォーマンスを組み立てた。ドヴォルザークというよりはベートーベン的な解釈だが、彼の演奏をはじめて聴いたときには、特に第4楽章において、それこそ腰が抜けたそうな痛快さがあったものである。その楽章を例にとって簡単に説明すると、下野の演奏はドヴォルザークの書いた楽符をアルペン・スキーの回転競技の旗門に見立て、その楽符を機動的に次々とタッチしていくことで、全体の構造を織り上げていくという快刀乱麻の演奏だったといえる。

しかし、エリシュカの演奏は、それとは対極にあるどっしりした演奏だった。私はかつて、読響の演奏会でレイフ・セゲルスタムがこの曲を取り上げたとき、「なんて薄い曲なんだろう!」ということを実感した。前半があのラヴェル編曲による『展覧会の絵』だったから、その比較は厳しいものがあったのだろうとは思う。確かに、その種の薄さは変わりようもない。ただ、逆にいえば、その薄さのなかにこそ、ドヴォルザークらしい可能性があるともいえる。

この問題に対しても、下野の演奏はひとつの答えを示している。かつ、下野はドヴォルザークの音楽がのちのセリエリズムやクラスタ・ミュージックを先取りするような先進性があることを匂わせてもいるのだろう。考えてもみれば、ドヴォルザークからみれば、シェーンベルクやウェーベルンの登場もさほど遠い将来のはなしではないのだ。下野の解釈は、ワーグナーあたりから発して後期ロマン派、そして、新ウィーン楽派へ至る道筋のなかで、いままでの考え方ではもうひとつ足りないミッシング・リンクを、ドヴォルザークが友人のブラームスとともに埋めることができる可能性を示している。

ついでなので、もうひとつ言わせてもらうと、それは対位法を重視したヒンデミット的な発想から、ドヴォルザークの作品をみたときの解釈でもある。

【慶派の苦労を思わせるエリシュカ】

そうはいっても、エリシュカの演奏を聴いてしまうと、それはやはり搦め手だという感想を抱かざるを得ないのだ。確かに、彼の演奏もタイプ的には、対位法を重視した発想であることは疑うべくもない。しかし、そのなかにおいても、エリシュカはもっと骨太でつよい線を真正面から彫りだそうとしている。優れた木彫家の集団、いわゆる「慶派」の人たち(運慶、快慶など)は一本の木に小さな鑿を打ち込み、木のなかから仏像を救い出すようにして造型を彫りだすことで、一回的な製作をつづけたことが知られている。エリシュカの演奏は、正にそれなのである。

【ア・テンポ】

具体的に見てみよう・・・といっても、エリシュカのやっていることは、(以前にもこんな台詞を書いた憶えがあるが、)細かいことをしっかりやっていくことがいかに大事さかということを執拗に訴えるようなものなので、実のところ、簡単には書きにくいところもある。例えば、私がいちばん驚いたのは、ア・テンポの見事さだった。この曲は出入りが激しいので、テンポの変化が相当に大きいし、ましてやエリシュカは、その出入りの激しさをリアルな体験のなかで演奏者に伝え、具体的な響きとして聴き手にも伝えることのできる数少ない指揮者であろう。その振幅は、どんな録音よりもダイナミックだった。ところが、流れの切れ目でア・テンポを指示すると、たちまち最初の流れへと精確に戻っていく響きのコントロールの凄さには息を呑んだ。

それも表面的なスピードだけではなく、その周囲に空気のようにあったものまで、すべてが丁寧に再現するのだ。

このことはエリシュカがブルノのアカデミーでいかに厳しく育てられ、それをもとに実践的な指揮者として、いかにコツコツした努力を重ねてきたかを物語るものであり、彼が単なる郷土的音楽のスペシャリストではなく、よりユニヴァーサルな視点で語ることのできる、卓越した指揮能力の持ち主であることをはっきりさせる何よりの証拠だ。 もちろん、作曲家の高弟に当たるバカラ譲りのヤナーチェク演奏に関する秘蔵の知恵の数々や、ドヴォルザークその他のスラヴ圏の音楽家の作品に対して、エリシュカがもっている高い識見と豊富な経験、それに深々とした情熱を、我々はまず享受したいと期待するのは当たり前だ。しかし、彼のファンならば誰でも、同時に(彼がもっと若くて指揮機会がたくさんあるなら)、ベートーベンやブラームスなどをゆっくり聴いてみたいとも思うにちがいない。

しかし、そうした能力をはっきりと印象づけるエリシュカの音楽にぴったりつけた東京フィルのパフォーマンスも、これは賞賛されて然るべきだろう。これでもかとダイナミックに、情熱的に動きながら、戻らなくてはならないときには、びしっと適切なタイミングで元の隊形に戻る。このメリハリが、私にとっていちばんの驚きだった。このようなシンプルな驚きこそが、実際、全体の印象を大きく左右するのだが、そのわりに専門の批評家たちが論述をさぼりたくなる質の要素であるため、まずいちばんに挙げておく必要がある。

【ショパンとの類似点】

これは譬えてみれば、ショパンのテンポ・ルバートと同じ感覚でもあるし、また、ウィンナー・ワルツのもつリズムの流れにも似ている。特にショパンに関しては、この作品・・・しかも、エリシュカの指揮において特徴的な面白い類似点があった。

それは、舞踊楽章である。主部から中間部に変わるとき、そのブレイクの部分をエリシュカはしっかり保持して、そこにある転調の機微をチャーミングに強調する。この部分が、ショパンのコンチェルト(ホ短調)のスケルッツォにある、明らかに舞踊のイメージを下地とした転調シーンを彷彿とさせるものだった。どの録音でも、エリシュカのようにたっぷり拍を保持していないので、当日の演奏を聴いていない人には疑問符がつきまとう話だろうが、これは確認するには、やがて来るNHKラジオのFM放送を楽しみにしていただきたい。

【細部へ】

ここで、細部の論述に移る。まず冒頭から、とても濃厚な演奏だった。パウゼのフェルマータを十分に聴かせ、オールド・スタイルの深い序奏が刻まれる。ただ、その後も見られるこのやり方はあくまで自然な息づかいに基づくもので、不自然なほど誇張され風格を高めようとする溜めやテンポ・ダウンなどは見られなかった。なんといっても、最初にいったア・テンポが鍵となるエリシュカの演奏であることを忘れてほしくない。それといま、「オールド・スタイル」といったが、それも言葉のアヤで、少なくとも私は、エリシュカの演奏に古き良き時代を投影してみるという感覚はない。

ところで、エリシュカの演奏にドヴォルザークらしからぬ響きの厚みを感じるのは、基本的に対位法的な伝統的構造を下地にした作品であることも踏まえながら、それぞれのラインの役割を骨までしゃぶり尽くすような細かくも、大胆なアーティキュレーションを構築しているせいである。例えばコバケンならば、それぞれの場面における主役、主役をクローズ・アップしていく手法で作品をわかりやすく提示することに腐心するが、エリシュカの手法はそれとは正反対だ。

ソロをとる管楽器があるとすれば、その裏にある弦の動きに注目するといい・・・というより、そこが自然と気になるバランスをつくっている。その分、コバケンが浮き出したような主役たちが霞んでしまうということは、絶対にない。そうではなく、白いカンバスに浮き上がる活き活きとしたカラーのように、それは俄然、生命的な美しさを増すからだ。

【涙 or 楽しさ】

ところで、私が演奏会後にコミュニケーションをとれた知人たちは、大体、「新世界で涙するとは思わなかった」という感想を述べていた。特に彼らにとっては、第2楽章が印象的だったようである。しかし、私はどちらかというと、涙はスークのほうで使い果たしてしまったためか、涙するような感動というよりは、楽しさのほうに傾いてしまった。これは私がコミュニケーションをとらせていただいた皆さんの経験(ほとんどが私よりも明らかに濃厚な体験をされ、もちろん、生きてきた年数もずっと上だ)と、私の送ってきた人生(残念ながら、とても薄っぺらである)の違いや、私たちが音楽に求めるものの違いによるのかもしれないと思った。

それに私のあたまのなかにはまだ、春の札幌で聴いた第5番の演奏が焼きついていることもあるにちがいない。私の見方が絶対正しいとは言うつもりもないが、(過去は知らないけれど、)いまのエリシュカの・・・また、彼の演奏するドヴォルザークの特徴はなんといっても、底なしの明るさにあるのではなかろうか。その意味で、私はいつも、エリシュカの舞踊楽章が好きで堪らない。

【くどいのは嫌い】

ただし、この第9番のスケルッツォは正直、あまり好きなほうではない。さらにいえば、第2楽章もあまり好んでいない。作品が含むメッセージに対して、やや長すぎるからだ。

例えば、私はウィンナー・ワルツが大好物だが、その象徴であるヨハン・シュトラウスⅡの『美しく青きドナウ』は、できれば聴きたくないもののひとつである。こんな甘ったるい音楽を10分以上も聴いているのは、本来、甘いものが好きな私にもすこし重たすぎるからである。同じぐらいの時間でも『南国のばら』や『北海の絵』なら、その分、エピソードが豊富なので楽しく聴き通せるのだが、『ドナウ』はミニマル並みにアイディアがしつこく、結局、型どおりにおわるのでくどさを感じるのだ。元来、合唱がついた曲だから、歌が入ると、また別のことなのかもしれないが。

多分、こういう曲はその甘ったるさを内側から攻撃するぐらい武骨にやると面白いのかもしれないが、残念ながら、そういうことを考えた指揮者は、私の知る限りは存在しない。

【エリシュカの舞踊楽章】

同じようにくどいはずの2つの楽章が今回は、私のこころを素直に楽しませた。この日も、エリシュカの舞踊楽章は最高だったのだ。多くの演奏では、スケルッツォの諧謔的な特徴を強調しすぎるあまり、主部のなかにおける主部と中間部の対立、さらに、複合三部形式の主部と中間部の関係を明確にするため、強奏部の踏ん張りや、リズムの鋭さを強調しすぎている。そのため、肝心の細部ごとのイメージが壊れ、結局、面白みがなく、ただくどいだけの表現におわってしまう。

エリシュカの演奏では、スケルッツォの速い部分ではまず、リズム構造を適切に処理して、これを下地に、演奏者を気分よく踊らせながら、例のショパンのルバートのようなア・テンポで、要所を締めることでフォルムの緩みをしっかり正している。そのスリリングな動きを見ていると、感動というよりは、笑みがこぼれてくる。これはエリシュカがやりたいことがわかるという、そのことの喜びであるかもしれない。なにも、私の感性が特別に優れているというつもりはない。あの演奏を聴けば、はじめからこころを閉ざしている人たち以外は、誰だってわかったであろうはずだから。だからこそ、安心して喜べるのだ。

【濃密な緩徐楽章】

一方、緩徐楽章は弦セクションを思いきって落とし、全体の中間部の真ん中で、木管楽器のアンサンブルを前面に出したバランスが物凄い。演奏意図は恐ろしいものがあるが、残念ながら、東京フィルの演奏はここだけは、ちょっと力不足だろう。しかし、エリシュカが何をしたかったかはよくわかる。あそこで発する各種の笛の音は、ボヘミアの鳥たちの啼き声なのであろうか。その生命感を、彼はなんとしても出したかったにちがいない。そのこころをはっきり感じ、表現せんとする管セクションの人たちの頑張りも、十分賞賛に値する。

そして、ゲネラル・パウゼを挟みながら、弦セクションのトップのほうの人たちによる室内楽的な部分。さらに、弦楽三重奏になる部分は、荒井コンマスの好リードもあり、胸をうたれなかった人がいるだろうか。そのときはハッキリ知らなかったが、やはり荒井は所属するモルゴーアQで、ドヴォルザークをみっちり演奏した時期があったようである。もちろん、交響曲の演奏経験も十分に豊富だろうが、特に前者における経験値を踏まえたボウイングの繊細さなどは、この部分に限らず目立つところだった。エリシュカ自身の綿密な指示もあったとは想像するが、荒井自身の手柄も相当に大きいのではなかろうか。そのことを確信した、室内楽の演奏だった。

この部分は「新世界より」をやるときには、いつだって聴きものになるのだが、それにしても、この日の演奏は、エリシュカのもっているものと、東京フィルの経験値がいい具合に噛み合ったようだ。

【楽しさの極致にあった終楽章】

そして、終楽章は文句なく素晴らしかった。そして、なんとも楽しかった。

まず、ときには映画『ジョーズ』のサメのテーマにも聴こえる冒頭部分、当然、サメのテーマには聴こえない(残念ながら、そのように聴こえてしまう演奏が多いのは嘆かわしいこと)。必要以上に引っ張らず、ググッと前傾するエリシュカのフォルムのつくり方が、それとは似ても似つかないものであることは言うまでもないが、声楽でいえば、伴奏のちょっと前を玉乗りのように僅かずつ先行するような演奏姿勢が、最初に強調されるべきだと思う。いかにも、舞台の得意な東京フィルらしい特徴が出たところだ。また、この部分はいくぶんか、ブラームスっぽくやるといいのではないかと思う。その点でも、エリシュカのパフォーマンスは肉厚で、相応しいものだ。

この楽章こそ、例のア・テンポを徹底したタッチ・アンド・ゴーが炸裂した楽章でもある。かなり攻めた演奏である分、これがかえって効果的である。一体感があり、強奏部では音量も相当なものだろう。最初のスメタナでは悪名高いオーチャードホールのデッドな響きに負けている部分もあったが、アンサンブルの凝縮度が格段に上がったドヴォルザークのフィナーレでは、ただデカイ響きではなく、密度の濃い手ごたえのある響きが広がり、聴くものを興奮の渦に巻き込む。札響でもそうだが、エリシュカはこういうマジックがお得意だ。

【第九と新世界】

今回の演奏では、本当に書くことが多すぎるが、なるべく割愛しないで書くことにする。 もうひとつ感じたのは、いまが『第九』(もちろん、ベートーベンの)シーズンであることにも、『新世界より』を弾くうえで、無視できない意味があったということだ。もちろん、同じ「9番つながり」などという底の浅いことはいわない。そもそも、かつて、この曲は「第9番」とは呼ばれていなかったはずだ。エリシュカも最初の4曲は完全に習作的として、ドヴォルザークの「作品」とは見なしていないのだという。彼にとってのドヴォルザークの交響曲全集があるとすれば、それは5番から9番までの5曲で構成されることになるようだ。

とはいえ、ドヴォルザーク自身、自分が書いた9つ目の交響曲であることは、若干、意識したかもしれない可能性が随所に発見できる。つまり、9つ目のシンフォニーであるなら、作曲家ならば誰だって、ベートーベンを意識しないはずはない。マーラーは9番を書くと死ぬと思ったというし、シューベルトは尊敬する先達のために力作を用意、ショスタコーヴィチは到底かなわぬと思いなして、肩すかしを食わした。ドヴォルザークだけが例外であるはずはない。

いちいち指摘はしないが、常々、私はわが国で特別に親しまれ、しばしば漢字で表記される年末恒例の『第九』と、ドヴォルザークのこのシンフォニーに似たような素材がたくさんあることに気づいていた。例えば、楽曲冒頭の低音弦の弾き出しは、『第九』終楽章の有名なバスの聴かせどころを思い出させる。また第4楽章はそのような部分の宝庫だが、早速、第1主題が一巡したあとの経過部で、最初に表れ、展開部でも再三表れるテーマは、『第九』でも頻繁に現れる素材とそっくりだ。特に、展開部でホルンと向きあう場面は、いかにもな形で表れる。

これに限らず、いくらでもある。私は前にも言ったが、ドヴォルザークはヤドカリ的な作曲家だと思っている。たとえ『第九』が相手であっても、ドヴォルザークはひるまない。彼がベートーベンを意識したという前提で、私は次のようなことを考える。

【命がけのヤドカリ】

ドヴォルザークは素材のうえでもフォルムのうえでも、ベートーベンのものを拝借することに躊躇いはない。それを換骨奪胎して、もとから自分のものであったように表現するのは、彼の得意技だ。もちろん、それは真似っこでもパクリでもない。そのことは相当、ひねくれた聴き手でもない限り、作品を聴けば誰にだってわかることだろう。ドヴォルザークは、そのことに命をかける。ヤドカリも大きくなりすぎると、必死の想いで住まいを変えなくてはならない。正しく命がけという意味で、そのこととドヴォルザークの行為はよく似ている。

ただし、他人の住まいを自分のものにするというのは、本当に大変なことだ。

例えば、落語や歌舞伎の世界でも同じことだろうが、伝統芸術において後進の者がいちばん苦労するのは、師匠が得意とした演目を大々的にや受け継ぐときのことだ。彼は所詮、「先代は・・・」と揶揄される運命なのであるが、その苦痛に耐えて、「先代もちっとは認めるかな」ぐらいに言われるまでにもっていかなければ、明るい未来はないのである。ドヴォルザークがベートーベンの、しかも、その最高傑作を下敷きにするというのは、とても大胆で危うい行為であることを、まずは認識したい。そこへもってきて、ドヴォルザークというのはエリシュカ同様に不器用なところがあるので、正面突破でこれを乗りきろうとする真っすぐな作曲家でもあることを付言しておくべきだ。

【ドヴォルザークの想い】

彼が『第九』を選んだのは多分、自分にとって9つ目のシンフォニーだからではなく、真に国際的な感覚を反映した、当時、ほとんど唯一のクラシック音楽作品だったからである。ベートーベンの思想はよく誇張的にいわれるように、ナショナリズム、インターナショナリスム、コスモポリタニズムを越え、国(nation)を越えた人類愛の境地にあった。ドヴォルザークはアメリカに渡ったという特殊な状況を踏まえて、自らの理想をベートーベンの辿り着いた境地に求めたにちがいない。彼は愛国的ではあれ、徹頭徹尾、平和主義者でもあった。

ときに、この作品にはベートーベンが伝統的な禁忌を破ってまで導入した合唱がない。ここに、ドヴォルザークの大胆な挑戦を見て取ることができる。彼はベートーベンのときにはまだ、合唱を使ってしか為し得なかった表現をいまや、歌抜きでも実現できると言いたいのであろう。この作品は今日風にいえば、『第九 without words』という意気込みでつくられた可能性が指摘できる。荒唐無稽なはなしだろうか。しかし、エリシュカの演奏を聴くかぎり、そのことは現実に果たせぬ夢想でもなかったように思える。

【歌が聴こえる・・・】

私の耳には第4楽章の途中から、客席から歌が聴こえてきた。もちろん、’song without voice’である。私同様、多くの人たちは自分たちのやり方で、ドヴォルザーク渾身のカンタービレに歌をつけたのではなかろうか。一口に「歌」といっても、歌詞があって、何があってというものではない。もっと、こころの底から湧き上がってくるような、形にならない歌である。私には、確かにそれが聴こえたのだが。もちろん、その歌を呼び覚ましているのは、エリシュカたちが奏でる極上の響き。客席の喰いつきが、並大抵ではないのは、雰囲気で察知できた。

神田慶一は自作『あさくさ天使』のなかで、(浅草の)観客たちはかつて、素直に笑い、ときには涙を流し、目を輝かせながら、舞台に釘付けになっていたと歌わせる。クローゼットにしまい込んでいた、そうした記憶を開いてみようと、ヒロインのユメコは言葉を投げかける。この街の天使たちは、笑いが好きなのだから・・・と。この日、どれだけ多くのクローゼットが開き、どれだけ多くの人たちが天使の姿を拝めたことだろう。その奇跡を実現させたのはドヴォルザークであり、その志を体現したエリシュカの澄みきったこころである。

【東京フィル vs 札響】

エリシュカは、再び新天地を開拓した。「再登場」とはいえ、これが実質的な東京フィルへのデビューといって差し支えあるまい。そして、それはブログやツイッターの記事をチェックする限りは、大成功におわったという実感がある。特に、多くの人たちがスークの演奏に共感を示しているのは、面白い傾向だ。これは、こころが伝わったとしか言いようがない。

しかし、エリシュカの演奏において、もっとも価値の高い褒め言葉は「チェコの響きがする」というものであろう。この点において、やはり、札響のパフォーマンスはまだまだ独自性がある。東京フィルの今回の演奏は、札響よりも高い機能性で、エリシュカが思い描くイメージを忠実に引き出した点、そして、その結果として、こころの部分において聴き手を完全に心酔させたことの2点で高評価を得た。それにもかかわらず、札響のときのように、響きそのものがチェコ的であるとは誰も言わなかったように思う。

とはいえ、これだけの演奏をされては、札響もうかうかとはしていられなくなったにちがいない。現在までのところ、エリシュカ&札響のコンビは、北海道行きのために2ー3万円の旅費を払っても決して惜しくはないと思わせる魅力をもっているし、その発信力が地方オーケストラとして画期的でもあったのだ。札響が彼のことを大事に扱うことで、エリシュカの価値はいっそう高まり、いまや地元のチェコ人よりも、我々のほうがエリシュカのことを理解しているし、その音楽を愛しているというような状態まで来たと思う。

しかし、そのおかげで、東京、大阪、福岡などで、エリシュカが頻繁に指揮するようになったいま、そのような発信力を保つためには、エリシュカとの関係をなおいっそう高め、聴き手を喜ばせるための努力がおこなわれなければならない。間違っても、エリシュカを商売の道具にするようなことは避けなければならない。その問題で、エリシュカにもちかい知人たちと議論があった。年1回の定期では、確かにエリシュカのこころは最大限に尊重されている実感がある。

そこへいくと現在、もう1回ある秋季の機会は、本当にうまく使われているだろうか。『わが祖国』をやった先シーズンはともかくとして、「名曲」プログラムのつくり方が、いささか安易な方向に奔りつつあるではないか。それはそれで面白い部分もあるとはいえ、エリシュカがいつまでも元気でいてほしいと思うのとは別に、この先、何十年も共演できるというわけではないのは現実なのであって、貴重な1回1回の機会をもっと大事に使ってもらいたいというのは、贅沢な要望なのであろうか。

東京フィルの演奏会とは直接関係ないが、そのことについて、表明しておくのも大事と思ったので書いておく。それにしても、今回の演奏は私の人生のなかで、本当の意味で「できごと」となり得る演奏会であったことも、再度強調しておきたい。ただ、それに満足なさらず、まだまだ札幌まで足を運ぶ価値があることも、この記事を読んでくださるみなさんには知っていただきたいのである。

【プログラム】 2010年12月5日

1、スメタナ 3つの舞曲〜歌劇『売られた花嫁』
2、スーク 組曲「おとぎなばし」
3、ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」

 コンサートマスター:荒井 英治

 於:オーチャードホール

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身に余るお言葉、ありがとうございました。

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札幌交響楽団の首席客演指揮者としてお馴染みのラドミル・エリシュカが東京フィル定期に登場した。エリシュカは、2004年の初来日でこの楽団の地方公演(狭山市)... [続きを読む]

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