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2010年12月28日 (火)

ジュゼッペ・トルナトーレ監督 シチリア!シチリア! (バリーア) Baarìa

ジュゼッペ・トルナトーレ監督の新作『シチリア!シチリア!』を銀座、シネ・スウィッチでみてきた。安っぽい邦題だが、原題は”Baarìa”('i'にはアクセントがつくので、バリーアと読む)で、監督の生地であるシチリア島のバゲリーアの愛称である。バゲリーアはパレルモの東南東、約20kmの位置にある小さな街であり、シチリア全体を称揚するかのような邦題はすこしサイズが大きすぎるようだ。この映画は島の中心都市であるパレルモからはすこし外れた地域に生きた、貧しくも潤いに満ちた庶民の物語である。

【直向きな少年の走り、いのちの重み】

導入のあと、駒を闘わせる遊びをしている小さな少年を呼びつけ、賭けごとに興じる男が煙草を買いに走らせるという場面からシーンが動き出すが、吐き出した唾が乾くまでに戻れば20リラをやるという言葉を信じて、一目散に駆ける少年の姿をみていきなりぐっと来てしまう。始まって1分も経たないころだ。少年はそのまま飛行機のように加速して宙空に舞い上がり、バリーアの全景を見下ろすというシーンは、古い映画のスタイルを模したトルナトーレの遊びだろうが、なんといっても、ここで駆けに駆ける少年の直向きさ・・・これにまず感動を覚えないことには映画が始まらない。

・・・否、始まらないだけでなく、終わりもしない。この作品はモーツァルトの交響曲のように、無駄なものが全くない。いちど出したものはそれがなくなるまでは使いきるという方法を徹底しているが、この少年のシーンに結局、映画は戻っていくからである。見事なシンメトリー構造。交響曲の終楽章のコーダのように、それまでに出現した素材が集められ、あの日の少年を核とした1つのラインへと収束していくフィナーレ。

男にからかわれたと知り、それでもくれるというお金の受け取りを拒否して、闘駒へと戻る少年。貧しさの象徴である軽い駒は、打ち込まれた鉄の芯の強さに耐えられずに真っ二つに割れてしまうが、その駒のなかから死んだと思っていた蠅が飛びだち、映画は生命の素晴らしさを謳って堂々と終わる。この映画のなかに、トルナトーレが仕込んだメッセージは膨大であるが、たとえ、どんなに醜い存在であっても、いのちの重みは確かにあるというシンプルなメッセージこそが、その中核にあることは間違いない。

例えば、流産した子をペッピーノが墓地に埋めにいくシーンがある。終戦時、父との思い出の品であった大きなドアを壊し、棺に仕立ててペッピーノは出かける。ちなみに、このシーンは『ニュー・シネマ・パラダイス』の完全版のみに存在する葬列のシーンを思い出させる(アルフレードはそこに、わが子の死を重ねて思い出す)。生まれてこなかった水子にさえ、この扱いである。一方、作品のクライマックスを成すのは、惜しくも落選のあと、子どもたちに兄弟ができたと告げる場面だ。貧しいが、この家には子どもが多い。父親に対する娘の反抗があったりしたにしても、ペッピーノにとって家族が生きる力になっているのは間違いない。

トルナトーレの分身となる長兄が汽車で街を去る場面、実際には煙草をくゆらせ、寂しさを押し殺す父親は空想のなかだけで、息子の乗った汽車を駆けに駆けて追いかけた。家族の前では決してみせることのなかった、父親の本音である。共産党の活動家だった父親はそのことに誇りをもっていたようだが、家族と離れて暮らすことも多い生き方は、どこか寂しげにもみえる。

【あまり幸福とはいえない人生】

帰るのと、出ていくことに、あまり大きな差がない人生・・・このことを示すために、観客を混乱させかねない場面がある。手紙で家族に近況を伝え、パレルモで仕事が見つかったと書いてくるシーンのあとだ。旅支度のペッピーノが、聖堂前広場に立っている。最後のほうの場面で自動車が行き交うシーンが出てくる、この街の交通の要衝となる場所だ。ところが、聖堂の階段にいた顔馴染みがペッピーノに呼びかけるには、出ていくのか、俺たちも若ければ出ていくのに・・・という台詞である。彼はこれから発つところなのか、いま、帰ってきたのか。帰ってきた街を懐かしく眺めているのか、故郷を去りがたく街を未練たらしく眺めているのか・・・。ペッピーノはただ、彼らの言葉を追認する。この街で、ペッピーノはどこか「よそ者」であることを示す象徴的な場面だ。

ペッピーノの人生は決して、絵に描いたように幸福ではない。あれだけ世のため人のためにと頑張っても、当選すらさせてくれない街に、彼は住んでいる。いつしか彼は「改良主義者」と陰口され、反目する娘の態度に明らかなように、家族ともいくぶんすれ違っている。そうして、無為に年をとっていく。『シネマ・パラディソ』のアルフレードのようだ。

彼は家族のように、バリーアの街をも愛していた。しかし、室生犀星が詠ったように、「ふるさとは遠きにありて思うもの」なのかもしれない。

これは、映画についてもいえることだろうと思う。トルナトーレが愛するのは、なんでも思いどおりにできる金満の、スター勢揃い、CG満載の映画世界ではない。お金もない技術もない、スターはいない・・・そんなところで、人々が知恵を絞ってつくりだした、不器用にも手づくりの作品なのだ。この作品は決して手軽にできるミニマム作品ではなく、トルトナトーレの映画人生を締め括るに相応しいスケールの大きな作品である。そういう意味では、やはりトルナトーレは旅立った男だ。それでも、手づくりの温かさだけは見失うことがない。どの場面にもトルナトーレの愛情が詰まっており、そういう意味でこれほど密度の濃い映画は何十年に一度しか表れないだろう。蓋し名画である。

【様々なる貧しさ】

トルナトーレのようなスマートな映画監督が、あれほど過酷な貧しさを描けるというのは驚きである。徹頭徹尾、この物語では文字が読めるか読めないかというぐらいの、ギリギリの下層民の生活が下地になっている。盗みや狡知も辞さず、生活困窮の不満が異常に高い政治的関心や風刺性につながっているのは明らかだ。逮捕も畏れない。なぜなら、彼らの貧窮は逮捕よりもはるかに深刻だから。そういう人たちが共産党に参加したのはある種の必然で、彼らがそこから這い上がるための唯一の希望であったにちがいない。

この映画では、トルナトーレにしては意外なほど、譬えれば、アンゲロプロス並みに政治を含む時代を描いている。しかし、そこから「イタリア政治史」をみようとするのは、大きな間違いだろう。この視点でミラノやトリノといった北部の都市に住む、中産階級からみた歴史は語れないからだ。彼が描きたかったのはあくまで、このバリーアという田舎の貧民たちからみえる政治の風景である。そこでは我々からみて信じがたいほど、力強いエネルギーと驚くべき連帯心が働いていたのは事実である。

ただ、彼らの目は不自由だったのかもしれない。彼らが選んだ黒眼鏡をかけた都市計画の責任者は、盲目の人のように都市の模型を指でまさぐって、「素晴らしい!」と悦に入っている。これは死病の熱にうなされながら、「政治はいい」とうわごとを言っていたチッコの姿に重ね合わせられているのだが、トルナトーレの仕込んだ風刺のひとつであろうと思われる。それが本当に素晴らしかったかどうかは、最後のほうで、後世にタイム・スリップしたペッピーノ少年の目によって確かめられるはずだ。

少なくとも私には、素晴らしいようには見えなかったが?

【ヴィラ・パラゴニアが象徴するもの】

現在、この街の観光資源になっているヴィラ・パラゴニアも象徴的に描かれている。この珍奇な建物は街の人たちにとっては、必ずしも歓迎すべき建築ではなかったようだ。例えば、ヴィラの怪物像について、マンニーナ嬢が妊婦は見ないほうがいいと警告される場面がある。一方、戦後の政治対話の場面では、歴史的景観として尊重されるべきものとしても想定されている。少年時代のペッピーノはこの像が建築当初はずっと向こうの門までつづいていたと知り、その風景を空想しながら、その場に居並ぶ怪物たちに混じって、この街の貧民たちが表れるのを想像して面白がる。

シチリアは歴史的に、キリスト教的な文化と、ムスリムのそれが混ざり合った地であり、ヴィラの奇妙な装飾も、そのような背景に基づくものであると思う。ここを訪れたゲーテは、あまりの趣味の悪さに激怒し、時間の無駄だったと切り捨てたという話もある。良くも悪くも、このヴィラは街の象徴である。トルナトーレの感想は、多分、ゲーテにちかい。しかし、あの白砂の学校の校庭の芸術的な美しさと、それとは正反対の素っ気ない校舎の殺風景さの対比にしても、この街にはどこか釣り合わない美と醜悪の混ざった落ち着かない風景がある。

そして、その落ち着かない雰囲気こそ、トルナトーレの愛したものであり、一方では、風刺の対象なのである。

【迷子になるのもまた楽し】

この作品は長い時間を描くことになり、しかも、それを少年の夢のなかに位置づけるというトリックからしても、トルナトーレの映画にしては、やや時間軸がわかりづらいようになっている。同じ場所を描くにもアングルを変えているせいで、瞬時にどこだと判別しにくい場合もあり、この種の罠があちこちに仕掛けられているのだ。これは多分、監督の意図的なものであり、「迷子」が発生することも十分に計算に入れた見せ方だと思われる。迷子になったら、それはそれで面白い映画だということである。

迷子になった子どもにとって、見覚えのあるはずの空間が、ことごとく見知らぬ異世界に見えてしまうことを想像してほしい。その恐怖に子どもはパニックとなり、泣き出してしまう。しかし、大人が迷子になるということは、見慣れたものを改めて見なおすための良い機会となるかもしれない。あなたがどこで迷子になったかによって、作品の見方は違ってくるだろう。つまり、この作品は一回的に、見るごとに風景を変える。何度も交響曲を聴いていると、あれっと思う場所が変わってくるように!

【まとめ】

このまま行くと、すべての場面を語ることになりかねないので、そろそろ止めておく。

この映画に、なにか過大なものを求めてはいけない。トルナトーレ監督がめざしたのは、もっとシンプルな生活の風景、その歴史なのだ。三谷幸喜がつくった『わが家の歴史』と若干、似ていると思った。しかし、それよりもはるかに深い絆やそのすれ違いが描かれており、8時間もかけたテレビドラマよりも、はるかに凝縮されていてユーモアも豊富だ。画面は絞りに絞られ、ときには予想もつかない省略やつなぎ合わせをみせて、正に、この監督の真骨頂をみせている。そして、最初のほうで述べたような無駄のなさ。コピーにもあるように、この映画はどこで切り取っても美しく、面白さがある。こういう映画は、なかなかあるものではない。

こころ温まるシーンもあれば、ぎょっとするほど恐ろしいシーンもある。例えば、「牧童」という言葉があるが、ペッピーノはチーズの代償と引き替えに、羊飼いの労働に出されてしまう。あの場面は、本当に背筋が寒くなる。貧しい人たちの住む地域では、長閑に羊を追うかのようにみえる牧童にも、このような意味も含まれていたのだと知って、わが知識の浅はかさを呪いたくなる。爆撃のシーンもあるが、それよりもはるかに、こういうシーンに怖さを感じる。一方、爆撃のシーンには、気のきいたユーモアが貼りつけられる。父親に、震えているぞとたしなめられたペッピーノはいう。爆撃は怖くないが、(キイキイと泣き叫ぶ)母さんのほうが怖いと・・・。

殴られても、ばかにされても、生き抜かねばならない貧民の暮らしは、ある意味で、見るに堪えない。しかし、生きるという目標のために、彼らは必死だ。そこに、美しさが生じる余地がある。だが、一時の息抜きに、彼らは巌に小石を投げつけてみたりもする。それが跳ねて3つの巌に当たったら、財宝の在処が口を開くという言い伝えがあるのだ。ペッピーノは人生のおわりに近づいたとき、ついに、その奇跡を成し遂げる。もちろん、大金など入らない。しかし、それは、まったくの法螺ばなしでもなかったようだ。彼の人生こそが、千金に値するからである。

この映画には、過去の作品へのオマージュや風刺もいっぱいだ。最初の空飛ぶペッピーノにしても、『スーパーマン』のパロディかもしれない。郊外の農地を牛耳っているのは、『ゴッド・ファーザー』のコルレオーネ・ファミリー。ただ、農地解放をめざす貧民たちはコルネオーネ・ファミリーをやっつけろと息巻いている。痛快である。

そして、幼いペッピーノが買ってくる煙草だ。

最近では煙草の有害性が社会的に浸透するにつれて、嫌煙/分煙運動が広がってきており、映画における格好のいい喫煙シーンも批判に曝されている。しかし、良くも悪くも、煙草をくゆらせるシーンは多くの映画で象徴的なものであった。この映画でも、主人公のペッピーノは筋金入りのヘビー・スモーカーだ。多分、彼は肺ガンで死ぬだろう。古い映画への最大のオマージュである、この喫煙シーンの使い方については、よく観察してもらいたい。トルナトーレ監督は社会的な問題に加え、片手の動きを殺すなどともいわれ、芸術的にも批判される喫煙シーンを慎重に計算して入れている。その挑戦的な撮り方にも、トルナトーレ監督の身上が窺われ、実に興味ぶかい。

なお、この映画は東京では銀座のシネ・スウィッチ、および、新宿の角川シネマで公開されている。北海道から沖縄まで広く公開される作品なので、是非、見てほしい映画である。ただし、『ニュー・シネマ・パラダイス』のようなリリックな作品ではなく、もっと知性の勝った作品であることも書き添えておく。あの名作の最後で、キス・シーンの連続を贈ってアルフレードが激励したトトに、本当に撮らせたかったものがこれであるとすれば、実に感慨ぶかいところである。

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