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2010年12月21日 (火)

ブランディス四重奏団+α シェーンベルク 浄められた夜 (Nimbus)

トーマス・ブランディスは最近の日本では、仙台国際音楽コンクールの審査委員として再三、来日することで知られている。現在、教育界でも権威をなしつつあるブランディスだが、以前は、カラヤン時代のベルリン・フィルを支えたコンサートマスターのひとりとして知られた存在だった。ハンブルクの音大に学び、そのまま同地でコンサートマスターのキャリアをスタートさせたが、欧州中からカラヤンに集められた精鋭たちのなかに、彼も入っていたのだろう。

その後、同僚たちと結成したブランディス四重奏団(ブランディスQ)としても、数多くの名盤を送り出している。より正確にいえば、ブランディスは学生時代から室内楽の活動には熱心であったようで、オーケストラ以上に、身近なライフ・ワークであったとも見ることができる。

今回、そのなかでも驚きを以て紹介するのが、標記のディスクである。メインにシェーンベルクの『浄められた夜』、ほかにリヒャルト・シュトラウスの『メタモルフォーゼン』の弦楽七重奏版と、同じ作曲家による弦楽六重奏曲がカップリングされている。いずれもクァルテット編成ではないため、ベルリン・フィルからゲスト奏者が迎えられており、ここで取り上げる『浄められた夜』では、ヴィオラにヴァルター・クスナーが、チェロにディートマール・シュヴァルケが加わっている。

【往生際の悪さでは負けてないシェーンベルク】

この録音は、明らかに後期ロマン派の影響を引きずった初期のシェーンベルクの特徴を、圧倒的に引き伸ばした録音だ。その演奏はブラームス的でもあり、ヒンデミット的でもあるが、より以上に、リヒャルト・シュトラウスの系譜を引くものであるように思われる。また、マーラーの影響も濃厚である。いちばん最後の2人については、以前の記事で「往生際の悪い」作曲家グループに入れて、論じたことがある。シェーンベルクも、十分に「往生際の悪い」男の資質があったというわけだ。

【標題作品としては見ない】

ちなみに、この楽曲に関して、下敷きになっているデーメルの詩に対応する標題的作品だという見方もあるが、私はそうした見方をあまり好まない。そのことでこの曲のもつ官能性や、表現の具体性といったものが過剰に意識されるのは、楽曲理解にとって甚だ不都合だ。シェーンベルクは確かに、「往生際の悪い」男であったが、同時に、冷徹な客観性をもった作曲家でもあった。それは多分、ワーグナーの作法を下敷きに、12音技法を組み上げていった時期よりも以前の、初期作品においても例外ではない。

より率直にいえば、初期のシェーンベルクと12音以後を恣意的に分断すべきではない。

よっぽど、作品の雰囲気を知るためにデーメルの詩を訪ねるのは決して悪いことではない。しかし、そのことによって、シェーンベルクの書いた響きを歪めて受け取るぐらいなら、そのことは避けたほうが賢明というものだろう。極端なことをいえば、シェーンベルクの作品とデーメルの詩は無関係と考えたほうが無難なのかもしれない。

例えば、楽曲冒頭の断片はリヒャルト・シュトラウスの『アルペン・シンフォニー』の素材から、神々しさを奪ったもののように聴こえる。もしデーメルの詩に重ねるなら、男と女は落ち葉の敷き詰められた森のなかではなく、アルペン登山に出る途中であるような印象を抱かざるを得ない。それはそれで面白いかもしれないが、いささか読み替えがすぎるようだ。デーメルの詩からシェーンベルクの作品に投影してもいいものは、その中心にあるポエジーや骨組みだけである。標題音楽などではない・・・と私は思う。敢えていえば、標題音楽的な性質があるということだけは認めてもいいが。

【冒頭に凝縮された演奏の凄み】

さて、その冒頭の素材を重ねるときにこそ、この録音の凄みが凝縮されている。ブランディス四重奏団と、彼らが信頼するベルリン・フィルのメンバーにより演奏されることの最大のメリットは、なんといっても、弦楽四重奏団+応援の2人というメンバー構成のなかで、ベルリン・フィルという強固なベース(最近ではもろくも崩れつつあるとはいえ)を背景にした響きの質の高いシンクロ性と、それに基づく音楽密度の濃さというところに求められる。それを生かしきった最初のシーケンスでは、まるで1つの楽器がいくつもの声部を生み出していくように聴こえ、姿の見えない録音メディアであること(実演や動画つきメディアではなく)の面白さが、ここで奇跡的に輝くのである。

もはやこの一事をのみもってしても、デーメルの詩にこだわりすぎることの弊は明らかだろう。シェーンベルクのつくる響きは、最初の何小節かで、既にデーメルのつくる詩的空間を軽く飛び越えるだけの世界をもっているからである。

このあと、不安定なトレモロや、情熱的なヴァイオリンのカンタービレを織り込みながら、作品の構造は盛り上がっていくが、この録音の演奏では、それが元に戻って落ち着くときの静かなる迫力のほうがはるかに魅力的だ。先日、エリシュカ指揮東京フィルの「新世界より」の演奏について、「流れの切れ目でア・テンポを指示すると、たちまち最初の流れへと精確に戻っていく響きのコントロールの凄さには息を呑んだ」と書いているが、これと同じ種類の驚きが、このディスクには感じ取れる。

【ショパンとウィンナー・ワルツに学ぶ音楽の波】

唐突だが、ショパンの音楽について、私はすべての音楽にとっての基本を示すものだとみていることを書いておきたいと思う。すなわち、ショパンの音楽にとってもっとも大事な要素は、テンポ・ルバートである。押しては返す波。その波の大きさは、演奏者が自分で決められる。そのレヴェルが高ければ高いほど、また、そのデザインが上品であればあるほど、私たちはショパンの凄さを実感することができるだろう。単に大きく揺すればダイナミックに聴こえるというものでもなく、逆にいえば、ダイナミックであれば、上手に聴こえるというものでもない。

また、その自由が許される範囲は決まっていて、定められた左手のリズムが戻ってくるまでの僅かな時間である。それまでも自分勝手に決めていいというのは、パレデフスキ・スタイルの最大の問題点であった。ピアニストに限界を突きつける、その僅かな時間こそが、ショパン演奏の無限の可能性をつくる源である。これらすべての要素が、クラシック音楽の作品理解にとってきわめて重要な意味をもつことは、私が言うまでもない。

この『浄められた夜』にも、波がある。

ついでにいうと、このことを理解するためにはウィンナー・ワルツのリズムを思い浮かべることも重要だ。ショパン同様、波こそがすべてのウィンナー・ワルツ・・・単なるワルツよりも、その可能性を突き詰めたウィンナー・ワルツには、音楽を考える意味でとても示唆的なたくさんのヒントがある。ショパンとかウィンナー・ワルツをバカにする人も多いが、私はこんなこともあって、これらの作品をとてもシリアスに考えているのだ。

さて、このディスクの演奏において重要なキーワードも「波」である。ブランディスという強力な中心をもち、それを中心に長く活動してきたクァルテットの絆、それに、ベルリン・フィルというひとつの・・・そして、最高の伝統が、この波についての凄まじいコントロール力を導いている。さらに、その特徴のひとつである、すこし冷徹な感じさえする鋭利な表現のインテリジェンスが、シェーンベルクの表現にぴったり合っている。

楽曲は進み、第1の部分から第2の部分に移るときの信じられない、美しい転調はひとつの聴きものとなる。しかし、それ以上に注目すべき部分がある。それは、その一時の朗らかな歌いくちがみるみる緊張し、激しい振動音からもとの寂寞としたポエジーに復帰していく部分の、波の引き際だ。正に、こういうことの連続で、この演奏は組み立てられている。この押し引きを追っていくのに、デーメルの詩を追い浮かべている時間などあるだろうか。一瞬ごとに表情を変え、動いていく波の表情を捉えるだけで精一杯なはずだ。

この逆のパターンもある。それは第3の部分から、第4の部分への転換である。第3の部分のおわりでは、小結尾を構成するような途切れがちの断片が散らされ、そこから、『トリスタンとイゾルデ』の最終場面の大詰めのように厚い和声で響きが起こされて、第4の部分が温和な表情で立ち上がる。先程は動から静への波を見たわけだが、この部分では、静から動への波が見事に描き込まれているのがわかるだろう。

【帰ってこない波の効果】

これも寄り道になるが書いてしまうと、『トリスタン』では、イゾルデが最後に有名な「愛の死」を歌ってからというもの、ワーグナーは執拗に引き伸ばされた後奏をつけ、未練たらたらのうちにおわる。そのため我々はたとえ作品を知っていたとしても、イゾルデがあと一声うたうのではないか・・・そうあってほしいと期待して音楽に浸ろうとする。しかし、私たちの思うような声は、決して聴こえることはない。ワーグナーは我々の期待を見事に裏切ることで、イゾルデの生の儚さと、その凄まじいまでの力強さを同時に印象づけることに成功している。行って帰ってくるはずの波が帰ってこないところに、この作品を包み込むポエジーが詰まっているように思われる。

マーラーやリヒャルト・シュトラウスに限らず、このワーグナーも未練たらたらの作曲家だと書いた憶えがあるが、『トリスタン』はその最たるものであろう。嫌いなのではない。未練たらたらなのがいいのだ。帰ってこない波は、我々と未練を共有しようとするワーグナーの思惑を示すものである。

ときに問題の『浄められた夜』においては、第3の部分から第4の部分への転換がそれに当たる。先述のような構造の切り返しにより、一見、波は帰ってきたようにも見えるのだが、それはよく聴いてみると、第3の部分の切ないリリックさとは無関係なことに気づく。その後、我々はきっと、いままでのように、波はいつか帰ってくるはずだと期待するだろう。だが、第4の部分から最後の部分にかけて、作品はどちらかといえば膨らんでいくばかりだ。一見、打ち寄せるばかりの波は実のところ、私たちから遠ざかっているのかもしれない。そして、これこそが、シェーンベルクの正体なのだといえるだろう。シェーンベルクは、聴き手を突き放す!

最後の最後、波は静かな揺り戻しをみせるが、それはやっぱり、第3の部分のおわりに置かれた刹那的なものとは異なっている。音色はどうやら温かいが、どこか空疎に響くのである。そのことが他人の子どもを突きつけられながら、その子こそが自分たちを結びつけると歌うデーメルの、やや歪んだ・・・つまり、ちょっと無理したようなポエジーに見合っているわけだが、上のような視点からみれば、そこには同時に、いささか原詩を皮肉るような意図もあるのではなかろうか。

【まとめ】

このディスクの演奏は、この曲の表現としてはいささか濃厚の部類に入るように思う。しかし、それにも関わらず、きりっとした知性が全体を支配しており、客観性の高い演奏という見方もできる。その冷徹でハードな響きには賛否両論あると思われ、NMLでいえば、シャンドール・ヴェーグの指揮によるカメラータ・ザルツブルクの演奏や、シェーンベルク四重奏団を中心とした録音の温かい響きに惹かれる面も弱くはない。しかし、既に述べたように、ブランディスらの演奏は同時に、十分な濃厚さも兼ねあわせている。ほかの録音では、その波の表現がいまひとつ巧みではない。

なお、この演奏に驚いた私は、ブランディスQのほかの演奏もいくつか聴いてみたが、もちろん、それぞれにとびきり優れた演奏であることは確かであるが、シェーンベルクほど抜きん出たものと感じられるものは少なかった。そのなかで、もうひとつだけ挙げるとすれば、ヒンデミットの弦楽四重奏曲がある。彼らのつくる響きはとても逞しく、彫り込みも深く大胆なため、何にでもつぶしが効くというような気楽さがない。ディスコグラフィは独墺系の音楽にほぼ絞られているが、これでショスタコーヴィチでも入れてくれたら、とんでもない出来になるような気がする。

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