2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            
無料ブログはココログ

« 真の個性派指揮者 ヘルベルト・ケーゲルの世界 ① | トップページ | ニコライ・マルコ チャイコフスキー 交響曲第4番 (NAXOS Classical Archives) »

2011年1月23日 (日)

エフゲニー・スドビン ラヴェル 夜のガスパール ほか @彩の国さいたま芸術劇場 1/22

1980年生まれ、サンクト・ペテルブルク生まれのピアニスト、エフゲニー・スドビンの演奏を聴いてきた。スドビンは昨年の9月ごろ、BISによる録音を聴いてその存在を知ったのだが、この1月に来日公演があると知って心待ちにしていたものである。今回は香港を皮切りに、埼玉、東京、シンガポールとまわるアジア・ツアーの一環となる。ただし、日本公演は彩の国さいたま芸術劇場、東京・武蔵野市民文化会館と周縁を通り過ぎる感じである。

【期待を裏切らないスドビン】

さて、スドビンの演奏は期待を裏切らない素晴らしさであった。表現の若さがまったくないというわけではないが、それを補ってあまりある見事な音楽の構築感、和声の精確な響き、作品の奥の奥を抉る知性の深さ、原典的なベースの構築と巧みなデフォルメ・・・。録音への批評で、私は次のように述べている。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

ここまでの評言にも見えるように、スドビンの演奏は作品の立脚する要素に忠実でありながら、その背景に浮かび上がる要素、例えば、ハイドンの書いたその他のジャンルでの精華や、ハイドンのもっていた未来的な可能性までを幅広くフォローして、ワイドにみせていくという独特な表現になっている。若いのに、「個性」というものをはき違えることなく、限られたフィールドをいっぱいに使って、自分なりの表現を組み立てていることは驚愕に値する知性だ。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

自画自賛となるが、その評言はハイドン演奏に限らず、スドビンというピアニストの本質を的確に言い表していたようだ。

【伝統的なベースからの拡張】

まず、伝統的なベースに忠実である点は、最初に弾いたドメニコ・スカルラッティのソナタ(K.466)に象徴される。この作品は無論、鍵盤楽器が主にチェンバロであった時代に作曲されており、現代ピアノよりも音色が豊富であった分、ダイナミズムが小さく、音域も狭いというのが大まかな特徴をなす。この第1曲ではそのような事実に基づき、ペダルは柔らかく自然な風合いでさりげなく、音のベースはたっぷりとるが、その変化はさほどなくて、チェンバロ特有の音色のカラフルさについてはピアノの残響を利用するとともに、先にも述べたペダリングのコントロールで、繊細な色づけを試みた。

しかし、スドビンはさらに(K.455)(K.27)を加えて、これらを1シーケンスで演奏する。そして、多分、ピアノの誕生を基点に、第1曲を過去、第2曲を現在、第3曲を未来として見据えて、興味ぶかい展開を披露している。すなわち、真ん中の(K.455)では華やかなパッセージのなかで、ダイナミズムやペダリングが尖鋭となり、第3曲(K.27)では一旦、過去に戻るかのようなポーズをとりながら、真ん中のシステムを乗り越える表現の強さに成長していく。その経過が、ちょうど3楽章構成のソナタ形式の発展と重なるように、巧みな筋書きを準備していた。

【スドビンとデフォルメ】

ここにみられるように、スドビンはデフォルメの好きなアーティストではないが、必要ならば、デフォルメも辞さない音楽家である。例えば、それはショパンのバラード第3番の特徴を形作っている。まずスドビンは、今日、すこぶる旗色の悪いパレデフスキ・スタイルであっても、それをあたまから排除しないようにしているようである。というのも、このバラード第3番の冒頭ではそのスタイルを援用することで、最初に「破」の要素をもってきているからだ。そこでのなよっとしたスタイルが、徐々に正統派のショパン演奏のスタイルに染まっていくことで、スドビンはショパン演奏の可能性の多様さを端的に示すと同時に、作品に通常はみられない奥行きをもたらしてもいる。

どういうスタイルがいいのか、スドビンは百も承知なのである。だが、それをあたかも知らないかのように、いろいろなスタイルを織り込んで1曲を編み上げていく。フォルムは単純でなく、普通に弾くよりもはるかに難しくなるはずだ。これはショパン・コンクールで入賞させてもらえるような演奏ではないが、そこで優勝する人よりも、ずっと高いところに目標を置いていることになる。ことショパンにおいては、ブレハッチを超えるものではないが、彼にはない発想力のスケールの大きさがスドビンというピアニストをずっと大きな存在にみせる。これは、他の若いピアニストとは一線を画すものだ。

もうひとつ、強奏部でエネルギーが集まってくる部分では、明らかに音色やフレージング、それにアーティキュレーションの強調で、スペイン的な響きを明確に浮き立たせていた。のちのラヴェルやシャブリエ、ビゼーなど、フランスの作曲家につよいスペイン趣味の先達として、さらには、アルベニスのようなスペイン人作曲家そのものの先祖としてさえ、ショパンのイメージを描いているのは驚きの奇知であった。

【今日のテーマ:実はスペイン】

寒い地域の人たちは、温かい国に憧れるものだ。スラヴ人はピカソが少年時代、そのうだるような暑さに苦しめられたスペインの暑気に強烈な憧憬を感じるのだろう。リムスキー=コルサコフの『スペイン奇想曲』という作品もあるが、アンコールで弾いたラフマニノフのプレリュードにも、明らかなスペイン趣味がみられる。そして、ショパンにも。スドビンもスラヴ人であるし、そういう気持ちがよくわかるのだろう。

ときに今回のプログラムに入った作曲家は、どの人もスペインと無関係でない。ドメニコ・スカルラッティはイタリア人であるが、ナポリからリスボンに渡り、最終的にスペインで活躍した。ショスタコーヴィチは歌曲集『スペインの歌』を書き、交響曲第5番では、ビゼーの歌劇『カルメン』の有名なハバネラの旋律を挿入したりしている。ショパンは、いま申し上げたとおり。リストにも、有名な『スペイン狂詩曲』がある。『ハンガリー狂詩曲』はその名のとおりハンガリーのロマの旋律を取り入れたものだが、それにはどこかスペイン的な要素も感じられる。ハンガリーもスラヴ人の国家だ。そして、リストは自らをハンガリー人として自認していた。

ラヴェルとスペインの関係性は、わりと有名である。ラヴェルの母親はスペインのバスク地方の出身であり、ラヴェル自身もスペインにシンパシーをもっていた。その発露である『スペイン狂詩曲』は有名であるが、そのほかにも歌劇『スペインの時』をはじめとして、ラヴェルにはスペイン関係の作品が多い。

しかし、それにしても、ショパンとスペインの関係など考えたこともなく、このバラード第3番の演奏には大きな驚きを禁じ得なかった。

【セリエルとの対峙】

ショスタコーヴィチでは(op.34)のプレリュード集から2番、6番、17番、24番を選んで、4楽章構成によるソナタ仕立てにしていた。なお、ショスタコーヴィチには同じプレリュードでもフーガのついた『前奏曲とフーガ』(op.87)も存在するが、こちらではなく(op.34)のほうである。まず2番ではかなり皮肉交じりの、大げさなルバートを強調し、フォルムが壊れそうなほど大胆にデフォルメする。第6番でもそれを受け継いで、印象を強めていた。一方、後半はセリエル・ミュージックを皮肉るようなアクションが出てきており、これと伝統的な美しい旋律が、ほんの断片的なイメージで対置されている。

また、リアルタイムでは気づかなかったが、いま他の録音で聴き返してみると、この4曲からも、独特なリズムなどにスペイン趣味が感じられないこともない。

【本家本流のリスト】

リストの『超絶技巧練習曲集』は作曲者のリストから師匠筋のツェルニーに献呈されているが、スドビンは師匠のクリストファー・エルトンからクルッチオ、シュナーベル、そして、レシェティツキを介して、同時にリストの師でもあったツェルニーにまで遡れるピアニズムの継承者であり、演奏の素晴らしいのは当然である。第11番「夕べのしらべ」は起伏に富んだ内容豊富な1曲だが、スドビンにおいては、特に最強奏部における和声の鋭さが物凄く、やや馬力に頼りすぎて硬くなる局面もなくはないが、抜くところのポエジーも十分に輝かしく、これ1曲で、リストのあらゆる面を語ることのできる濃厚な演奏である。

例えば、この作品でも重要なモティーフとなる鐘の響きは、有名な「ラ・カンパネッラ」よりもはるかに効果的に、リストの深い信仰心を語るものだ。それは同時に、ラヴェルの『鏡』のなかの1曲「鐘の谷」にみられるような神秘性をも窺わせるもので、リストのほかの作品でいえば、『詩的で宗教的なしらべ』にも匹敵する深いテーマをもっている。そのことを慎重な造型でしっかりと伝え、どの曲でもそうであるように、スドビンはさりげなく作曲家のこころのなかを聴き手に覗かせてくれるのだ。

【偉大なる夜のガスパール/3つの死】

最後の『夜のガスパール』を聴いて、この曲のものすごさを思い知らなかった人はいないだろう。もともとそれなりに演奏効果の高い作品ではあるが、スドビンの演奏は、そのなかに何重もの層を描き出し、この作品がどんなところに拠って書かれ、未来に向かって、どんな可能性をもっていたのかを明らかにする。スドビンの『夜のガスパール』からは、ドビュッシー、ストラヴィンスキーをはじめ、過去と同時代、それに未来を構成する、多くの作曲家の名前が浮かんでは消える。

一方、ドラマトゥルギーからみたときには、スドビンはこの作品を通じて、3つの死を描いている。すなわち、「オンディーヌ」は美しい死、「絞首台」は諦めの渇いた死、そして、「スカルボ」は巨大な愛を打ち抜く絶望の死である。このうち、「絞首台」はまだわかるとしても、他の2曲は異様に個性的な観点だ。

例えば、「スカルボ」は小悪魔どころか、もっと強い表現性で固められている。音色的にはちょうどヤナーチェクのソナタのような緊張感に満ちているし、不安定なトレモロに象徴されるスカルボの動きは酒脱さに欠け(意識的にそれを避けて)、主にリズムの攻撃性が前面に出ている。ところが、興味深いことに、内面的にはとても明るい。この正体は何なのか、いまでもよくわからないが、スドビンは没入的なアクションのなかで、ほとんど即興的というぐらいの偶然性で以て作品に潜む愛の部分を浮かび上がらせる。殺伐とした話で恐縮だが、もしも100組のカップルが集まっているとして、そこで虐殺が起こったとすれば、このような音楽にならざるを得ないのではないか。

私は恐ろしさで、ゾクゾクした。作品の内側に込められた愛情が温かければ温かいほど、死の絶望は深まる。ロミオが死んだと思い込んでは、もはや生きることさえままならないジュリエットのように。その死のイメージは、セリエルを先取りするといっても過言ではない、複雑な終盤の動きによって象徴される。だが、その部分はよく聴けば、それ以前に現れた素材の再現的な意味あいも隠し持っている。新しい要素と古い要素が、隣り合わせに気脈を通じているわけだ。もしも、前の2曲のモティーフが死であるならば、いわば最初の死と、次の死が、この巨大な死のなかに呑み込まれていく構造になるが、そのような意味も含めて、ラヴェルがこの曲に込めたイメージはダブル・ミーニングどころか、より多重的なものである。

「オンディーヌ」は本来、恋をした水の精が人間に告白し、おいらは人間が好きさといわれて失恋する筋を詠う。スドビンは終盤のパウゼの前で、首が切り落とされるように鋭い平行的な打鍵を印象づけ、すぱっと音楽を切り裂く。ベルトランの詩のなかの水の精はもっと儚いが、スドビンの演奏を聴くと、ずっと怖ろしいイメージであった。そして、「絞首台」は3つの死のなかでいちばん陰惨な雰囲気を詠っているが、むしろ音楽では、第一の死の「影」のようなものにすぎない。同音型の連打が渋とくつづけられ、影は長く伸びる。それだから、第三の死へと作品は結びつていく。

「スカルボ」は確かに気味が悪いけれども、スドビンが弾くほど陰惨なポエジーに包まれているわけではない。ベルトランの詩では、見てはいけないものを見てしまって、その正体も掴めぬままに、その奇妙なるものは静かに去っていくという、これも儚いポエジーに結びついている。

このような視点でみれば、スドビンの解釈にどの程度の妥当性があるのかは判断しにくい。しかし、ある詩作品に音楽家が付曲したときに、もとの詩よりも深い意味が加わっていく例は少ないわけではなく、例えば、詩ではなく絵画に対する付曲であるにしろ、ムソルグスキーの『展覧会の絵』などもその好例である。私は、このスドビンの解釈がまったく的外れであるようには思わない。その説得力はもちろん、響きの上でもしっかり実現されており、特に『スカルボ』の引き締まったフォルムは、上のようなイメージを語る上で欠かせない要素だ。

後半、オンディーヌを想起させるトレモロでひとつのクライマックスがつくられるのは、正に、この3曲がソナタ的な形式で、3つで1つ(三位一体)の死を描いていることの何よりの証拠ではなかろうか。その後も作品はつづくが、これはもう、遅れてきた回想である。そこに倒れた100体の恋人たちの死体を、ひとつずつ確かめていくような・・・。

【まとめ】

なんという、優れた才能だろう。スドビンの演奏を、こうして実際に耳にできた喜び、そして、それが期待を大きく上回るものであったことに、高揚した気分で家路についた。惜しむらくは、埼玉の聴衆はどうも目立ちたがりが多いものか、拍手があまりにも早すぎたり、コーダを控えた曲の終盤のパウゼで拍手をしたり、やや礼儀を欠くものが多すぎた。武蔵野では、少なくともこういうことはないんだろうと推察する。是非、この素晴らしい才能を、じっくり味わって堪能していただきたい。

【プログラム】 2011年1月22日

1、D.スカルラッティ ソナタ K.466/K.455/K.27
2、ショスタコーヴィチ 24の前奏曲 op.38-2,6,17,24
3、ショパン バラード第3番            
4、ショパン バラード第4番
5、リスト 超絶技巧練習曲集 S.139-11「夕べのしらべ」
6、ラヴェル 夜のガスパール

 於:彩の国さいたま芸術劇場(音楽ホール)

« 真の個性派指揮者 ヘルベルト・ケーゲルの世界 ① | トップページ | ニコライ・マルコ チャイコフスキー 交響曲第4番 (NAXOS Classical Archives) »

ピアノ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/50659864

この記事へのトラックバック一覧です: エフゲニー・スドビン ラヴェル 夜のガスパール ほか @彩の国さいたま芸術劇場 1/22:

« 真の個性派指揮者 ヘルベルト・ケーゲルの世界 ① | トップページ | ニコライ・マルコ チャイコフスキー 交響曲第4番 (NAXOS Classical Archives) »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント