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2011年1月 4日 (火)

ベートーヴェン弦楽四重奏曲 9曲演奏会 2010 @東京文化会館 12/31 ②

【弦楽四重奏曲第15番】

前の記事につづき、大晦日の「ベートーヴェン弦楽四重奏曲 9曲演奏会」の模様についてリポートする。既にクァルテット・エクセルシオ(エク)による14番の演奏まで述べてきたわけだが、15番は難曲である。当初は4楽章構成が企図され、第2楽章までは通常の形式になっているが、腸カタルにより重篤に陥り、そこから奇跡的に回復するという経緯を経て、リディア旋法に基づく長大な第3楽章が出現。その後の楽章では、当初の予定どおりの2つの楽章がつづき、全5楽章の形式である。第3楽章がないとすれば、第1楽章とスケルッツォにつづき、ごく短い第3楽章と、ロンド形式によるフィナーレが書かれていたことになり、16番と同じようなシンプリシティをめざしていたことが窺われる。

しかし、平均して15分以上もある第3楽章が挿入されるとなると、あっという間に作品の風景は切り替わってしまう。病気以前にどこまで書かれ、病気平癒以後、どのような創作過程があったのかについては詳らかでないが、当初の構想に4−5楽章の部分が予め含まれていたとしても、3楽章との対比から、それらは病気平癒の歓喜の想いと無関係ではあり得なくなる。また、バロック風の第1楽章の序奏も第3楽章との対比でみられるのは必至であり、病の苦しみとそれが癒やされる神秘体験を予告するものとして機能することになるであろう。

エクの演奏は全体的に素晴らしいが、このような構造的な把握も明らかにしっかりしている。特に第3楽章以後がきわめて秀逸であるが、その第3楽章は、①の記事で書いた4つの楽器がひとつの声で響くという力強い長所が、複数のメッセージがひとつに重なってくるこの楽章の表現には、きわめて有効に作用するのであった。強調したいのは旋法的な静的部分と、ニ長調による動的な「新しき力を感じて」の部分に断裂がなく、裏表のメッセージが直結していることである。

これは表現やダイナミクス、テンポ上の問題で、平面的に直結しているという意味ではなく、それらの起伏を含めてもなお、内面において連続性がはっきり感じられるということである。もちろん、この華やかなニ長調のテーマは第1ヴァイオリン、西野ゆかの伸びやかなリードで、ぱっと華やぐように明るくなる。この日の西野は非常に調子が良く、ここのところ、第1ヴァイオリンとして一皮むけたという印象を強化させるパフォーマンスであった。ただし、重要なのはこれと対になっている3つの声部が薄く、しかし、はっきりと響きの層を張り、ことの神秘性を忘れさせない周到な配慮が響きの上で実現されていることである。

結局、これらの交代によって表現させる第3楽章から感じられるのは、ひとりの人間の病や、その平癒というパーソナルな体験に基づきながらも、それらを超越した神秘的な力に対する強烈な印象なのである。シーケンスが重なるにつれて、旋法の部分では背筋が伸び、急速な部分ではさらに背筋が伸びていくという感じで、エクの演奏はこの日、良いとか悪いとかいう前に、もう透徹と見つめているより他にないような神々しい仕事であった。特に、2回目にニ長調が現れる部分以降は、その真摯な内面の盛り上がりに感銘が大きく、涙を堪えるのが容易でない。

後半2楽章はこの雰囲気を生かして、過度に劇的ではなく、形式を丁寧に追っていく演奏姿勢が好ましい。ここでも西野によるリードの美しさが目立ち、ロンド形式のアンサンブルのコアとしては相応しい。全体の構造もぐっと引き締まっており、若干、前曲での成功に安心した第1楽章を含む、前半2楽章よりも集中力が高くて凝縮した演奏だ。

【弦楽四重奏曲第16番】

ベートーベンの16番は彼の後期作品ではもっともシンプルで、私の好きな作品である。ここではモーツァルトなどの古典作品を参照しながらも、それらをまとめて呑み込むような作品の凝縮度を示す必要がある。その点、若干、不足がないといえばウソになるが、それでも最後の作品だからと気負うことなく、後味のいい爽やかな筆致で締め括ったことは評価したい。

とりわけ、第4楽章はメッセージのわかりやすいエクの演奏らしく、「かくあるべきか」「かくあるべし」の対話が丁寧に織り込まれている。そのメッセージが徐々に濃厚になるように工夫された、アーティキュレーションの妙も見逃せない。ハイライトはむしろ、最後の「かくあるべきか」の厳しい問いかけに来ており、一度やったことは二度とやろうとしないベートーベンらしいメンタリティが明解である。そして、ここから最後の解決へ向かう道筋もとてもスムーズであり、演奏会の締め括りとしても申し分ない堂々たる感興を残した。

もうひとつ、記憶が曖昧なのだが、この作品のスケルッツォ楽章(ヴィヴァーチェ)だったか、それまでほぼ内声の役割に徹していた第2ヴァイオリンが、突如としてハナを切る場面があり、これが非常に魅力的だった。その山田百子は目立たないが、とてもいい奏者だ。あとで西野が同じ素材をより華やかに演奏するのだが、むしろ、山田の奥ゆかしいカンタービレのほうがこころに残った。

【まとめ】

これで全プログラムが終了。今回は夕食用の30分休憩がひとつできたが、その分、どこかで休憩時間がひとつ減ったのか、終了時刻は昨年とほぼ同じ21:30。クァルテットのひとつは明らかにアマチュア、全体的には退屈な時間もあったけれど、エクの3曲で元が取れたという感じで、私は楽しい気分で帰れた。細かくは書かないが、このあたりのベートーベンの弦楽四重奏曲を聴いていると、この作曲家が、たっぷり200年先ぐらいまで先取りしているということがハッキリわかる。なおかつ、ベートーベンが古典派であることも自明であるし、ロマン派の可能性を秘めていたこともよくわかる。これはシンフォニーやヴァイオリンやピアノのソナタ、その他の室内楽の分野でもわからないことではないが、弦楽四重奏曲ではいっそう明確に、それとわかる。

上のような意味ではやはり、この企画に毎年(あるとして)、通い詰める意義は十分あるだろう。

しかし、今後は発展的に、いろいろな工夫を考えてほしいとも思う。例えば、9曲(=究極に通じるつもりだろう)のうち後期6曲は固定するとしても、ラズモフスキー・セットについては他の作品に入れ替えるのもありだと思うし、ベートーベンの作品の全体像を把握するためには、初期の作品も聴いてみたい。

また、2009年の演奏会を聴いたあとにも言ったことだが、やはり、室内楽の祭典にミニ・オケはいらない。このミニ・オケ・クァルテットはこの企画のために結成された団体であることも承知しているし、このような迫力に感応するファンもいるだろうが、彼らの演奏が企画のクオリティを大幅に落としていることは疑いようもない。マゼールに対抗して、東京クヮルテットでも呼ばないと!

サーヴィス面では、全体の時間を延ばしたくない主催者の都合もわかるが、夕食休憩を15分→30分にしても、私たちにとってはあまり有り難いわけではない。その時間では、なにか軽食を買って来るぐらいの時間しかないから。その点は、さすがに三枝事務所のほうがよく考えている。ミリオンコンサート協会も、内容とサーヴィスの両面で、もっと上をめざす工夫を試みられるように要望したい。

とはいっても、そもそもやることに意義がある企画だという気もするが。三枝さんのほうと、どちらが長生きする企画かといえば、それは室内楽のほうだと思う。その証拠というべきか、2010年は前年よりも客入りがよく、8割ぐらいは埋まってきた。これはもしかしたら、隣の企画のチケット代が高すぎたせいかもしれない。2009年末は、後ろのほうの席なんてガラガラの状態だったし、それと比べると今年はずっと盛り上がった。やっぱり、不人気分野とはいっても一定の需要はあるのだ。もっと、やり方次第でどうにでもなると思う。頭をひねって頑張れ、主催者諸君!

【プログラム】 2010年12月31日

オール・ベートーベン・プログラム
〈古典四重奏団〉
弦楽四重奏曲第6−8番(ラズモフスキー・セット)
〈ルートヴィヒ弦楽四重奏団〉
弦楽四重奏曲第12−13番、大フーガ op.135
〈クァルテット・エクセルシオ〉
弦楽四重奏曲第14−16番

 於:東京文化会館(小ホール)

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