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2011年1月 2日 (日)

ベートーヴェン弦楽四重奏曲 9曲演奏会 2010 @東京文化会館 12/31 ①

謹賀新年のごあいさつもほどほどに、早速、大晦日のレヴューを書いてみたい。

私はここ数年、大晦日はベートーベンの室内楽を聴くコンサートで締めている。それ以前は、同じベートーベンでも、三枝成彰の事務所がやっていた交響曲全曲演奏会に初回から皆勤で通っていたものだが、コバケン体制になって(意外に不満はなかったが、)2年目に室内楽のほうに浮気してからは、大ホール→小ホールへと移動したわけである。よっぽど、こちらのコンサートは9時半ごろに跳ねるのだから年越しにはならないが、別に音楽で年越しをするのが目的でないから問題はないだろう。

今年は大ホールのほうもロリン・マゼールに指揮者が変わったので興味も復活したが、その分、チケット代も大幅に跳ね上がり、岩城存命のころの催しとは趣旨も似て非なるものに変わってしまった感じがしたので、贔屓のクァルテット・エクセルシオも出演する室内楽のほうを選ぶのに迷いはなかったものである。

【オーダー変更】

今回は前年とオーダーが変わり、ラズモフスキー・セットを古典四重奏団(クラシコ)、ルートヴィヒ弦楽四重奏団(ルートヴィヒSQ)が12、13番と大フーガ、最後にクァルテット・エクセルシオ(エク)が14−16番という構成になった。試みに野球でいえば、1番 センター 青木、2番 ショート 坂本、3番 サード 森野って感じのオーダーである。ただし、坂本は得意の打順でないというのがミソだろう。野球の2番打者のように、室内楽というのは特別な音楽表現のスタイルだと、この分野を少しずつ知っていく度に思い知らされる。

完全に余談だが、イチローのチームメイトに2010年から加わった、ショーン・フィギンズという巧打者がいる。シアトル移籍前はアナハイムでトップ・バッターを打って活躍していた俊足好打の選手には期待も大きかったが、シアトルでは不動の1番打者につづく2番を任され、その新しく、難しい役割にシーズン半ばまでとても苦労した。彼のように器用な選手でさえ、難しいポジションで力を発揮するのは簡単ではない。同じように、オケやソロで卓越した能力をもつ人でも、室内楽でそれを遺憾なく発揮できるとは限らないのだ。

それと見比べると、1番打者と3番打者の素晴らしさが印象に残った演奏会だ。特に、先シーズン、プレーオフまでを通して長足の進歩を遂げた森野に譬えられる、エクの活躍には贔屓目を差し引いても感動させられた。シーズン終盤に不審となり、プレーオフには不出場だった選手とは大違いである。

閑話休題。

【クラシコの示すベートーベンの天才性】

最初のクラシコは言うまでもなく、譜面なし、オケでいう対向配置をとる。元旦のニューイヤー・コンサートを演奏したウィーン・フィルと同じく、第1ヴァイオリン・チェロ・ヴィオラ・第2ヴァイオリンの並びである。彼らのファンには当然のことだが、一応、書いておく。ラズモフスキー・セット3曲では7番はなかったことにして、8番と9番が秀逸であったといえる。7番はキャッチーな曲でもあるし、さほど力を入れて準備したわけでもないのか、お茶を濁された感じ。第1ヴァイオリンの川原が安定せず、全体的に踏み込みも浅かったようである。

これに象徴されるように、この日のクラシコのパフォーマンスは、若干、力業に傾いており、表情の切り替えなどが強引に感じられたのは頂けない。ただし、ナンバーが進むにしたがって、その点も含め、次第にスムーズな流れを取り戻していったクラシコである。8番は川原に安定感が戻り、彼女のリードに基づく全体の機敏な動きがずっと繊細なものとなった。クラシコはどちらかといえば、縦の和声の感覚が鋭い。この日の演奏も4人がよく聴きあって、縦の構造観がきれいに浮かび上がるのがよくわかった。しかし、彼らにとっての白眉は、やはり9番の演奏であったろう。

バロック的に荘厳な序奏から、第1ヴァイオリンによるややコミカルな動きを特徴的に捉えた最初のシーケンスから、全体的に響きの力感が異なり、ラズモフスキー・セットのなかでもこのナンバーが取り立てて重要であることを示す。特にベートーベンの天才性を示すのが第4楽章の演奏だ。ここではもう、この時代では破天荒としかいいようのない・・・現在からみても、驚くべき仕掛けがあちこちに施されている。特に和声重視のクラシコの演奏で顕著なのは、この部分にみられる大胆な転調の神秘性についてであり、これは文句なく美しいだけでなく、作品理解にとって示唆的である。

冒頭と中間に現れるカノン的な構造では、最初の部分でシンプルに楽器が増えていく構造をあっさりと示し、中間の再現的な部分でハーモニクスによる影がつくのを面白く聴かせる。ハーモニクスを担当するヴァイオリンとチェロの、絶妙の脱力感も聴きものだった。クラシコは、楽曲のもつ力感は抑えめにして、このような質のよい変化で、聴き手を作品世界に惹き入れていく。

ただし、不満も残った。例えば、第2楽章については表面的な響きの美しさはあるのだが、カンタービレに自然な揺らぎがなく、その点で常に硬さがつきまとった演奏である。これは多分、音の息づかいを示すルバートが過剰に抑制されたせいであり、2010年に聴いたキュッヒルのヴァイオリン・ソナタの演奏を参考にすると、いかにもフォルムに生命感がないのである。また、舞踊楽章においては、その特質を示す舞踊の躍動感がみられず、和声重視の姿勢とは裏表になっている、動きのイメージに対するセンスの甘さが目立っていた。

【アマチュア・ルートヴィヒSQの甘さ】

2番手のルートヴィヒSQについては、昨年よりもストレスは感じなかった。それは彼らがクァルテットとして成長したためではなく、2人の大人に挟まれた子どもの演奏であってみれば、こんなところだろうという気楽なポジショニングのせいであった。残念ながら、少なくとも室内楽の分野においては、彼らは異常にうまいアマチュアという範囲を出ない。ラズモフスキー・セットに比べれば、オーケストラ編曲もある『大フーガ』など、個性が立ち、男性的な魅力が大きい彼らにあった曲目ではあったろう。しかし、私はミニ・オーケストラが聴きたいわけではなく、室内楽が聴きたいのである。

クラシコやエクと比べたときに、ルートヴィヒSQの弱点が顕著に表れるのは、レチタティーヴォ的な部分というか、mf 以下で何気ない経過句をつくるときの響きや、アーティキュレーションの作り方である。クラシコやエクの演奏では、舞踊に譬えるなら、そういう部分でもきっちり指先まで神経が行き渡っているし、ステップの踏み方や腕の使い方にも慎重な磨き込みが感じられる。ところが、ルートヴィヒSQの場合、経過句は経過句でしかない。確かに、そうすることで、ここでためをつくり、あそこにヤマをもってきて・・・という構造的なデザインを試みているのはわからなくもない。だが、それはやっぱりオーケストラ的な発想であり、室内楽の場合は、そうした骨組みの支持力だけで作品を組み立てることはできない。

したがって、私はルートヴィヒSQの演奏はなるほど音の厚みもあり、迫力はあるものの、結局のところ、スカスカだと感じるのである。

一筆書きといわれる鈴鹿サーキットのような『大フーガ』は、単独で演奏する形をとった。序盤からリスクを畏れずアクセルを踏み通したものの、逆バンクに突っ込みすぎてタイムを失うような演奏。テクニカル・セッションはわりにうまく抜けたが、スプーンが回りきれず、肝心の130Rでスピードが出てないというような状況で、シケインは意外とうまく回ったものの、酷いタイムで1周という状況になっていた。もちろん、全体的に共感はない。

【エクの驚くべき変身】

最後にエクが登場すると、真打ち登場という感じがした。クラシコやルートヴィヒにこれ以上の可能性は感じないが、エクはこの道をじっくり歩めば、クァルテットの王道を辿って、どんどん世界に迫っていくであろうという確信がある。実際、この日の演奏にも長足の進歩が感じられた。ルートヴィヒSQが引き立て役を演じてくれたせいか、エクの表現がいつも以上に繊細に聴こえる。これはまだ記憶に新しいメネセス&プレスラーの演奏会を思わせるような、落ち着き払った歌いまわし、メゾ・フォルテ以下で粘りづよく歌っていくことで聴き手を味方につけるような演奏を、彼らはいつの間に身につけたのだろう?

これまでのエクはどちらかといえば若々しい、切れ味のいい演奏に傾いていた。最近のベートーベンとシューベルトの録音も、エクのそんな一面を証明するものとなっている。その新鮮さを保ちながらも、経験という良薬が彼らを育て、徐々に角がとれ、少しずつ熟成を深めていくのであろうと私は信じていた。しかし、その熟成は思ったよりも早く、私たちの目の前に姿を現したのだ。この前の演奏会がほんの数ヶ月前のことだから、これは思いがけない収穫である。

まず、14番の演奏が素晴らしかった。作曲年としてはもちろん、作曲家にとって最晩年の労作、『大フーガ』があとであるが、その演奏をルートヴィヒSQが若さに引き戻して演奏したこともあり、正に作曲家がワープしたような作品の落ち着きが印象づけられた。出すぎることなく、一本一本の楽器が自分の味を確かめながら、ずっと繊細なフォルムを守る最初のアダージョには、いきなり鉄槌を振り落とされたような驚きを感じた。これが、クァルテット・エクセルシオの演奏なのか?

私はこの演奏を聴いて、否応なくベートーベンの老いを感じた。還暦にも達せず、56年の生涯に余人の寿命を倍にしても足りないほどの、濃厚な人生を詰め込んだベートーベンのこころは、もはや燃え尽きようとしていたのだろうか。この第1楽章を聴いて、次の曲のリディア旋法による長大な楽章の成功は火を見るように明らかと思われた。たとえ大病から癒えるという天恵がなかったとしても、この楽章には、あの部分が生まれるという十分な可能性が見てとれるのだ。

ヴァリュエーションの演奏も非常に面白かった。特に、カノン風というわけではないが、同じフレーズを用いて複数の楽器で呼び交わすようなアクションの面白さには、感銘を覚えた。これもアントニオ・メネセスのインタヴュー記事にあったことだが、彼らは複数の楽器がひとつの楽器であるように錯覚させることをめざして演奏していると言っていた。ボザール・トリオやプレスラーとのデュオでは弦とピアノというちがう楽器だが、弦楽器4つのクァルテットにおいては、そのことはなおさら徹底されるべきだろう。この点において、この日のエクは申し分なかった。

記事でインタヴュアーが問うている発音、フレージング、アーティキュレーションだけではない。言葉にできないちょっとした癖のようなものまで、ものまね師のようにしっかり特徴を捉えている。しかも、それはむやみに強調されるわけでなく、楽曲のなかの必要な場所で、必要なだけ、さりげなく用いられるだけだ。終始、誇張だらけで娯楽性を追求したコロッケ(著名なものまね師)的な面白さではない。いわば舞踊で相手にステップをあわせる、その動き方である。特に、チェロの大友がそれに優れていたのは偶然ではあるまいと思う。

これがスケルッツォ的にアイロニカルに強調されるのが、プレストの演奏であろう。直前のアンダンテと、このプレストは明らかに裏表だ。各楽器の模倣の最後に、付点(休符かも)で引き伸ばされるチェロの響きに、ユーモアが詰め込まれている。しかし、それを繰り返すことで徐々にシリアスに落ち込み、ロンド形式のようなギミックを誘って、最後に偽終止でアンサンブルを引きちぎるところまで、見事に聴き手を騙す。ベートーベンの構成意図を、はっきりと理解した上での力強い演奏だ。最後の偽終止で、私は心臓が止まりそうになる。この曲は、それなりによく知っているはずなのに!

吉田(ヴィオラ)の見せ場であるアダージョは引っ張りすぎないが、表情のメリハリはきっちり。アレグロに入り、勇壮で優雅なマーチから、『大フーガ』を想起させるポリフォニックな場面も存在するが、彼らは猛然と飛ばそうとして逆バンクにはね返された荒馬とはちがい、ここのスペシャリストと言われたエディ・アーバインのように鈴鹿をよく知っていた。ベートーベンを弾く限り、このような部分は頻繁に登場し、エクもベートーベンのツィクルスを進めてきたのだが、正直、今回ほどメリハリの優れた良い演奏は聴いたことがなかった。よく走る車を支える4つのタイヤ、それを繋ぐシャフト、それにサスペンションのようなクァルテットの融け合いに、しばし時間を忘れた。

(②につづく)

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