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2011年1月30日 (日)

クァルテット・エクセルシオ & 小山実稚恵 シューマン ピアノ五重奏曲 ほか クァルテット・プラス (第一生命ホール クァルテット・ウィークエンド) 1/29

【今回は小山実稚恵と共演のエク】

クァルテット・エクセルシオにとってはNPO法人としての師匠筋に当たる、第一生命ホールのトリトン・アーツ・ネットワーク(TAN)の室内楽企画を通じて、クァルテット・エクセルシオ(エク)は様々な「旅」に出てきた。日本と世界を繋ぐ「ラボ・エクセルシオ」を受け継ぐ形で、今回からはエクとゲスト奏者とのコラボによる新しい室内楽の世界が楽しめる。名づけて「クァルテット・プラス」の第1回のゲストは、ピアニストの小山実稚恵だった。人気のうえでは日本のトップ・アーティストといってよく、ショパン・コンクールの審査を務めるなど、世界的にも高いステイタスを誇る相手だけに、いつもは空席も目につく会場が今回はいっぱいになる。

【この馬には鞍がついていない】

ただ、今回の演奏会、あらゆる意味でなかなか背伸びした公演であった。

例えば、小山実稚恵というピアニストは、なるほどよく走る馬であるとしても、この馬にはどうやら鞍がついていない。優れたアンサンブル・ピアニストは岩のぼりするクライマーの一歩先を読んで、適切な足場を用意してやるのが得意だ。一見、堂々と自分なりの表現を貫いていながら、さりげなく、そうしたアクションを入れている。これが、本当のアンサンブル・ピアニストというものだと思う。例えば、メナヘム・プレスラーはそういうアーティストの典型である。

小山は、そういうタイプのピアニストではない。彼女がまったく室内楽に不向きなピアニストであるということではなく、正にタイプのちがいである。今回の演奏でよくわかるように、小山のつくるピアノの響きの適度な豪華さ、繊細に調整される打鍵の様々なテクニック、もちろん、相手の音楽を包み込むような懐の深さなど、人気を裏打ちする要素はいくらも見出されるのである。

例えば、いま言った最後の2つの要素でいえば、第2楽章の後半で持ち味がよく出ていた(ロンド形式だが、おわりのほうに差し掛かるまで後述するような特徴は目立たなかった)。ここで小山はクァルテットの響きにしっかり耳を傾けて、ひとつの工夫を投げかけたように思う。葬送行進曲を支える分散的な和音を打つときに、後ろの音に僅かな減衰を与えることで、弾かれた弦が振動し、徐々に減衰していく弦楽器の響きを模倣したのである。これは多分、非常に繊細なペダリングによるテクニックであり、これには私も驚かされた。その振動はクァルテット・・・特にヴィオラの吉田のものにそっくりで、低音が重なりあうとき、2人はまるで姉妹のようだった。

しかし、小山とつくる室内楽はどちらかといえば、オーケストラとの取り組みにちかい。つまり、それは繊細にアンサンブルを1回ごとに塗り替えていくようなタイプのフレキシブルさよりは、まずはめざすべきフォルムを決めておき、それに向かって表現の強さを徐々に高めていくという表現のダイナミズムが先行する。音色は驚くほどに柔らかいが、思ったほどは隙がなく、それ単体で完結した響きの襞にはなかなかとりつく島がない。小山との対話は、それに見合うだけの表現の厚みが勝負である。その点で、エクには若干の課題が残ったという気もする。

例えば、伊藤恵とか、先日、ヘンシェルQの伴奏をした蓼沼恵美子のようなアンサンブルの達人をパートナーとすれば、より繊細な表現も可能だろうし、アンサンブルはつくりやすいはずだ。それにもかかわらず、小山のようなタイプのピアニストを相手に選んでいるところに、今回の演奏会の難しさがあると思う。

【ボロディンという挑戦】

ボロディンという選択肢も、現在のエクにとっては難しいもののひとつである。彼らはここのところ、古典派の曲目を中心にプログラムを組んできた。一方、ボロディンの作品は粘っこく、ややしつこいアンサンブルを気長に奏でていくタイプの音楽である。その点、エクの演奏は今回、フォルムがカッチリしすぎていて、やや素っ気ない感じがする。

冒頭は、第2ヴァイオリンの歌い出しがとにかく丁寧で、その後の展開も優しく、滋味に満ちている。しかし、それがずっと持続しない。一生懸命やってはいるが、若干、煮込み不足な点も随所に窺われる。4つの楽器が本領を発揮する第4楽章はまだ聴けるとしても、特に前半2楽章は若干、彫り込みが浅いようだ。自らチェロを嗜んだというボロディンが、多分、自ら演奏したと思われるチェロ・パートに焦点を絞り、イメージよりもさっぱりした表現を組み立てている点は興味ぶかい。前に出るにしろ、後ろで支えるにしろ、チェロの大友の機微を得た進退は、とても配慮に満ちたもので、作品のイメージさせる風景によく見合っている。しかし、それ以外の3つのパートの押し引きは、いまだ試行錯誤中かと思われる。

特に、この曲で気になったのは、ヴィオラの吉田のパフォーマンスだ。いつもは淡々と、自分の力を信じて穏やかに語る彼女が、いくぶん逡巡した中途半端なパフォーマンスになっている部分が、私には気にかかった。チェロとのグルーピングで動いている場合は、特に問題ない。しかし、独立した声部の表現ではもっと悠々と歌うべきか、それともぐっと引いて響きを溶け込ますかという点で、迷いがあるようにみえたのだ。

西野のリードもこの曲に関しては若干、不安定である。この作品では上のような事情から、第1ヴァイオリンは名目上のリードを務めながら、実は、チェロの後ろに入って歌っているような場面が多い。この微妙な機微に基づく役割を、完全に把握して歌いきれていない部分があった。各々が自分の立ち位置をしっかり確認した上で、全体のフォルムをもっとゆったりと象っていくことが必要ではなかろうか。次の都民芸術フェスでのパフォーマンスに期待したい。

【白眉のリゲティ】

この日の白眉は、なんといってもリゲティだろう。弦楽四重奏曲第1番「夜の変容」。タイトルからもわかるように一種の変奏曲風の作品であるが、その中身はかなり自由奔放である。リゲティの地元、ハンガリーの舞曲に関係しそうな要素と、ジャズ的なイディオムがチャンポンになっていたり、ミニマル的な要素も出てくる。非常にスイートな旋律美が出るかと思えば、のちのリゲティを思わせるような晦渋な部分もある。ハーモニクスや極端な弱音を混ぜて、実体をわからなくするような仕掛けや、グリッサンドなどの特殊奏法・・・。

いわばおもちゃ箱をひっくり返したような多様なフォルムを、エクは的確に捉えてカタチにする。ほぼ1−2世代上の先輩で、境遇が似ているショスタコーヴィチのような厳しさもあるが、その風刺性はリゲティのほうが楽天的であるように思われる。その点はさすがに、後世、歌劇『グラン・マカーブル』を書く作曲家のやることである。なお、この作品はリゲティにとって同邦の先達に当たるバルトークとの関係を指摘されることも多いが(例えば、パーカー四重奏団の演奏ではその傾向がつよい)、エクの演奏はリズムやその伸縮がより知的で、洗練されている分、やはり、バルトークというよりはショスタコーヴィチにちかく、ひとつひとつの素材に対してペダンティックなこだわりがある。

エクの演奏で面白かった部分は例えば、アレグロ・グラッツィオーソとプレストにつづくプレスティッシモの部分だ。ここの部分は、録音で聴くよりもはるかにシンプルな音楽。彼らはテンポをこころなし抑え気味にして声部の役割を見やすくし、弱音と強音のカオスをきれいにマッピングしてみせる。そこには非常に深い官能性があり、バルトーク的な野性味だけでは説明できない鮮やかな構造美があることを示す緻密な演奏だ。そのことから、アンダンテ・トランクィロの雰囲気が導かれるのは、ごく自然なことであるように思われる。ハーモニクスの美しさも指摘しておきたいが、より重要なのは、それが先の弱音の部分と密接に連携して、新しい世界を生み出すキーになっていることだ。

上記の部分のあと、パウゼをおいて諧謔的なテンポ・ディ・ワルツが出る場面などは、確かにショスタコーヴィチの音楽に近しい。ただ、そのサウンドは前述のように、舞踊的な要素とジャズ的なもののチャンポンになっている。このシーケンスで印象に残りやすいダウン・グリッサンドの鮮やかな表情や、チェロとヴィオラのグルーピングによる低音の涼やかな表情も特徴的だった。

最後のシーケンスは、幅の小さいグリッサンドを使ったモダーニズム的な書法が目立つが、こういうのを粘りづよくやらせれば、エクほど力を発揮するアンサンブルもないものだ。そのアクションから慎重に離れ、各々のパートがモティーフを歌うときの明確なイメージと、その緊張感は、いちばん最後、不思議なプレスティッシモによる終結を迎えるには相応しい。

この作品は録音も多いわけではなく、どういう演奏が優れたものなのか、よく考える必要がある。今回のエクの演奏は、先のパーカーQと比べればかなり理知的であるものの、アルディッティQのものと比べれば、より直感的なセンスを感じさせる。勢いや全体の構成観というものはやや弱いが、適度に理知的で、まだ30代と若い時代のリゲティのエネルギーを受け止めるのに相応しい、表現のエネルギッシュさも存分にアピールしている。

【まずまずのシューマン】

シューマンの演奏は既述のとおりだが、もうすこし細部について書き残しておきたい。まず、第1楽章はピアノの柔らかく、しかし、厚みのある響きと、エクの繊細な筆致がいまひとつ噛み合っていない。その理由については既に触れたが、若干、ピアノのリズムが自由でありすぎる点と、音色の持ち込みが深く、引っ掛かりのつきにくい演奏になっていることも原因である。

両者の演奏は、最初のほうで述べた第2楽章の後半からコミュニケーションが深まっていく。その第2楽章は膨らみのあるフォルムをめざして、レガート気味というか、丸みを帯びたフォルムが特徴的である。スケルッツォはピアノの音階がなだらかで美しいが、実質的にはトリオを重視した演奏で、その華やかなイメージは際立っている。小山の鋭い追い立てが効いて、特に第2トリオの響きは開放的で、逞しさがあった。

ピアノとのコミュニケーションや、音色の深みや柔らかさということでは、この前のヘンシェルQ&蓼沼恵美子の演奏にはかなわない。一方、小山の個人的なテクニックによるいくつかのディスカヴァリーや、それに適応するクァルテットの機敏な表現性ということでいえば、この日の演奏も決してヒケをとらないものである。最後の締めに来る、ポリフォニックな構造からの展開がやや潰れたのは残念であるが、全体的にまずまずの出来である。

【隠れたテーマは繰り返し?】

今回の演奏会は、もう完全に手のうちに入ったものではなく、すこし背伸びしてでも手に入れたいものをプレゼンテーションした感じだ。ことし一年間、こんな姿勢でやっていくのかなと思うと、弾くごとに成長するエクの歩みを追っていくことが、また楽しみに思えてくる。その意味では、楽しい演奏会であったとしておきたい。

なお、今回の演奏会で隠れていたテーマは、繰り返しだ。リゲティにおいてミニマル的な要素が出ていることは若干、触れたつもりだが、ボロディンでは、それはいかにもロシア的なオスティナート的な外形として張り出す。また、シューマンでは同じような要素が、ソナタ形式やロンド・ソナタ形式による葬送行進曲といったごく伝統的な形式に則って表れている。このあたりを俯瞰的に見なおし、音楽にとってしばしば重要なこの要素を弾き比べ、再点検する試みであったと思われる。

【プログラム】 2011年1月29日

1、ボロディン 弦楽四重奏曲第2番
2、リゲティ 弦楽四重奏曲第1番「夜の変容」
3、シューマン ピアノ五重奏曲
 (pf:小山 実稚恵)

 於:第一生命ホール

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