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2011年1月22日 (土)

真の個性派指揮者 ヘルベルト・ケーゲルの世界 ①

【頂上を極めたものだけが挑戦できる】

クラシック音楽において個性的な表現者であること、そうあろうとすることは重要なことだ。ただ、人間が単に個性的であることと比べて、クラシック音楽のような伝統芸術において個性的であることは、根本的に意味あいが異なることは、あまり意識されているとは言いがたいのではなかろうか。この分野で真に個性的なアーティストとは、亡くなったフリードリヒ・グルダのように、伝統技法の頂点を極めた人だけが目指すことのできる境地である。それ以外は無価値であるとは言わないが、大胆すぎる挑戦であることは間違いない。クラシックの音楽家は個性的である前に、その道を完全に辿りきることなしに、なにかを成し遂げたと思うべきではないのだ。

ジャズ奏者の場合は、もっと自由である。伝統芸術的な面もなくはないが、そのための決まりは最小限で、結局、自分らしいなにかを付け足していく「足し算」の音楽だからだ。ところが、クラシック音楽の本質は、自分を消すことにある。足し算も必要だが、生半可な知識で足していけば、むしろ、なにもしないほうがマシということにもなりかねない。コンピュータ・プログラムのようなものである。クラシック音楽の分野でなにかを足すことは、とても慎重で、周到な配慮のうえになされるべきなのであり、それが直感的にできてしまうアーティストとは、実は、我々が直感的と思うぐらいの僅かな時間のなかで、我々の想像もつかないほど複雑な計算をこなしている将棋のプロ棋士のようなものだといえる。

個性的であれ・・・などと「いってみる」のは簡単だが、実際、個性的であること・・・しかも、そのうえで、伝統的な方法にも見合っている上質な表現をつくることは、究極的に困難なことである。それが数百年という演奏伝統のなかに位置づけられているとすればなおさらのことであるし、ピリオド研究が重視されるようになった今日の楽壇では、いっそう手がなくなってしまう。そのなかで従来、誰もやっていなかった表現を探すことなど、そうそうでき得ることなのであろうか。我々は自分たちができそうもないことを、他人にあまりにも厳しく求めすぎではなかろうか。結果として、真摯に音楽伝統の筋道を追いかける音楽家を嘲笑し、似非個性主義者が、その道筋を切り捨てることを容認しがちなのは看過し得ない傾向だ。

例えばグルダはウィーン的な伝統演奏を極め、なにをしてもいいか、なにをしてはならないかを知り尽くしていて、なおかつ、もう、それでは自分のもっているものを十二分にぶつけきれないと判断したから、ジャズの世界に移っていったのだ。これは正しい態度である。また、音楽家の自己表現には、いろいろな形があるべきだということには議論の余地もない。例えば、ファジル・サイは自分にぴったりあった音楽が少ないと判断するや、自ら作曲して演奏するという選択肢を選んだ。この方針は、クライスラーやブゾーニといった伝説的な音楽家の進んだ道と同じだろう。また、宮本文昭は現役時代、様々なコラボによって、自分のもっているスキルをもっと輝かせられるのではないかと考えていた。徹底的にクラシックとジャズの融合に挑んだハネケンさんだって、いまでは高く評価されている。

一方、あくまでクラシックの道を守るなかで、徹底的に個性的であることを選ぶ人たちもいるだろう。私は、このタイプの音楽家を適切に見分けたいのだ。そして、ヘルベルト・ケーゲルに関しては、数少ない個性的な指揮者のひとりだ・・・というより、その典型である。若くして死んだギド・カンテッリや、オペラにおけるトゥーリオ・セラフィンと同じように、彼は個性的だった。ケーゲルの録音はどれも、個性がつよい。ヤナーチェクの『シンフォニエッタ』の演奏がわりに当たり前に思えるほど、彼はいつも、なにかを問いかけながら音楽をつくっていた。

【幻想交響曲の鐘に秘められたメッセージ】

とりわけ有名なのは、『幻想交響曲』終楽章の鐘の音だろう。この鐘は指揮者によっていろいろな工夫がみられ、繊細に溶け込ませようと苦労する指揮者。いっそのことぶっ叩いて存在感を表した指揮者。自分の故郷の鐘の音に、なるべく近づけて叩かせようとしたかのようなもの。どこかの著名な教会の実際の鐘の音を、現代のテクノロジーを使って組み入れた録音など、様々である。ところが、このケーゲルの入れたような鐘の音は、彼以外の誰にも思いつかないものだった。聴けばわかるが、とにかくわれらが日本の寺院にあるような重い吊り鐘の、低くて重たい音なのである。

最初は、確かにずっこけるだろう。面食らってしまう。しかし、そこで思考停止してはならない。彼がどうして、こんな鐘の音を選んだのかについて、よくよく考えながら聴いていると、この作品そのものを考える良い機会になるのではなかろうか。例えば、私はこれまで、このサバトの音楽があまりにも明るすぎると思っていた。ベルリオーズはこの作品を失恋のあと、自殺を思い止まってクスリを吸いながら作曲したなどとも言われているし、それなら、あの躁的な明るさも仕方ないと思えば思えないこともない。ベルリオーズが人生へのつよい風刺や自虐心を込めて、アイロニカルにサバトを描いたからだとしても説明はつきそうだ。

とはいえ、どこか物足りないのである。風刺とは、そんなに生やさしいものであろうか。リゴレットの例を持ち出すまでもなく、風刺とは命がけなのである。そのことで得られる名声などはなく、むしろ、恨まれて復讐されるのがオチなのだ。チャップリンが天寿を全うしたなんて、奇跡みたいなことではなかろうか。サバトを明るく描くくらいは、何の風刺にもなっていない。むしろ、魔女たちの饗宴であるはずのサバトが、なんと地獄の猛火に包まれているというほうが、我々の背筋を確実に寒からしめるように思われないだろうか。

正に、ケーゲルの『幻想』はそこに狙いがあった。あの鐘は、もはや生きながら地獄に堕ちつつあったベルリオーズのこころに響いていた、苦しみの象徴なのである。シャルル・ミュンシュではある種の救済を予言する浄化された響きであるものが、ケーゲルでは徹底して呪われている。私はこの演奏を聴いて、直ちに同じ作曲家による劇的物語『ファウストの劫罰』を思い浮かべた。片やシェークスピア、片やゲーテという出典のちがいこそあれ、『幻想』の主人公もメフィストーフェレスに相当する魔性の持ち主だ。いわば、そのような魔性こそが、ベルリオーズのひとつの武器となるものである。徹底して人間的な・・・つまりは形而上的なベートーベンに対して、サターン的なベルリオーズの提起もまた鋭い。

【こころに寄り添って】

ケーゲルの表現は、いつも核心を突いている。私はずっと以前から、この指揮者によるドヴォルザークの交響曲第9番の録音を所有していたが、その演奏はとるに足らないものと思いなしてきた。ところが最近、録音の整理をしているときに気紛れでかけてみたところ、モノラルの「新世界」はともかくとしても、カップリングのヤナーチェクの素晴らしさには驚いてしまった。チェコ以外の指揮者で、これほど見事なまでにヤナーチェクの音楽世界を捉えた録音は、故マッケラス卿をおいて他にはいない。かつては歯牙にもかけなかった録音が、エリシュカという体験を経たせいか、いま、大胆に浮かび上がってくる。

ケーゲルの演奏するヤナーチェクには、他の国の指揮者たちがなかなか理解できないチェコ的な・・・というよりはモラヴィア的な野の響きが溶け込んでおり、例えば、歌劇『利口な女狐の物語』の象徴されるような、狐でなければ知ることができない土の感覚や、風の匂い、独特の自然のリズムが、この録音では見事に捉えられているのだ。それはエリシュカやバカラのように、ヤナーチェクにごく近しい音楽家や、マッケラスのような特別な天才だけが成し遂げられた仕事に匹敵するほどだ。

白眉と思われるのは第3楽章であるが、もっとも印象的なのは第2楽章の演奏である。まず、冒頭は正に女狐の駆ける状景を思わせる。音色が抜群に素晴らしいのと、特殊なリズムの処理も非常に切れ味がよく、躍動感に満ちている。若干、前のめりになるいつもの癖は、しかし、この曲ではぴったりと嵌っている感じがする。ときどきチャーミングに挿まれるルバートや、表情づけの柔らかさも素晴らしい。いかにもヤナーチェクらしい歌いまわしの徹底という点では、この楽章がまずあたまに残る。

その雰囲気を十分に呼吸した第3楽章は、響きのまとまりは終楽章とともに傑出している。ただし、その分だけ響きがやや強くなり、例えばエリシュカの演奏と比べると、同じような呼吸でも、巨人の呼吸を思わせるところがある。つまり、オーヴァー・スペックな部分があり、起伏に富んでいるわけだが、それらがやや尖鋭にすぎることで、エリシュカの録音に聴かれるような一種の寛いだ雰囲気が失われている。端的に演奏時間をみても、エリシュカ&札響盤よりも1分ちかくも速い。とはいっても、フォルムの美しさはなかなか見ものであり、動的な部分の響きの膨らませ方は理に適っていて、はっとさせるものもある。

終楽章も、第2楽章と同じように冒頭の音色が、まず聴くものをハッとさせる。そして、活きた蛇のように自由自在に動きまわるストリングスの魔性。一本一本の管楽器がモラヴィアの鳥となって、声を上げる経過句の面白さ。それらがとまっている大木が、弦の響きによって出現し、きれいに整列した鳥たちが相変わらず自由に鳴き交わす。それらの雰囲気が金管のファンファーレとともに、一気に解放される最後の部分に到達するまで一息だ。まだ遠くから響くファンファーレの下で、整然と響く吹雪のような弦のサウンドは、圧倒的に美しい。それをスプリング・ボードに管の響きが次々に花開き、サウンドは美しさの極致に達するときの風景の凄まじさ!

上に述べたような欠点・・・というか、異同は残るものの、これもサターン的なヤナーチェクの彼岸的演奏とみれば、是非、こころに留めておきたい演奏である。

ところで、この録音の素晴らしさは、徹底してヤナーチェクのこころに寄り添っているということだ。これは、先のベルリオーズの例にも共通する。しかし、多くの人たちが知るように、誰か他人のこころに寄り添うということは本当に難しく、大変なことである。よく知っている家族や友人でさえ(だからこそ?)そうなのに、生まれ育った場所も異なり、いちども会ったことさえない他人の、しかも、ヤナーチェクのような奇人変人のこころに寄り添うなんてことは、バカラのような信頼に足る直弟子でさえも簡単なことではない。それなのに、ケーゲルは見事にその祖型まで辿ってみせるのだ。多分、ヒントとなったのはスコアだけである。

しかし、そのこころにまったく染まってしまうわけでもなく、50mプールを往復してから再度、ターンをして、彼はもういちど新しい表現を組み立てていく。これこそが、ケーゲルのケーゲルたるゆえんであろう。それゆえ、ケーゲルとエリシュカでは当然のように異同する部分もみられるわけであるが、私は、ケーゲルにはそうして大胆に挑戦する資格があるのだと思う。ウィーン・ピアニズムにおけるグルダと同じように、彼はその道を極め尽くした上で、自分らしい表現を付け加えようとしているからだ。はっきり言うが、これは好き嫌いの問題ではない。

(②の記事につづく)

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B級指揮者列伝」カテゴリの記事

コメント

あのカネ、音程が外れてる。ちょっとびっくりしたけど、いいねえ。

外れてるのを承知でやっていますね。

ケーゲル、個性的なのはいっぱいあるけど、音楽の捧げもの。合唱を入れるわブラスを入れるわプリペイドピアノみたいな変なピアノ使うわで、おもろいで。なれたら、これしかないゆう気になるわ。

おもろいというと、マルケヴィッチのもやなあ。この曲、調性がゆらいでてな、ちょこちょこっと復調がでてくるんや。そやけど、レオンハルトとかミュンヒンガーとか鈴木はんとかリヒタ―とかリステンパルトとか、みんなみんな聞こえへんようにやるんや。間違いの音やって解釈してるんやろう。そやけどマルケヴィッチだけは、素知らぬ顔でガンと鳴らすんや。ホンマ、べっくらしたで。(そやけどどっちが正しいかゆうと~うーん。やっぱりマルケヴィッチとちゃうか。)

あれから復調が聞こえんとよう満足でけへんようになったわ。


どの芸術もクラシック音楽も同じなのですが、「個性」「誰もやっていないことを自分がやる」という形で発展してきたのです。ことに、近代はそれが激烈に追及された時代でした。その結果、楽音は放棄され、はては4分33秒とか0分00秒とかの、音楽どころか音の死にまで至ってしまいます。

演奏は全く逆で、作曲家の意図通り、正統派が幅を利かせている。正統派ばかりだと、早晩オーバーフローすると思います。いえ如何に有名だろうとある曲を一度聴いたら数年は聞かないという時代なら全く問題ないのですが、このような情報化時代にはむりです。実際に、ベートーベンを聞いて、バレンボイムとムーティとアバドとマゼールとショルティとハイティンクの差はわかりますか?大同小異ではないでしょうか。

つまり正統派は一種類あればいいのです。(私的にはベートーベンはイッセルシュテットがいいと思いますが。)ただし、その1種類だけでは供給力が余ってしまい、業界は崩壊するでしょう。それゆえ、私は異端派、つまりその曲の誰も発見していない新たな魅力を引き出した演奏こそを高く評価したいと思うのです。その意味で、ケーゲルやテンシュテットこそ高く評価したいと思います。

ご高説、拝見いたしました。僕の意見は、若干、ちがうように思いますが、結論は似たり寄ったりでありましょう。当方の意見の中心には、分厚い正統の保持こそが、真に個性的なものを生むという発想があります。では、正統派ばかりのこの時代が、なぜ、かくも面白くないのか。それは、商業的な構図が関係すると思っています。

だって、セルジュ・チェリビダッケが客演のオーケストラで、たった2、3日の形ばかりのリハーサルで、パッと結果を出して、英雄になれるとは思いませんね。昔は、それでもまだどうにかなるリソースがあったけど、いまはカツカツで可能性が伸びきっています。かといって、楽団を率いれば、それだけ雑務が多い時代ですからね。いまの労働問題と同じで、無駄が排され、楽団の運営に余裕がなくなった結果、均一的なものしか作れないというのが現状の問題点ではないかと思います。

クラシック音楽はいつからでしょうか、過去の偉大な遺産を保ちながらも状況との関わりを失って「古典芸能」になったんですよ。意味や語法や規範はすでに確立されている。自閉的な空間の中で、残るはここの演奏者の差異だけ、本質はどれをっても変わりません。歌舞伎とか京劇と同じです。いつからそうなったんでしょう。戦前は、ドイツ精神主義の支柱でしたし、ベートーベンで状況に切り結ぼうという精神もあった。戦後も直ぐは、作曲にしても演奏にしても新進気鋭の流れが出てきたのです。しかしもう70年代には、カラヤンなど過ぎ去った語法だけに依拠する後ろ向きなどと評されるようになってしまいました。(もう一方の帝王のマイルスは音楽で状況に切り結んでいたでしょう。)精神性からの切り離しと相まっての古典芸能化と消費財化は2000年代には完了することでしょう。

ジャズの場合も実は似ています。それが今の音楽だったのは、せいぜい1975年まで。クラシックとの違いはマイルスの引退とともにジャズ界自体がほとんど壊滅してしまったということです。それゆえ、ジャズの場合は、それがまだ現在の音として生々しく生きていた時代の記憶が近しいわけです。

ジャズの場合も、クラシックの場合も、今は遺産をどれぐらい細かく上手にやるかという「マニエリスム」の状況にあると思います。ジャズ界のリーダーというと、ウィントンマルサーリス、恐ろしく上手でアイデアに見てはいるのですが、村上春樹氏などお勉強風で飼いならされているなどと悪口を言います。でもまあ仕方ありませんね。すでに過去となったラグからマイルスまで語法をとりだしてきて、それを再生させようというのですから。なお、この人はクラシックの方もとびきりの名手でして、盤も15枚くらいは作っています。ジャズはアメリカのクラシック音楽であるというのが彼の主張であり、リンカーンセンターの所長やってます。(配下にメト・フィルハーモニー・バレエ・ジュリアード・ジャズワークショップを持っています)

東の音楽家は、西ほど歴史が進まず、古典芸能化は少し遅れるでしょうね。ケーゲルも彼なりの仕方で状況と切り結んでいたように思います。

私は常々、標準的な演奏の盤は一つあればいい、個性的な演奏が聴きたいと思っています。

クラシックファンがよくやる、誰それも正統的に演奏できると確認して満足するという聴き方では、誰それは正統との差異を図られているわけです。しかも出来るだけ差異を少なくすることが求められている。でも、それなら盤をとっかえひっかえ聞く必要はありません。「大正統」演奏を聴くだけでいいのです。そしてベートーベンとかマーラーの大名曲ばかり聞くのではなく、レパートリーを広げる方がよほどいい(ベルワールドとか初期シューベルトとか、あるいはブリちゃんとか椎名林檎とかすごい音楽をやってますよ。ビヨンセもそうみたいです。)

もちろん、個性的と恣意的は違います。個性的とは審美的にいって「決まっている」必要があります。そして理想的に言えば、その楽譜からいままで誰も引き出せなかったある一面を、くっきり引き出せているということなのです。

私の考える理想的な個性的な演奏というと、例えばマルケヴィッチの音楽の捧げものです。

さて、バッハのこの曲はいくつか調性が危うい音を含んでいます。(正確に言うともっとも目につくそれはバッハが書いたのではなく、楽譜には未解決の問いとしてポンと置かれているだけ。解決は奏者または楽譜作者に任されているわけですが、狂った音がどうしても入らざるを得ないんです。相手がバッハですから、知らなかったと考えることはできません。彼は不完全な人間の演奏では狂わざるを得ないが、神が演奏すれば狂わないと考えていたのかもしれませんがね。もちろんもっと目立たないですが、書かれた部分にもいくつかあります。)

マルケビッチの盤は1953年の録音だったと思いますが、知る限りそれ以降の演奏では狂った音は聞こえないようにかすかに演奏するのです。こんどマルケヴィッチ盤を聞きまして堂々と狂った音が鳴っていて仰天しました。バッハが現代音楽に化けたと。はじめは作曲家としても名高いマルケヴィッチが音を変えたと思ったんですが、よく調べるとその音はきちんと存在するんですね。バッハのイメージが完全に変わった一瞬でした。

思えば、バロック時代にも、バッハほど極端でありませんが、狂った音は使われました。Dスカルラティ、ヴィバルディ、ゼレンカ。バッハ自身だって幾つも書いています(4つのデュエットとかね。マタイのクライマックスの一つ「バラバ」の音も相当狂ってますよね。)大体に、シェーンベルクが、バッハこそ無調音楽の祖であるとなどと述べているぐらいなのです。音楽の捧げものを、管弦楽組曲とか平均率とかみたいな(或いは四季とかメサイアとかみたいな)調的に完全に合った音楽の系譜として提示する、それもアリだとは思います。しかし、それは譜面にきちんとあるんですから、マルケヴィッチのようにきちんと鳴らすのもまた一つの解釈なわけです。


マルケヴィッチの演奏には、こういった意味で個性的なものは沢山あります。外、ジンマンのハイドンみたいなベートーベンもそうでしょうね。もちろんフルトヴェングラーのもそうです。正統なベートーベンなどイッセルシュテットのが一組あればもう十二分、そう思っています。

ケーゲルには、特にライブなど決まってい不自然な表情も散見されますが、最上のものは確かにりっぱに個性的な演奏といえるでしょう。

失礼ですが、何のためにコメントなさっているか、よくわかりません。

個性的なものが聴きたいというのは誰しも共通の願望でしょうが、では、その個性的なものがどういったところから(どのような条件で)生まれるのかを、私は問題にしたいですね。精神と切り結ぶとかいう精神論じゃなくて、もっと具体的なコトです。

私の考える究極的な条件は、①必要なら、好きなだけ準備して、自由に公演できること。②演奏者及び聴衆の両方が「正統」なものを見抜くことができる価値観を共有していること。以上の2つです。こうしたものは到底、望み得ないため、それに近づける何らかの工夫が必要となります。

古典芸能になってしまうというような議論は、僕にはどうでもいいコトです。それは真実かも知りませんが、なってしまうなら仕方がないという話にすぎません。僕はそうならないために、たとえそうなる運命だとしても、どのようにあがくことができるかという議論を好みます。私の場合は、聴衆の側から何かできることがあれば、些細なことでもしておきたいと思っていて、それがこのブログとして形になっているものです。

>失礼ですが、何のためにコメントなさっているか、よくわかりません。
>失礼ですが、何のためにコメントなさっているか、よくわかりません。

失礼、頭の中で広がったことを書いてしまいました。

>①必要なら、好きなだけ準備して、自由に公演できること。②演奏者及び聴衆の両方が
「正統」なものを見抜くことができる価値観を共有していること。

前者について言えば、極端な例ですがムラヴィンスキーは弦チェレの初演でリハーサル30日、
メンゲルベルクもたしか2週間はとっていたはずです。チェリもマルケヴィッチも6日、こういうのは
もう無理でしょうね。

当地のオケは定期で2日名曲シリーズで1日、年末の第九(定期でない方)は0日でミスば
かり。これでは当たり前の演奏しかできません。

後者については意見は違います。時代や自他の芸術分野の状況と切り離された、
「正統性を共有しなければならない」という思想自体が、古典芸能化の特徴であるからで
す。時代や状況は刻刻と変わるのに「正統性」の方は変わらない。

別に楽譜通り、作曲家の意図どおり、楽譜を改変しても、確立された正統どおりやらなく
ても、人が死ぬわけじゃない。聴衆の期待にこたえなくてもいいんです。そういうのを金科玉
条にする必然性はありません。もちろんそれを尊重するのもありです。どちらがいいかという
のは、すべて提出物の品質によります。やり方じゃない。

いまメンゲルベルクはバカにされているのですが、オランダではいまだにレンブラントと並ぶ文
化的英雄と評されているようです。ああいうのもアリなんですよ。フルトヴェングラーやテンシ
ュテットのようにセロニアスモンクのように、合わないことが逆に素晴らしい効果を生むことだ
ってあります。(モンクとじゃ合わないという水準は全然違いますけど)

極端に言えばクラシックのコンサートに軍隊やロックバンドを呼んできてもいいんです(いくつか
そういう曲あるでしょ、バーンスタインとかシュトックハウゼンとか)。バッハをロックオルガンでやっ
てもいいんです(ウッドストックでやったでしょ)ジャズのバッハは腐るほどある。

何がいいかというのには、基準はないんです。(あってはならない)。どの芸術も、そうやって過
去を乗り越えることで発展してきました。時には天才的個性が単独でおこない、時には時代
にインスパイアされることによって。

ケーゲルもこういった意味で真に個性的な演奏家だと思います。時々、決まっていない演
奏をしてしまいますケドネ。普通の正統的演奏は「悪くない」けど、そういうのばかり聞かさ
れるのはうんざり。

貴兄とボクの考え方のちがいには、経験の差も大きいと思います。ボクの経験のなかでは、まだ録音に残っているような正統な演奏を、実際のホールではまだ耳にしたコトがないという渇望があり、個性的な演奏も結構だが、とりあえず、その前にもっとゆたかな伝統を知りたいという強い欲求があります。

このような欲求は、私に限らず、比較的、若い世代には当たり前の欲求だと思います。

時代や状況は刻刻と変わるのに「正統性」の方は変わらない・・・これは、非常に理想的なことだと思います。ボクはこの「正統性」というコトバの代わりに、「真実」というコトバを好みますけど。芸術の歴史とは、絶対に見つからない、その真実をめざす全人類的な旅であり、これからも、そうでありつづけると信じます。で、あとは、本文で書いたことにループしていきます。

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