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2011年2月27日 (日)

コンヴィチュニー演出 リヒャルト・シュトラウス サロメ 二期会オペラ公演 Bキャスト 2/26 ②

コンヴィチュニーの演出は、本当に細かく奥行きがある。表現の方向性(ベクトル)も豊富であり、どのような点に注目するかで、作品に対する見方は七転するだろう。その意味で、私は「あまり細かくみるべきではない」ということで、お茶を濁す手も考えたものだ。しかし、それではあまりに勿体ない要素が多すぎるので、いくつか印象に残った部分だけを取り上げておこう。

【ナラボートの『愛の死』について】

まず、前の記事に書いたことと同列に印象的であったのは、ナラボートの死である。サロメにこころを寄せていながら、その想いをぶつけることはなく、彼女のヨカナーンに対する執着に傷つけられて自ら命を絶つオトコ。なぜ、そうなったのか、多くの演出ではよくわからないことのほうが多いのである。そうであっても、なんとなくサロメに邪険にされて、悔しくて死んだのだろうということは想像できないこともない。しかし、今回はハッキリと、その死がイゾルデ的な「愛の死」であることが明快であったと思う。

そのあと、ケツ出しの死体を人々が愛で、味わう場面が批判の的になっているが、どこでともなく死んで、これみよがしに運び出されるだけの演出よりはずっとインパクトがある。なにより、この演出によって、彼の死はまったくもって無駄ではなくなる。このイニシエーションは、演出のなかで何度か繰り返される。最初は井戸をあけて(白い覆面をとって)ヨカナーンを見たときに「悶絶死」した(小姓が刺しているのだが、それよりも先に死が来ているように見えた)サロメをめぐってのものであり、これも一種の「愛の死」だとわかる。もちろん、その「愛の死」はワーグナーのパロディであり、そのものではないのだ。キッチュな「愛の死」である。コンヴィチュニーはこのような種類の「愛の死」は、何度でも起こり得ると主張しているのだ。

ナラボートのイニシエーションがおわると、渦巻くような音楽に吹き飛ばされて、サロメたち3人が閉じる紗幕のこちら側(向こうからみればあちら側)に排出され、再び幕が開くと、正式に「愛の死」が宣告される。この流れによって、ナラボートの死の突発性は薄められ、そこにドラマのなかでの必然性が浮かび上がってくる。そして、その死は重くのしかかって作品の後半にドラマを導く役割をする。かわって、サロメの愛を追ってヘロデ王が進み出てくるといった塩梅である。

【歌に生き、恋に生き・・・】

さて、いきなり『トスカ』の歌詞を見出しに思ってきたが、今回の演出でもっとも奇妙なことのひとつは、生死に境がなく、ボーダーレスなことである。先程もすこし述べたように、サロメは井戸のなかを覗いてヨカナーンを初めてみたときに、既にいちど殺される。だが、その後のサロメはみるみる元気になる。またフィナーレでは死んだはずのヨカナーンが、あれほどまでに貶していたサロメと和解し、恋人どうしのように振る舞う。特に後者の演出は、非常に評判が悪いようである。

しかし、これらに対する答えは意外に簡単である。それは、この劇における生と死は、全て愛の問題として浮かび上がるからである。先のナラボートの死も、ヨカナーンの死も、そして、サロメの処刑も、ヘロデ王の精神的な「死」も、すべては愛に基づくものだ。この劇においては、人間の生き死にという問題は、愛の生き死にをみることによって完璧に語ることができる。また、そのことによって、ヘロディアスがなぜ、あれほど大胆に振る舞えるのかについてさえ語ることができるのだ(後述)。

サロメの強さは、この「死」を体験したことによって圧倒的に高められる。また、彼女の魔力は、その肉体を食した人々に直接的に伝播し、それがサロメのパワーの源ともなっていく。いわば「聖体拝領」のようなものである。ナラボートはその死を乗り越えられないため、「愛の死」によって退場せざるを得ない。ヨカナーンは肉体の死に遅れて、「愛の死」を体験する・・・コンヴィチュニーはそのように考えたわけだ。だからこそ、肉体は死んでもヨカナーンは起き上がることができるというのも無理ではない。

それらの「愛の死」は、すべて音楽のなかで説明可能である。今回、その点を詳述することは割愛するが、これらの死は『トスカ』の「歌に生き、恋に生き・・・」を体現しており、愛、そして、それをことほぐ歌と直結しているようである。また、こうした「愛の死」の連鎖のなかにのみ、コンヴィチュニーはこの劇における人間たちの関係をみているということでもあろう。

【悪びれないヘロディアス】

ヘロディアスとて、例外ではない。確かにヘロディアスは聖女ではないものの、彼女の罪といえば、異母弟と結婚し、近親相姦を辞さなかったことにすぎない。これは宗教的には大問題であるとしても、人を愛するという観点でみれば、さほど異常とも思えないのではなかろうか。浜崎あゆみは別れには必ずワケがあるが、出会いにはワケはないと歌っているが(歌詞では順番が反対)、それなら、相手が兄弟姉妹であったとしても、その愛情を咎めることができるのであろうか?

ヘロディアスが悪びれないのは、彼女の行動がすべて愛によって左右されているからだ。その欲望自体がヨカナーンから批判されているわけであるが、人間のもつ欲望を自然的なものと考える立場からみたときに、ヘロディアスは果たして「有罪」なのであろうか。コンヴィチュニーは、ヘロディアスをさして悪女としては描いていない。いささか常軌を逸した愛欲の持ち主であるとはいえ、彼女は上記のような観点から、決して悪女ではないからだ。

コンヴィチュニーのヘロディアスは、自らの「罪」を完全に乗り越えて、超越的だ。超越的に、淫乱なのである。コンヴィチュニーにしてみれば、彼女は現代社会のなかではどこにでもいる、当たり前の「淑女」であるのかもしれない。実際、紳士淑女の性生活は、欧州では必ずしもジェントルではないことが公然と明らかになっている。ハイヒール型の国の首相はセクハラで何度も訴えられ、裕福な島国の皇太子は不倫に奔って、王子たちから母親を奪った。人々を正しく導くはずの教会の牧師たちでさえ、淫らな少年愛に耽るという社会なのである。

ヘロディアスはサロメと同じくらい、正直なオンナだ。彼女はもう、愛のなかでしか生きることができないようである。サロメ、ヨカナーン、ヘロデ、ヘロディアス、ナラボート・・・みんなが別々の愛の形を示している。コンヴィチュニーは、それらにランクをつけない。

【ヘロデの幼児性】

このこととも関係するのだが、今回の演出で悪人は登場しない。愛に狂う気紛れな権力者、ヘロデでさえ、絵に描いたような悪人ではないようだ。コンヴィチュニーは彼のことを、「ガキ」として扱っている。坊っちゃん風の衣裳、月に擬せられた風船(母親的なヘロディアスがその紐を握る)、ヘッドフォンでノリノリの無邪気さ。お付きのオトコたちはハード・ボイルドな出で立ちにもかかわらず、屈強のボディガードというよりは、お守りの人たちという感じがする。

ヨカナーンを殺したり、ユダヤ人たちに渡すことを怖がるのも、子どもたちが意味もなく幽霊を怖がるのと同じ論理である。このヘロデ像は、私にとって非常に示唆的だった。このイメージでいけば、サロメの踊りのあと、たくさんの宝石や珍品を持ち出してサロメを説得しようとするのも、自分しか持っていない玩具を見せびらかす子どもの姿だと思えば、上手に解釈できる。サロメが、そんなヘロデを子ども扱いするのも道理であろう。ここにおいて、ヘロディアスは二重の母親となるのである。

このようなヘロデが、サロメ殺害の指示など出せるはずもない。彼は「母親」ヘロディアスとともに、ずっと向こうの席に着いているだけだ。彼に代わって、年配の「聴衆」が指示を下す。その前に、サロメとヨカナーンが幕を引き、「子どもの時間はおわり!」と言わんばかりに動くのはアイロニカルである。そこで展開される大人の情事に、ヘロデは加わることができないのだ。

この解釈はデフォルメ的だが、常軌を逸した発想とまでは言えないだろう。

通常のように、エロい権力者の象徴としてヘロデを描いてみても、それこそ、いま、話題のイスラム圏における独裁問題を考えることぐらいにしかならない。然るに、この異化を通して、私たちはサロメの行動をポリティクス(政治)とは切り離して、より人間的な問題として考えることができるようになるわけである。それは作曲者の意図に見合っていると思うし、コンヴィチュニーがなによりも、人間を描く演出家であるということの美点を、凝縮したような思いきった「読み替え」となる。

【預言者も同じテーブルに】

また、コンヴィチュニーにとっては「預言者」とても、さして特別というわけではないようだ。象徴的なことに、あの長いテーブルを囲んで、ヨカナーンもほかの人たちと一緒に席に着いている。我々(欧米人も含めて)にとって、もはやヨカナーンを宗教的な観点で眺めることほど無意味なことはない。それに加えて、リヒャルト・シュトラウスだって、なにも宗教論争がしたかったために、ヨカナーンを井戸のなかに放り込んだわけではないのだろう。

この演出では、ヨカナーンは「聖人」という特殊性を一部剥奪されることで、より存在感を増したといえるだろう。例えば、彼の演説は白けた結婚式の家族たち(前回記事を参照)にはとっては、失笑の対象でしかない。ヨカナーンは低能な人が飲み屋で強いられて、つまらぬ台詞を言わされることで酒の肴にされるように、聖なる預言や批判を口にするほかなかった。いわば、コンヴィチュニーはヨカナーンのことを『マイスタージンガー』のベックメッサーのように扱ったのだ。

これは、非常に鋭い「読み替え」である。この工夫によって、私たちはどれほど多くのものを得ただろう。しかし、大事なものは損なっていない。例えば、サロメとのコミュニケーションでは、ヨカナーンが聖書以来の古い表現で語るのに対して、サロメは美しい詩的な、新しい表現でヨカナーンに迫っていく。この重要なモティーフだけは、絶対に風刺にかけることはない。その繊細なアーティキュレーションに注目すべきであろう。

以上のようなヨカナーン像を突き詰めていけば、シュトラウスの意図を歪曲するどころか、かえってくっきりと、その表現のエッセンスに触れることができる。ヨカナーンの台詞の真実と、そうではない部分の差は、こうすることで明らかなのである。結局、シュトラウスも、サロメの届かぬ愛がこの聖人の前でさえ、いかに清潔に輝くかを表現したかったはずだ。そして、その対立が言葉と音楽のうえで、見事に浮かび上がっている。この点において、指揮者・ショルテスの共謀も重要であろう。

(③につづく)

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