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2011年2月26日 (土)

コンヴィチュニー演出 リヒャルト・シュトラウス サロメ 二期会オペラ公演 Bキャスト 2/26 ①

二期会が、アムステルダム、イェーテボリなどの劇場との共同製作でプレミエを出した『サロメ』の公演を拝見した。同じプロダクションでもコピーを嫌う演出のペーター・コンヴィチュニーは自ら来日、この日のカーテン・コールにこそ現れなかったが、精力的な指導をおこなって、23日の終演後にはアフター・トーク・イベントにも応じたという。二期会はこれまでにも、モーツァルト『ティート帝の慈悲』、チャイコフスキー『エフゲーニ・オネーギン』でコンヴィチュニーを演出に起用してきたが、今回の演出はこの組み合わせにおける最高の成果である。

【場景】

コンヴィチュニーの設定では、すべては近未来の世界大戦のあとの核シェルター内で起こることになっているようだが、事前に知っていたはずのこの情報は幸か不幸か、この日の上演が始まるまでに全部忘れてしまった。そこでまっさらな私の目に映ったものは、ダ・ヴィンチの名画『最後の晩餐』風の食卓を囲んで、結婚式のあと、何らかの理由で白けきったような家族の風景なのであった。私はさほど視力が良くないこともあり、中央に井戸のなかにいるはずの預言者、ヨカナーンが陣取っているわけだが、あたかも角隠しを被った花嫁がそこにいるような変な感じにみえていた。これがサロメかと思っていたが、実は彼女は舞台下手のソファに突っ伏している。邪険な登場である。空間と状況の把握には若干の時間が必要だったが、徐々に人間関係がわかってくると、可笑しくなってきた。

ヘッドフォンでノリのいい音楽を聴いて、小さく身体を動かしながら楽しんでいるヘロデ王。卓の下に潜って、何やら隠避な行動をとっているヘロディアス王妃。白い覆面(紙袋?)を被ったヨカナーンはこの喧噪のなかで頭を抱えてうずくまるかのようだ。肝心のサロメはロック・シンガーのような格好で、はじめは死んだように寝そべっているのだが、いざ動き出すや、すこぶる機敏で力強かった。サロメが目を覚ますと、周りの者はもう歯止めが効かない。ここからはもう、息巻くサロメを中心とした激しいステージングがつづくのである。

【音楽に溢れる舞台】

一言でいって、この舞台には音楽が溢れていた。サロメの歌や、それに導かれて出現するオーケストラの響きを表現するためだけに、この舞台はつくられている。その歌に込められたエネルギーが大きければ、人々は大きく動き、駆けずりまわり、激しい行動をとる。その象徴となるのは「7つのヴェールの踊り」である。ここでサロメは官能的に舞ったりするわけではなく、もちろん、服を脱いだりすることもなしに、もっと本質的なこの劇のこころに迫る行動をとろうとする。それは、自らと向きあうということだ。サロメが部屋の外壁に扉を描き、その開かない扉と格闘することで、自らの真実を掴もうとするや、それに感応した人々はみな(ヨカナーンを除き)、それぞれに自らの描いた扉と向き合いはじめる。

もしこの空間がシェルターだったとするならば、彼らはこの閉ざされた・・・しかし、安全な空間から脱け出ようとすることを意味するわけである。ただ、この場合、核シェルターの外に向かって出ていくということは、彼らにとって、一体、どのようなことを意味するのであろうか。そのようなことを考えるよりも、むしろ、自らの扉と向き合い、それと必死に取り組む人々の生の姿に注目すべきではなかろうか。これをはじめとして、コンヴィチュニーの舞台は考え出すと、かえってわからなくなる。もっと柔軟に、「感じる」鑑賞を心がけるべきだ。

【自分と向きあうこと】

さて、上記の人々の行動は、この音楽の書き手であるリヒャルト・シュトラウスの苦しみとも共通している。つまり、シュトラウスはロマン派的な音楽のどん詰まりにあって、それを自覚しながら、なお確信犯的に、それにしがみつこうとした音楽家であるが、このアクションはもうどこにも行きようのない音楽の墓場のうえで、それでも身体には歌の溢れるこの音楽家が、いかにして、この作品で自らを阻む壁と向きあったのか、あからさまに語っているからである。この作品の音楽は、徹底的に分裂している。人によっては無調音楽の萌芽のひとつとさえいう『サロメ』の音楽は、シュトラウスの音楽のなかでもとりわけ尖鋭な音楽的意図をもった前衛的な作品と見なされてきた。

しかし、コンヴィチュニーの解釈はこれらのクラスタを丁寧に拾い集めて、シュトラウス本来の官能性に再び辿り着いている。それは最後、死んだはずのヨカナーンと、彼の首に語りかけるサロメの愛の結びつきによって、直接的に表現されていた。面白いことに、ヨカナーンはここで、彼自身のこころとようやく向きあうことになる。彼は「神の子」の到来に耳目を閉ざし、自分のこころとまったく向きあっていなかった。その姿勢は最後、大声で劇を貶して去っていく最前列の聴衆(無論、演出である)と同じ態度なのかもしれない。そこに、サロメの限界もある。その限界を打ち破ろうとして、サロメは扉と格闘しはじめるのである。伝わらない表現は、無意味である。

ところが、自分の首を差し出されたヨカナーンは、サロメが言うように、彼女を蔑むような表情をした醜い自分の首と対面して、ようやく自分のこころの在処に気づくのであった。「あなたは私のことを愛してた」というサロメの言葉に、素直に頷いて認めさえする。彼は、預言者だというのに!

こうして、サロメは勝ったというわけだ。ときに、ここにいう「サロメ」は聖書に出現するような、母親に唆されて預言者を貶めんとするような哀れな少女ではなく、ワイルドの小説に出現するような、不敵で官能的なカルメン的な女性でもなく、ミューズにこころを委ねた純粋な愛の天使である。シュトラウスの音楽において、そして、それを忠実に視覚化したコンヴィチュニーの演出において、はじめてそうなったのだ。ヨカナーンがサロメを受け容れるのは、下世話な欲情に支配され、呪われたヘロディアスの隠避な娘としてしかみていなかった女に、来るべきメシアの到来を告げる天使の姿をみたからにほかならない。

【サロメというメシア】

メシアとは、イエス・キリストであるのか。この作品は、必ずしもそうとは言っていないようだ。否、それでもイエス・キリストはいるのだろう、愛のなかにこそ。そして、その外形は、官能的なサロメの衣を被っていても構わないはずだ・・・。ヨカナーンは首(クビ=彼はこの一件でその重い役割を終える)になってはじめて、そのことに気づくのである。ただ、もはや生首としか接吻できないサロメの側からみれば、これはシュトラウスの往生際の悪さと紙一重でもあろう。そこでは、サロメの勝利と敗北が並列しているわけで、それが終幕の殺伐とした空虚感と、不思議な官能性に繋がっているのである。

【醜さと向きあう勇気】

これらのことを、ほぼ音楽によって語っている点、つまり、その表現としての動きのみで視覚化しているところに、今回のコンヴィチュニー演出の真骨頂をみる想いがする。そして、ワーグナーが彼の専用劇場について言ったように、「目にうつった舞台の光景が、人生そのものの真のうつし絵となる」ような高度な舞台をつくりあげた。自己省察が深く、単にオペラを楽しむというだけではなく、そこで何らかの生きるヒントをつかみたいと願っている観客ほど、コンヴィチュニーのメッセージに深く刺激を受けたことだろう(私がそういう観客だと言っているわけではない)。特に、先に述べた2つの場面・・・つまり、サロメとヨカナーン以外の全員が扉と格闘する場面、そして、死んだはずのヨカナーンが自らの首と向きあう場面には、思わずぐっと来たはずである。

サロメとは、このような劇であったのだ。人間は些細なことに怒りを抱き、理性がありながらも欲情を抑えられないし、聖人よりは悪魔に近しい存在ともいえる。サロメやヘロディアスについてヨカナーンが罵ったことは、人類すべてに対する批判である。現代社会において、人肉食も決してあり得ない話ではない(わが国にも、『ひかりごけ』という実話に基づいた小説がある)。しかし、その醜さに向きあわないとき、人間はただの獣と同じになってしまうだろう。あの最前列の「聴衆」は、果たして舞台と真剣に向きあわなかった獣のような存在なのであろうか、あるいは、舞台と真面目に向きあいすぎて、自らの無様さに耐えきれなくなった知性の人なのであろうか?

【歌役者たちの「合唱」に満足】

ここに示す前半の記事でつよく申し述べておきたいのは、このようなプランを明解に物語った歌役者たちの素晴らしさである。タイトルには慣例にしたがって「Bキャスト」と書いたが、知名度や実績は別にして、実力だけを見れば、むしろこちらのほうがオモテのキャストであろうと思う。

さて、大学時代、私たちを指導した二期会の声楽家は「歌は身体が資本」といって、運動と発声を組み合わせた指導を専らとしていた人だが、今回の舞台はそのような常識をはるかに越えて、アスリートのための舞台のようだった。90分以上も休みなく、張り詰めて進行する音楽に合わせて縦横無尽に動きまわり、歌い踊った。そういう意味でも、この演出では主役・・・ちょうど90分間のサッカーにたとえれば、ボールをもって仲間を動かす司令塔よりも、その周りで動きまわるチームメートの動きが鍵を握る舞台であろう。

あとに述べるように、なるほどサロメ役の大隅智佳子は圧倒的な素晴らしさだ。しかし、それだけでは決して成り立たない舞台である。サロメの言葉、歌、動きに対して、これほどまでに鋭い人間たちの関係を抉った『サロメ』はなかなか見られない。譬えれば、合唱である。コーラスや重唱が極端にないオペラにおいて、私たちは声なき合唱を耳に・・・否、目にしたのである。この舞台は音楽に満ち、歌に満ちている!

ここにこそ、コンヴィチュニーの本質がある。レジー・テアター路線の過激な演出家というステロー・タイプのみで、彼について語るべきではない。

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コメント

 ご来場ありがとうございます。そして詳細かつ好意的なレビューをありがとうございました。出演した私たちにも意義深いプロダクションでした。
 今回のプロダクションはオランダからのレンタルではなく、ネザーランド・オペラ、二期会、イエテボリとの共同制作と聞いています。イエテボリではこの秋に制作されると聞いたと思いました。
 演出家は24日の午前中の飛行機で帰国しましたので26日のカーテンコールには出ませんでしたが、22,23日の公演ではカーテンコールに登場しました。
 この閉ざされた空間は仮に「シェルター」と呼ばれていますが、別にそれがシェルターであってもなくてもいいようです。わたしたちの社会、あるいは心の閉ざされた空間を表していたのだとわたしは思います。

田村さん、ご指摘ありがとうございます。まずは、大変な舞台を務められたことに、こころより敬意を表します。

問題の点は後刻、然るべく訂正しておきます。演出家の登壇は、存じております。初日には罵声もあったとか言いますが、私には信じがたいことです。いずれにしても、誤解の多い舞台のようです。共同製作については新国でレンタルの舞台が増えているものですから、すこし勘違いをいたしました。お詫びいたします。

なお、このレビューはもっと書き進めるつもりです。演出家のコンヴィチュニーさんや指揮者のショルテスさん。そして、歌い手のみなさんのこころがどのように解釈されるべきなのか、そして、それが作曲者のこころとどのように照応するのか、また、それと私がどのように向き合うべきなのか、より深く考えていく予定です。

アリスさま

お返事ありがとうございます。コメントにお返事を下さっていることを山下さんから聞き、今日再びここを訪れててみて、アリスさんがこの『サロメ』についての記事をさらに書きすすめられていることを知りました。

オペラを見にいらっしゃる方々が出演者と同じようにこんなにも舞台のことを考えていらっしゃるのだということを知り、驚くとともにとても心強くうれしく思っております。またときどき拝見させて頂きます。

田村由貴絵

重ねがさね、お言葉を寄せてくださったことにお礼を申し上げます。

出演者と同じように・・・は、大げさです。きっと何ヶ月も前から備えをなさってきたであろう皆さんのご努力あってこそ、私たちもこうして舞台を楽しむことができます。そして、優れた舞台でなければ、こんなにも真剣に考えてみようとさせることはできません。皆さんが良い舞台をつくってくださることで、観客の知性は開け放たれるのです。

それがコミュニケーションというものであり、こちら側からの反応をそんなにも真剣に受け取ってくださることで、いま、双方向的にコミュニケーションが達成できたと実感できます。喜ばしいことだと思います。

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