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2011年2月 9日 (水)

ブリュッヘン ベートーベン 交響曲第3番 ほか 新日本フィル ベートーベン・プロジェクトⅠ 2/8 ①

新日本フィル(NJP)とすみだトリフォニーホールトリフォニーホールの共同製作による特別企画、ブリュッヘン指揮によるベートーベン・プロジェクトの本番がいよいよ始まった。初回スペシャルで1番から3番の3本立てで開幕した。客席は定演以上にいっぱいに埋まり、NJPの広報戦略もまずは成功とみてもよさそうだ。私は当面、この演奏会だけの予定だが、事情さえ赦せば『第九』の演奏会も聴いてみたいところ。しかし、ウカウカしていると、チケットがなくなる可能性は大いにあるだろうが、個人的な事情で止むを得ない。

【ブリュッヘンの音楽は生きている】

当夜の演奏は、3本とも本当に素晴らしくて言葉がないほどだ。リハーサルの感想でも書いたように、ブリュッヘンの音楽というのは生きている。1つ1つの楽曲、楽章、パート、フレーズ、音符のレヴェルで、はっきりとした呼吸がある。以前、マリン・オルソップの指揮によるブラームスについて、楽譜にフォルテと書いてあれば、そのなかでの揺らぎはまったく必要ないと考えているかのようだと評したことがあるが、ブリュッヘンの場合、それとはまったく正反対だろう。テンポもリズムも、強弱も、すべてが生きているかのように、繊細に伸縮している。私たちはまるで、水族館で一匹一匹のサカナを眺めるように、1つ1つの音符を追っていく。しかし、よくみると、それらのサカナはある習性によって秩序だった動きをしていたりもする。示し合わせたように傾いた魚群の背に光が当たり、まぶしく私たちの瞳を捉える・・・そんな世界を思い出したりもした。

【弦セクションの役割づけ】

もうひとつ、今回のプロジェクトの聴きものは、なんといっても弦セクションにある。リハーサルのときは気づかなかったが、ブリュッヘンは弦楽五部それぞれの音色やボウイングに、それぞれの役割を当て嵌めた響きを厳しく要求している。たとえ同じ楽器をもった第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンであっても、それらの響きは一聴してわかるようなちがいがある。第1ヴァイオリンは複雑で、手の込んだボウイングをこなし、響きも華やかで開放的だ。一方、第2ヴァイオリンはシンプルで、平易なボウイングながら、深い音色をさりげなく示さなくてはならない。

例えば、交響曲第1番の第2楽章に、第2ヴァイオリンのリードから対位法的な響きの花が咲く部分があるが、このような部分で手も震えそうな緊張のなか、第1ヴァイオリンだったら決してできないような、シンプルな動きでねじを巻くときの彼らのパフォーマンスをみるならば、ブリュッヘンの厳しい要求の意味について、知ることができるだろう。このような場面は第3番にもあり、そこでも第2ヴァイオリンの一致団結したパフォーマンスが耳を惹いた。吉村知子首席、佐々木フォアシュピ以下、目立たない役割ながら遺憾なく賞賛しておきたいと思う。

【第1ヴァイオリンの凄み】

これに対して第1ヴァイオリンの凄みが出たのは、第1番のフィナーレもおわりに近づいた部分だ。ロンド形式が盛り上がり、最後のクライマックスを築くときに、第1ヴァイオリンは1本1本、太い杭を打ち込むようにダイナミックなボウイングをみせ、聴き手を驚かせる。ブリュッヘン=ピリオド・スタイルの指揮者というステロータイプでいえば、どちらかというとスタイリッシュで流麗な流れにしたがって、モーツァルト・ハイドン的に手際よく流れる展開を予想しがちだ。ところが、実際の演奏はもっと奔放なアイディアに満ちていて、突き刺すような激しささえもっている。

この第1ヴァイオリンの動きがブリュッヘンの発案なのか、豊嶋コンマスらによるワルノリなのかは定かでないが、仮に後者だったとしても、それはそれで嬉しい「化学変化」として評価できる。いずれにしても、そのアクションは正しい流れ・・・ブリュッヘンのいうルールのなかで自然な呼吸で位置づけられており、当然、あり得るチャレンジとして選択可能なオプションだからだ。彼はオーケストラの弾き手に命令を出すのではなく、彼らが表現しやすいように必要なルールを教え、選択可能なオプションを広げる手助けをする。つまり、音楽自体はあくまでNJPのメンバーがつくっていくのである。上のアクションはNJPのメンバーたちが、どのような選択をしたかということを知るために、とても示唆的な部分である。

そうだとすれば、当夜の演奏のすべてがブリュッヘンのみの力に負うものであるというのは大きな間違いといえるだろう。そうではなく、NJPのメンバーが自ら選んだものをブリュッヘンがサポートするというカタチで、このプロジェクトは進んでいくにちがいないのだ。その点、いま、二期会の舞台をつくっているであろう息子コンヴィチュニーと、ブリュッヘンは似ているように思う。彼らは、正しい何らかのカタチを厳密に守らせるというよりは、必要最小限のルールを演奏家や歌い手に示し、そのポテンシャルを引き出すことで音楽(舞台)を作り上げていくタイプのディレクターだからだ。

ブリュッヘンによってNJPが獲得したものは、ズバリ、演奏の自由である。しかし、念のために付言しておくと、自由とは正しい秩序の上に成り立つものである。

【形式的な工夫】

第1番の演奏では、第2楽章の演奏もインパクトがあった。ブリュッヘンの演奏では、この楽章は舞踊楽章として位置づけられる。その印象はノン・ヴィブラート・ベースによる細かな拍のコントロールと、緻密なフレージングによって導かれる。これは本来、典型的な舞踊楽章たるメヌエットが来るはずの第3楽章にスケルッツォ的な楽章を置くための、ひとつの方便のようなものかもしれない。つまり、少なくともひとつは舞踊楽章が必要なシンフォニーのなかで、ベートーベンは典型的な舞踊のイメージを第2楽章に託し、これを緩徐楽章の内省的な表現と連結させるという奇知をみせる。そして、本来の舞踊楽章には諧謔性の高いスケルツォ的な音楽を導入し、あまりにもハイドン的な交響曲の形式に1つの風穴を開けたのだ。

多くの録音ではこの楽章は緩徐楽章としてしか扱われておらず、第3楽章を舞踊楽章として位置づけるために、表現の可能性が手狭くなっていた。ブリュッヘンの演奏が素晴らしいのは、第2楽章をより快活なフレージングによって活き活きとさせるだけではなくて、第3楽章を舞踊楽章のくびきから最大限に解放することで、その表現に深みをもたらすことに成功していることだ。

【第2番はのちほど・・・】

交響曲第2番は、エレガントな演奏だ。何年か前、マリス・ヤンソンス&RCOの演奏で聴いたことがある(@サントリーホール)曲だが、ブリュッヘンの前では、天下に轟くこのコンビも子ども扱いだろう。この演奏に関しては、次の記事で詳しくまとめたい。

【ギミック】

この日の白眉は、なんといっても、交響曲第3番であることは論を待たない。まず、冒頭にギミックが置かれる。ハイドン・プロジェクトの記憶から、このあたりで何かカマしてくるのではないかという予感があったが、下手から登場のブリュッヘン、指揮台にあがり、団員を立たせるような仕種から一転、その手を鋭く振りおろして、自分が席に着く間もなく1拍目を鳴らさせたのである。拍手喝采に応えつつ目抜き通りをいく「英雄」の姿が、そこにはあったのだろう。ある意味、予想どおりの展開に聴き手を微笑ませつつ、快活な流れで作品は進む。

なお、あとでみた楽団公式ツィッターからの情報によれば、このギミックは突発的なものではなく、リハーサルで仕込んでいたもののようである。

【ノン・ヴィブラートと形式の連結】

第2楽章の葬送行進曲は、ノン・ヴィブラート・ベースの響きが効果的に作用した。後半の盛り上がりで、普通であればヴィブラートを効かせて泣きの表情をつくるような場面でも、ブリュッヘンはノン・ヴィブラートを求める。その結果、このヒュウヒュウいう弦の響きが、かえって我々の心臓に直接、語りかけてくることになる。わざとらしい揺さぶりがない分、いきなり、ガツンと来るのが特徴だろう。

形式的には、この楽章は通常のトリオ形式に尾ひれのついた、複合的な(ロンド)形式とみられる。さて、葬送行進曲による主部と、「英雄」への賞賛を示す中間部は対照的に示されるのが普通だ。ところが、ブリュッヘンの演奏では、中間部は主部のなかの逞しい部分から自然に導かれ、両者の通交が可逆的に柔らかく示されていたのである。このことがどのような理由で可能になったかは、現在、私の狭い識見のなかでは十分に説明することができないが、多分、主部があまり重たくなりすぎていない点と、そのわりにゆったりとテンポをとって、厚みをもって表現に徹していたことにヒントがあるのだろう。

このことは最初の2つの部分の対比に役立つだけではなく、後半の盛り上がりにおいて、より象徴的なものとして浮かび上がってくる。そこでは、英雄に対する賞賛と、死(犠牲)のイメージが分かち難く背中あわせになっているのがわかるはずだ。そして、誉めるにしろ嘆くにしろ、それをヴィブラートかけすぎのセンティメンタルな表現ではなく、あくまで客観的な筋道のなかでクールに実現していることを知ると、聴き手はその鋭い風刺性に気づいて耐えきれず涙するというわけだ。結果として同じ涙が導かれるとしても、その涙の質はまるで異なっている。

【第3楽章〜フィナーレ】

この楽章は木管楽器が目立つが、ブリュッヘンはよくよくアーティキュレーションに気を配り、ソロ楽器をひとりにしないアンサンブルを組み立てる。その巧さにも、感銘を受けた。特にホルンがうまく響きに組み入れられており、この聖なる楽器をものの見事に操るブリュッヘンである。そのホルンが主役となる第3楽章は、吉永雅人率いるホルン部隊が完璧なパフォーマンスを見せる。特に、トリオの最後のシーケンスで、最後だけちょっと抜くところが巧みで、思わずクスッとなってしまった。

なお、この楽章では特殊なリズム処理などに、のちの第7番の萌芽も既に現れていることに気づかされる。

終楽章は、のちにシューベルトやブラームスが発展させるヴァリュエーションの形式を、特に第1ヴァイオリンが面白く拾っている。序盤はスケルッツォのつづきのような雰囲気もあり、ユーモア性の高い演奏になっている。一方、秩序の面でも厳しいルールが効果的に輝き、特に、たしか第2ヴァイオリンを起点に、放射状にカノン風の旋律が広がる中盤の場面の迫力は凄い。途中で木管楽器がトリッキーに加わることで、流れはわかりにくくなるのだが、全てのパートが自信満々にラインを貫き、それをまた第2ヴァイオリンが堂々とまとめ上げるまで、図太い聴かせどころである。

ヴァリュエーションを追って、管楽器もここぞと自由に歌いまわし、古部賢一のオーボエや重松希巳江のクラリネット、白尾彰のフルート、吉永のホルンなどが次々に個性を発揮し、それに追随する弦の動きも瞬間ごとに華やかになっていく。いかにもNJPらしい粒だった演奏であり、この楽団のファンには堪らないパフォーマンスだろう。最終変奏を導く木管楽器のアンサンブルなど、それこそ最高だったといえる。そこから、壮麗なクライマックスが導かれるときの自然な流れにも感動した。

起伏に富んだコーダは期待よりもずっと理知的なものだが、どんどん援軍が積み重なっていくような最後のシーケンスだけは、私の愛するフェレンチク盤には及ばない。しかし、厳しいアッチェレランドが滑らかな呼吸のなかで導かれ、整然とした弾き終わりで、これはこれでインパクトがあった。

(②につづく)

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