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2011年2月10日 (木)

ブリュッヘン ベートーベン 交響曲第3番 ほか 新日本フィル ベートーベン・プロジェクトⅠ 2/8 ②

【旅の序曲としての交響曲第1番】

この日の演奏会で、もっとも優れていたのは第3番の演奏だ。しかし、だからといって、第1番、第2番、第3番の順でよかったという見解は単純すぎて、話にならないと思う。ブリュッヘンが言うように、このプロジェクトはベートーベンの音楽を辿ることで我々自身が旅をすることであり、9つの作品を1つのストーリーとして追っていく試みでもある。1つ1つの演奏を良かったの悪かったのと選別することに、私は大きな意義を見出さない。別にやってもいいけれど、下らないと思う。

例えば、今回のプロジェクトで取り上げられた第1番の演奏は、「ベートーベンの交響曲第1番」としてのみ聴かれるべきではない。これは長い長い旅のはじめに置かれた、輝かしい序曲だ。このことは単純なオーセンティズムに侵食された一部の聴衆、ハイドン・プロジェクトの精華に「オリジナル」をみるような聴き手からすれば、甚だ好ましくない面を含んでいる。彼らのあたまのなかでは、交響曲第1番が依然、ハイドンやモーツァルトの影響下にあった作品だという下知識があまりにも支配的なのだ。

【1番には全ての可能性が詰まっている】

それゆえ、彼らはブリュッヘンのハイドン・プロジェクトから、右肩上がりの成長曲線を描くように、ベートーベン・プロジェクトが仕上がっていくものと期待していたし、そういう誤解を与えかねないアテンションが事前につけられてもいたから、誤解はある程度、止むを得ないところがある。しかし私は、ブリュッヘンの言葉をよくよく思いだしてみることを提案したいのだ。彼はまず1番で、ベートーベンが飛躍したと述べているのだ。ブラームスがベートーベンの影に悩んで、苦労して交響曲第1番を生み出したように、ベートーベンもハイドンの影を打ち払うべく、大きな苦労を払って第1番を書いたと主張していた。

この第1番の演奏に対して批判的なことを書いているたちは、多かれ少なかれ、このメッセージを見落としている。ブリュッヘンの描く交響曲第1番は、かつて聴いたコバケンの演奏ほどではないにしても、かなり肉厚でガッシリしたイメージである。ここに、一部の聴き手は違和感を抱いているように思われる。

そこで、私は次のようなことも提案したいと思う。まず、ブリュッヘンが ’up’’down’という言葉を使い、第9番を頂点にしたストーリーについて話したことは、誤解のもとであることをよく噛みしめていただこう。私たちは最初に、右肩上がりに交響曲第9番に坂道を上っていく成長曲線のイメージを捨てるところから始めるべきなのだから。

ベートーベンの革新性そのものは、1番のときと9番のときでそれほど変わっているわけではない。その形式的な奇知については、①の記事で十分に触れたので繰り返さないが、ベートーベンはそのようなリフレッシュを常に意識的に貫いて、第1番における苦しみ(=革新的な向上心)と死ぬまでつきあいつづけた作曲家だ。確かに、その間に多くの経験を積んで、第9番の高みに至るまでに公私を通じて、死ぬよりも苦しい精神の格闘があり、第9番の高みまで上り詰めていくというイメージは完全に排除できるものではない。

そうであるにしても、この1番にはすべてが詰まっていた。ブリュッヘンは、そのようなスケールで第1番に取り組んだにちがいない。

【繊細な交響曲第2番の演奏】

なるほど序曲がおわるや、アプローズを長く受けることもなく、ブリュッヘンは素っ気なく再び椅子に腰掛けると、交響曲第2番の演奏を始めた。第1音が鳴るまで、私はこの2曲を一貫して聴くことには大きな不安があった。私の従来のイメージでは、先達の影響が強い第1番に比べて第2番のほうが骨太で、ガッシリした作品だという見方になっていたからだ。しかし、ブリュッヘンは驚くほど軽い演奏で、その懸念をいきなり払拭してしまう。

2番の演奏は終始、繊細な歌いくちに焦点を絞った細かい演奏であった。そして、弦管のアーティキュレーションがきれいに調節され、一見、なんでもないようなフォルムをつくるのだが、その美しさきバランスは比類ない。1番で培った弦のボウイングのゆたかさなどを生かしつつ、よりフレージングや響きの重ね合わせにこだわった演奏となり、これはもう、粛々と聴き入ってしまう演奏である。強調もさりげなく、自然な呼吸に合わせて丁寧にフォルムが象られていく。

ハイドン・プロジェクトの精華というなら、それは当夜の3曲では、特にこの第2番で感じられた。①の記事では、ヤンソンス&RCOの演奏も子ども扱い・・・と書いたが、それはこのような骨組みの頑丈さを遺憾なく示しながらも、むしろ演奏のダイナミズムは控えめで、まったくわざとらしさがないからである。

そのため、このような記事は書きにくいところもあるが、ほかのタイプの演奏と比べて、傑出してフォルムが洗練されているという点では、第3番以上にインパクトがあった。

【まとめ】

これ以上に、書きたいことはヤマほどある。例えば、近藤高顕の担当するティンパニや、3本だけで百人力の効果を示したコントラバスなど、ブリュッヘンが本当の指揮者と呼んだパートの働きのあらゆる細々とした成果について。また、たとえミスしたと思われても、強いアテンションでベートーベン独特の大胆な和音や調性の動きを提示する、数々の勇敢なポイントについて。また、どちらかといえば目立つフルート、オーボエ、チェロの後ろで、粘りづよく随所によい働きをみせたファゴットの動きについても!

しかし、これらについて書くことは私の能力不足も手伝って、どうやら割愛するしかない。

最後に強調しておきたいのは、ブリュッヘンの耳の良さだ。個人差はあるものの、この年齢では聴力が弱ってくる人も多いのは確かで、残念なことながら、そのことはなかな自己でコントロールしづらい。それなのに、ブリュッヘンはあれほど繊細で、美しいアーティキュレーションを組み上げている。当夜の作品はすべて、作曲家がまだはっきりと難聴の症状を感じないころの作品であり、その時代におけるベートーベンの恐ろしいほど精緻なテクスチャーへの意識が、ブリュッヘンの演奏で明らかになった。

また、最弱奏へのこだわりも素晴らしい。そこでは単に「弱い音なのに美しく聴こえる」というレヴェルを越えて、もっと自然な手触りがあるのである。このようなことも含めて、やはりブリュッヘンの音楽は生きている。大体、以上のようなことに注目して聴いていれば、今回のプロジェクトを有意義に楽しんでいただけるのではないかと思っている。

記事の内容からも明らかなように、私はブリュッヘンの演奏を完全に支持するものである。とにかく、これほどフレッシュに「歌う」ベートーベンは、なかなか聴けるものではない。その意味で、今回の演奏がイタリア的だと言っていた或るブロガー殿は、私などとはちがってすこぶる卓見ではなかろうか?

【プログラム】 2011年2月8日

1、ベートーベン 交響曲第1番
2、ベートーベン 交響曲第2番
3、ベートーベン 交響曲第3番「英雄」

 コンサートマスター:豊嶋 泰嗣

 於:すみだトリフォニーホール

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