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2011年2月19日 (土)

須藤慎吾(Br)&服部容子(pf) 声とピアノのアンサンブル @日暮里サニーホール 2/18

このページでプレビューを書いて注目していた、バリトンの須藤慎吾と、ピアノの服部容子によるデュオ公演、日本声楽家協会の企画「声とピアノのアンサンブル」に足を運んだ。

【日暮里サニーホールについて】

会場は日暮里サニーホールのコンサート・サロンだが、この場所は初めてだ。よく声楽家がリサイタルで使っているところだが、実際、入ってみるとプロの声楽家には狭いスペースで、須藤のように声が出る人だと、響きはほぼ天井から振ってくる感覚だ。最初のほうは戸惑いもあったが、意外に響きの飽和もなく、ゆたかな残響はないものの、「お化粧」にごまかされず、声の実力を確かめるには良いホールでもあろうと思った。ここで歌うと、良い歌手とそうでない人の差は歴然と表れてしまうにちがいないが、その点、幸いにして須藤は良いほうばかりが目立った。

【新しいエディションによる】

今回は生誕210年目のアニヴァーサリーにちなんで、ベッリーニによる歌曲を取り上げるプログラムとなった。須藤自身も言っていたように、半端な210年めがとりわけ節目の年とは思えないが、当夜のコンサートには生誕200年のときにリコルディ社から出された新しいエディションに基づき、思い入れのあるベッリーニの作品を歌いたいという意図もあったとのことである。

楽識も、鍛えられた聴音の能力もない私にとって、そのちがいをしっかり指摘することは難しいが、例えば、”A palpitar d'affanno”(苦悩に喘ぎ)などはリンクの録音などと比べると、全然別もののように聴こえる。録音ではブンチャッチャ(×2)の典型的なワルツのリズムのうえに、のっぺりした「喘ぎ」の旋律がだぼっと被さっている印象を抱く。もちろん、服部の優れたアーティキュレーションの賜物でもあろうが、須藤がこの日、歌ったものはピアノと声の表現がもっと密接していて、表現の流れもスムーズならば、ダイナミズムも尖鋭でワイドに展開していた。

【もっと歌手のこころに・・・】

さて、須藤のパフォーマンスには、全体を通してかなりの満足を覚えたと言っておく。オペラ歌手として活躍する須藤ではあるが、歌曲にも思い入れが深いようで、その表現は精緻であり、よく考えて構築されているのがはっきりわかる。わが国の声楽家にはこのように、歌曲の分野に情熱を燃やす人たちも多いのだが、残念ながら、聴き手は彼らほど熱心に歌曲の味わいに関心を払ってはおらず、結局、声楽のファンは大体、壮大なオペラの世界に期待を抱いているようだ。私は非力ながらも、そのような傾向にも釘を刺したいと願うものだ。

私たちは、もっと歌手たちのこころに寄り添うべきである。そうすべき・・・というよりは、そのほうが音楽を楽しめるというだけのことだが。

【良い歌手の条件】

良い歌手を表すいちばんの条件は、mouth to ear ではなく、heart to heart で歌を伝えることができるかどうか・・・ということに尽きる。次に、特にベルカントにおいては、たとえどれほど遠くにいても、歌手の隣で聴いているような立体感のある、そして、親密な歌声が求められようと思う。この大事な2つのポイントを、須藤はしっかりと抑えている。例えば、『6つのアリエッテ』の第2曲 ”Vanne,o rosa fortuna”では、彼のここころから届いた薔薇が我々のこころのなかでぱっと花開くようだったし、後半の3曲は服部も言うように、須藤の歌いくちから歌の示すこころの中心が、はっきりと読み取れる。それがまた、この歌手の表現力をひときわ印象づけることになっていた。

【歌手と聴き手のコミュニケーション】

小森輝彦とのデュオでは丁寧に字幕までつける服部だが、(たとえ予算的な制限であるにせよ、)対訳すらつけない今回のような公演もまた、聴き手の想像力を刺激することをはっきりと教えてくれるのだ。歌詞がわかることは、それはいいことに決まっているが、わからない場合はわからないなりに、別の楽しみもある。それは歌手や作曲家と、聴き手の手探りのコミュニケーションを生むことになるからだ。なまじ全て知り尽くしている場合よりも、聴き手はよく考えるはずだし、その考えることが体験をより親密で、忘れられないものにするかもしれない。

【ベッリーニの珍しい歌曲】

須藤のMCによれば、彼の情熱は主に後半の4曲に向けられていたということだ。特に、いちばん最後に歌った ”Le souvenir present celeste”(最上の贈りもの)は、かつての作品リストには載っていなかったような新しい発見に属する作品で、しかも、ベッリーニとしては異例なことに、フランス語の歌詞に付曲されている。ロッシーニが『ギョーム・テル』を書き、ヴェルディが『ドン・カルロ』を書いたように、ベッリーニもフランスとは無縁でいられなかった。彼が早世しなければ、この不世出の若い作曲家もフランス語の大作オペラを書いたやもしれない。

表現のうえでは、”L'abbandono”(棄てられて)や、”La ricordanza”(追憶)といった作品が白眉である。特に後者では、この会場であまり効果的とは思えないソット・ヴォーチェを披露し、歌手の内幕をしっかり聴き手に示しながら、声の構造の美しさをさりげなく表現していたのが印象的だ。もちろん、響きはゆたかであるほうがいいに決まっているが、このような環境だからこそ、見えてくるものもあることを知って、私としてはとても興味ぶかい想いをした。歌を勉強する人にとっては、こうした機会はなおさら貴重であろう。

【内面ゆたかなベッリーニの表現】

ベッリーニといえば、技巧的なアリアでお馴染みの『ノルマ』や『清教徒』の作曲家として知られ、これらの作品を取り上げるときは、どの劇場でも勝負のときと見なされるし、音楽史的にもベルカントの頂点に来る作曲として高く評価されている。しかし、須藤はそのようなステロータイプを洗い流し、歌詞とメロディの何気なく、親密な結びつきから、この作曲家の作品を捉えようとしている。アジリタも効く歌手だとは思うし、ダイナミズムも広く使えるはずなのに、それらの表現手段を意図的に抑え、全てベッリーニへのステロータイプに繋がるものは周到に排除して、その可能性の中心を示そうとしてまごころを尽くしている。

こうして聴いてみたときに感じることは、ベッリーニがいかに繊細に、人間のこころを書いた作曲家であったかということだ。来るべき『ルチア』公演の宣伝に絡めて、須藤は語った。ベッリーニの死後、『ルチア』を発表したドニゼッティがリップ・サーヴィスもあろうが、この作品はベッリーニが書くべきであったとコメントしていたことを。それはわりによく知られた話だが、当夜の須藤のパフォーマンスも加味して考えるならば、この作曲家が表面的な技巧性の華やかさよりも、まず人間の内面をゆたかに・・・誰よりもゆたかに描くことのできた作曲家であったことを物語るシンプルなエピソードだと感じられる。そして、この要素は多分、ロッシーニから受け継がれて、ヴェルディやトスティなどの血に混じり込んでいったものである。

そんな作曲家に、『ルチア』のような優れた心理劇を書いてもらいたかったというのは、蓋し名言であろう。

【服部容子のパフォーマンス】

服部の伴奏は、いつもながらフレキシブルでジェントル、そして、ときには逞しさを感じさせる。いかにも歌いやすそうな歌手を、何食わぬ顔で包み込んでしまう。並の歌手ならば、親の腹袋のなかに匿われたカンガルーの子どものように、ぬくぬくとしたところから出ることさえできないはずだ。しかし、津山恵、小森輝彦、須藤慎吾といった歌手たちは、そのなかでもはっきりと自分の歌をアピールできる存在である。

その服部の演奏によるバッハの『イタリア協奏曲』も名演だった。真ん中の曲では薄くペダルを効かせたが、無窮動な両端楽章ではほとんどノー・ペダルで、クールに和声を響かせてポリフォニーの構造を厳しく組み立てていくという演奏だった。最初の楽章では、正に1本1本のラインが個々の歌手たちのように歌い踊り、チェンバロほどではないしても、よく歌う輝かしいサウンドを響かせた。中間楽章では信仰心に満ちみちた、静かな歌を夜空の星を見上げるようなさりげないロマティックさで示し、最後の楽章では、特に和声の明るい解放感に焦点を絞り、教会の吹き抜けのようなオープンな輝きで作品を満たしてしまう。この服部容子というピアニストは謙虚だが、本当に凄い人だ!

アンコール・ステージでは、ベッリーニがロー・ティーンのころに書いた作品『ファルファレッタ』にコメディをつけ、プロンプターとしても活躍する服部の一面を須藤は楽しく引き出していた。最後におまけとして歌った『清教徒』のアリアも見事。須藤という歌手は、今後も注目していかないといけない存在だろう。こういう人が国内で歌ってくれているのは、ある意味では勿体ないことだが、我々にとっては大きな福音である。

【プログラム】 2011年2月18日

○ベッリーニ 6つのアリエッテ
 1、マリンコニーア
 2、お行き、幸せな薔薇よ
 3、美しいニーチェよ
 4、もし私ができないなら
 5、私の偶像よ
 6、喜ばせてあげて
○バッハ イタリア協奏曲(ピアノ独奏)
○ベッリーニ 棄てられて
○ベッリーニ 追憶
○ベッリーニ 苦悩にあえぎ、恋に焦がれるため
○ベッリーニ 最上の贈りもの(仏語)

 於:日暮里サニーホール

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コメント

レビュー、興味深く読ませていただきました。
実は私もこのコンサート聞きに行きました。
演奏すごくよかったし、かっこ良かったです。
実は歌手についての予備知識もなく誘われて行ったのですが、あんなに感動するとは思ってなかったです。
須藤慎吾さんサイコー
オペラの須藤慎吾さんも聞いてみたいので、3月6日のルチアも聞きに行きます!

ちょぅちょさん、コメントありがとうございます。もちろん、オペラの舞台も素晴らしいものになると思いますよ。ルチアは、どうしたって女声が目立ちますが。最大の見せ場が、とっても長いルチアの「狂乱の場」ですから。相手役の光岡さんは経験が少ないですが、素晴らしいコロをもった歌い手で楽しめそうな舞台です。

アリスさん、コメントへのレス、ありがとうございます。
コンサート内容についての深い分析、ほんと面白くて為になりました。同じコンサート行ってた私にとっても、興味深い情報が満載でした。
藤原のルチア情報もありがとうございます。すごく楽しみです。
これからも為になる音楽ブログよろしくおねがいします。
更新大変だと思いますが、頑張ってくださいね。

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