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2011年2月 8日 (火)

ショパン ノクターン op.27 ゼロの作曲家の本質

【ショパンとノクターン】

ショパンの作品のなかでも、ノクターンはとても特別なジャンルであると思う。もっともショパンらしい特徴の顕れている作品として、マズルカやポロネーズを挙げるのは普通のことだが、マズルカのところでも書いたように、彼を「ゼロ」の宇宙的な作曲家と位置づけたときに、ノクターンの重要性はかなり高まってくるであろう。

このノクターンであるが、実はショパンの独創ではなく、偉大な先達であるジョン・フィールドの発明であることがよく知られている。フィールドはベートーベンと同時代人であり、かの巨匠とはちがう方向性ながら、日ごと開拓されていく新式ピアノの可能性を生かすために大きな功績を残した。その歴史的な評価は、今日的な知名度に比べてだいぶん大きいが、その解説についてはここにリンクするPTNAのページに詳しいのでご参照ねがいたいと思う。単にノクターンという独特の形式の創始者として、あるいは、同形式を発展させたショパンの先達としてのみ価値があるわけではないことがわかるだろう。

ショパンはこのジャンルをいち早く取り入れており、未出版となるものを含めて20曲を残している(そのほかに、20世紀になってから発掘された断章的な作品が1つあり、これも加えると21である)。今日、とりわけ有名なのは生前未出版の遺作で、実は若年のときの作品ながら、映画などに使われてよく知られている「レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ」のノクターンであろう(第20番、もしくは第21番ともされる)。この作品は少なくとも2つの版があることが知られており、「より早い時期のヴァージョン」「よりあとの時期に書かれたヴァージョン」などと呼ばれていて、エキェル派の河合優子による録音もある。最初のヴァージョンは素朴でゴツゴツしているが、感情がぐっと前面に出てくる感じであり、あとのものが有名なほうであるが、より洗練されてスッキリした流れの美しさがある。

【身を隠すのに都合のいいノクターン】

この変化のなかに、ショパンらしい選択性を読み取ることも可能かもしれない。つまり、ショパンはいちど、直感的に自分の表情をぶつけたような作品を書いても、それはやがて引っ込めて、結局、それを隠して上品におしろいを塗った作品を最終版に定めようとしているかのようだ。特に、ノクターンにおいてはその姿勢が相応しいのであり、上の作品が作品としては甚だ未熟なものでありながら、特にショパンらしい作品として愛好されているのも理由なしとはしない。ショパンは自らを隠して作品の形式を浮き立たせることで、それぞれのジャンルの持ち味を遺憾なく発揮させる術に長けているが、ノクターンの「夜を想う」雰囲気は擬態する昆虫たちを匿う植物のように、ショパンの姿をみえなくするのだ。

つまり、ノクターンにおいて、ショパンはあらゆるジャンルのなかでもっとも上手に、身を隠しているといえるのである。例えば、マズルカにおいては、それはどちらかといえば、獰猛なワニが濁った泥川に潜むようなワイルドさがあり、「プラスとマイナス」でうまくひっつきあっているような印象だが、ノクターンでは「マイナスとマイナス」でありながら、不思議な効果で両者が結びつき、離れがたく寄り添っているような感じがする。同じショパンでも、これら2つの行き方はまるで正反対だ。

ショパンの作品でしばしば、ジャンルが重要になるのはそのためである。彼の鍵盤作品は、ソナタ、エチュード、プレリュード、ポロネーズ、マズルカ、ワルツ、ノクターンなどに分類される。これらすべての分野で、優れたパフォーマンスを見せるピアニストはごく稀だ。例えば、エチュードがうまければマズルカは硬すぎ、マズルカがいい奏者はエチュードで綻びが出るという感じである。これにオーケストラのコミュニケーション能力やバイタリティが問われ、オーケストレーションはショパン自身によるものではないというコンチェルトまでが加わるのだから、ショパン・コンクールというのもままならないわけだ。

【フレキシブルなショパン演奏の可能性】

これらすべての分野において、確実にショパンらしさというものは存在する。しかし、本質的にショパンは、自分と同じものを自分の作品を弾く人間には求めなかったようだ。ショパンについた女性の弟子のひとりが、左手のキープを守りさえすれば、右手はどう弾いてもいいと指導していたという証言をしていることを、エキェル派のパヴェウ・カミンスキ教授は話してくれた。一方、ショパンは自分の作品をほかのピアニストが弾く場合、譜面を立てて演奏することを礼儀と考えていたようで、一見、アンビヴァレンツ(二律背反)のようにもみえるが、そうではない。そうして譜面さえ立てて作曲家に敬意さえ払っていれば、ショパンはこれが正統という筋道をなるべく立てなかった。

つまり、ショパンとは最少のルールと敬意だけで、作品が持つべき演奏伝統をフレキシブルに持っていこうとした作曲家であり、ピアノ教師だったのである。そこでは自分という作曲家の重みよりは、そこにぶつかっていく演奏者の個性が問われたのであり、自分自身よりは楽譜やその周りにあるものと向きあってほしかったにちがいない。それはベートーベン主義とも呼べるような、形式や美しさを作曲者の意図によって固めていく思潮とはまるで違う方向を向いている。フォルテやピアノを3つも4つも書き込んでみたり、マーラーのように、お節介なくらいに演奏者を筋道に嵌めようと指示を飛ばす音楽とは訳がちがう。

ショパンの音楽は、演奏者の良心と敬意に基づいて書かれている。そして、そのことによって、幾星霜を生き残る作品の力を生み出そうと考えていたのかもしれない。ある意味ではバロック的であり、また別の意味では、とても新しいスタイルだったといえるだろう。通説とは異なり、ショパンはきっと良い弟子や、友人たちに恵まれていたのではなかろうか。そして、彼らが自分たちの個性を遺憾なく発揮できるように、様々なジャンルを選んで、ごく自由な形式で作品を書き遺していったのだ。そして、そのためにこそ、これらの作品はごくプライヴェートな範囲を超えて、人類レヴェルの遺産として君臨することになった。

【op.9/op.15】

前回のショパン関係の記事で書いたマズルカと同じく、このジャンルでもっとも重要な作品は最初期の作品である。(op.9)として収められた『3つのノクターン』はショパンがノクターンという分野に踏み出した最初の作品群であり、1830年から翌年にかけて作曲したとされる。先の『レント・・・』もこの時期の作品であり、これらの作品群の萌芽に当たることが窺われるだろう。どの作品もよく演奏され、平易な旋律美で人気がある。ショパンにとってはワルシャワからウィーン、そしてパリに行き着くまでの時期に書かれており、(op.9-2)のルバート構造などはウィーン音楽へのオマージュをふんだんに感じさせるものだ。

一方、(op.9-1)は(op.9-2)と比べるともっと作り込んだ印象があり、ヒロイックな旋律やリズムのなかに、あらゆる可能性が浮きつ沈みつするようなゆたかさを思わせる。(op.9-3)はこの分野を切り開いたフィールドへのオマージュのようにシンプルで、なだらかな曲想だが、最後のほうで、のちに書き始めるポロネーズ風のハードなリズムが浮かび上がってくる。ショパンはこうして世間への売り込み材料もさりげなく折り込みながら、自らの特徴をきらっきらっと輝かせて、まだまだ野心的である。

(op.9)の作品では、このようなショパンのワイルドさも垣間見ることができたが、いよいよパリに居を定めた(op.15)ともなると、いよいよこの作曲家の「ゼロ」的思考がはっきりしてくる。いくつもの「新しさ」が見出され、趣向を凝らした書き分けといった工夫さえあるにしても、ショパンのメッセージはずっと控えめになる。技法やポエジーが深くなるにつれて、ショパンは自らの個性をいかに作品のなかに溶け込ませるかという命題に、多くの解法を見つけられるようになったのだ。

【集大成の op.27】

これら2つのノクターン群をスプリング・ボード(跳躍台)にして、初期のノクターンの集大成として完成したのが、(op.27)としてまとめられる『2つのノクターン』である。プライヴェートな事柄との関係性もよく指摘されるが、私はむしろ、形式的な純化・・・つまり、このノクターンの形式にショパンが完全に自分を溶け込ませる術を会得したことが、そのような個人的事情を作品にうまく取り込めることにもなった理由であるし、作品をエポックなものにしていのだると信じる。これ以後、「ショパンらしい」ものとはショパンという一個人とは関係のない・・・あるいは、それとあまりに濃厚に結びついているために、容易に見えないほどになったショパンの姿を形式のなかから読み取ることと同じになったのだ。

澄みきった旋律美のある(op.27-2)のほうが有名で、録音にもよく収められているが、(op.27-1)のほうが、こうした意味での革新性が高いように思われる。そして、ショパン自身だけではなく、陰鬱なパリの表情が浮き出ているという、先日のマズルカの記事で書いたような特徴がよく表れてもおり、かつ、ポーランドの民族性も欠かさずに、さりげなく織り込まれている。もちろん、大ピアニストたちもしばしば取り組んできた(op.27-2)はこのジャンルにおける傑作のひとつであり、弾き手次第でいかようにも引き伸ばせそうなゆたかなポエジーに満ちみちている。大げさにいえば、ピアニストが人生を賭けて弾くべき1曲だ。ショパンは自らに対する忠実さよりは、その種の誠実さを求める作曲家なのであった。

【参考録音】
 イスラエラ・マルガリット(pf) *ロリン・マゼール夫人
  ショパン:夜想曲全集  レーベル:Quartz Music

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