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2011年3月 3日 (木)

コンヴィチュニー演出 リヒャルト・シュトラウス サロメ 二期会オペラ公演 Bキャスト 2/26 ③

【オペラと関係】

ところで、このページをご覧のみなさんにとって、オペラの中でもっとも大事だと思う要素は何であろうか。音楽、プロット、歌、オーケストラ、演技、衣装、装置・・・。私がその中でも特に重くみるのは、「関係」である。もっとも関係は、あらゆるジャンルにおいて、いつも重要な位置を占めているのに、私たちがそれと気づかないもののうちのひとつに入る。例えば、ヴァイオリンとピアノのソナタにおいてさえ、2つの楽器を結ぶ関係の深さは、音楽の価値を決めるほどに大きいものである。たとえひとりでピアノを弾くにしても、和声とリズム、ペダル、打鍵などの関係がしっかりしていなければ、音楽のもつ本当の輝きが浮かび上がってこない。

 お気づきのように、これらの「関係」は、アンサンブルとかコミュニケーション、アーティキュレーションなどと呼ばれている要素である。

しかし、オペラにおいては、もっと具体的で、はっきりした関係がある。言うまでもなく、オペラは人間が人間と向き合う劇だからである。個々の歌の独立性によって「関係」が断ち切られているナンバー・オペラや、登場人物がひとりしか登場しないモノ・オペラといった例外を除けば、多くのオペラは人間の「関係」を問題にしてきたし、そのなかに、すべての音楽的要素が集められているといっても過言ではないはずだ。

【機能と人格】

ただし、モーツァルトのような特例を別にすれば、舞台上の人物はなかなかオペラのなかで与えられるファンクションから、解放されるには至らなかった。とりわけドイツ・オペラは、それらのファンクションを徹底的に煮詰めて、理知的に組み上げることで成り立っているのであり、その傾向は現代においても継続しているといえるだろう。これに対抗し得るのは、イタリア・ベルカント・オペラのもつ直感である。そのなかでヴェルディは例外的なものであって、ある意味ではドイツ的ともいえる特徴をもっている。

ワーグナーの作品の偉大さは、上のようなドイツ的なオペラの発想で徹頭徹尾、構築された作品にもかかわらず、登場人物たちが、そこで位置づけられたファンクションを飛び越えるだけのエネルギーを持ってしまうという驚くべき事実にある。例えば、ワーグナー自身が『マイスタージンガー』で表現しようとしたものが、強いナショナリズムに貫かれた国粋的な発想にすぎないとしても、ハンス・ザックスの人格の素晴らしさはそれをはるかに越えた普遍性をもっている。ザックスは、ワーグナーの意図したファンクションを越えた役割を演じることで、作品自体を飛び越えてしまうようなリアリティ(人格)を備え、あたかも作曲者の手を離れて、舞台上で自らを生きているかのような姿をみせる。

その点で、甚だ奇妙なはなしであるが、ワーグナーは嫌いでも、その代弁者であるザックスは好きだということはあり得るのだ。

【R.シュトラウスの立場】

ときにリヒャルト・シュトラウスが、熱心なワグネリアンだったことはよく知られている。しかし、現代のワグネリアンから見て、この作曲家は両極端の評価を受けているように思われる。その理由は、シュトラウスがドイツ的なファンクションを巧みに用いながら、イタリア的な直感をもふんだんに利用し、ところどころ、辻褄の合わない部分を見せるせいであると思う。例えば、彼の最後のオペラである『』カプリッツィオ』でも、ワーグナーならばこうであると決めつけなければすまないところ、ヒロインは結局、あっちもいいわ、こっちも捨てがたいわと悩み抜いて、そのまま結論を出さないで終わるというわけだ。ワグネリアンのなかでも、特に男根的な魅力につよく惹かれるタイプの人たちは、シュトラウスの作品のこのような女性的な部分の生にえに業を煮やすことになるだろう。

また、『ばらの騎士』でも、本当は年をとったマルシャリンとオックスが遅すぎた恋の実らぬことを嘆き、若さを懐かしむ作品にすぎないのに、特にマルシャリンが自らの愛欲を打ち捨てて、身を引くことの格好良さを引き出すような解釈のほうがむしろ主流になっている。

そのなかで、『サロメ』という作品は、どのように位置づけられるのであろうか。シュトラウスの単なる耽美的な作品にすぎないと捉えるか、あるいは、もっと前衛的で、攻撃的な風刺性をもった作品であると捉えるかで、作品に対する見方は大きく変わってくることになる。一見、後者のほうが格好良く、理知的で好意的な評価のように見えるけれども、作曲者の本質を考えれば、むしろ前者のほうが素直な見方というものだ。

【コンヴィチュニーの場合】

コンヴィチュニーの場合、アングラ演劇の出身で、「読み替え」バリバリの過激な演出家というステロータイプから見れば、実はこれらの複合で、耽美的なところを突き詰めることによって、かえって鋭い風刺性を引き出していくタイプの演出だった、という説明は非常にわかりやすいものとなりそうである。

だが、私はそこに本質があるようには思わない。コンヴィチュニーが描きたかったものは、そのような類型ではないはずだから。彼の演出は、既に述べてきたように「生きている」ものであり、そこに立っている人間が・・・たとえ名前もない、どちらかのナザレ人ひとりであろうと無意味であることはない、という前提に立って構想されている。舞台上だけではなく、ピットの中にも繋がっていく関係の輪を、どのように表現すべきなのかを、彼はいつも考えているはずだ。必要とあれば、バス・クラリネットの奏者を舞台上に上げてみせることも辞さなかったことを思い出そう(過去の、ティート帝の慈悲の演出)。逆にいえば、その必要性がないところで、何かを付け加えるということはあまり好まない演出家なのである。

この言葉には、コンヴィチュニーの演出をよく知る人ほど、首を傾げるにちがいない。

だが、この部分をいま、詳細に説明してみせることは敢えて避けたいと思う。言葉尻や見かけの問題、あるいは、類型的な見方ではなくて、もっと柔軟にイマジネーションを働かせてもらいたいと思う。そうすれば、コンヴィチュニーは確かに多くのトリックを仕掛けるが、本質的なところでは、とてもシンプルな表現に徹している演出家だと気づくことができるはずだ。歌役者はまず、そのシンプルさを発見することから始め、次に、それを聴き手に伝わるように・・・しかし、説明的にではなく、舞台上でそのアイディアが生きものとなるような自然さのなかで表現する術を探さなくてはいけない。そして、それらを組み合わせて、演出家の意図した関係が、リアルな結びつきのなかで浮かび上がるように工夫を重ねていくのである。

それでは、今回の歌役者たちはどうであったか、それが次なるテーマとなろうか。

(④につづく)

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コメント

コンヴィチュニー演出の「サロメ」に出演させて頂いた、山下牧子です。
田村さんからもコメントがありましたが、このように感じて、発信して下さる方がいらっしゃることを、とても嬉しく思います。

私自身、初めてコンヴィチュニーの舞台に関わったのですが、本当に、出演者同士に、日常ではもちろん、他の舞台では経験したことがないほどの、濃い関係をもたらしてくれました。
オペラに出演する上で、初めての体験でした。

私にとっては、幸せで、今後生きていく勇気をもらった舞台なのですが、見に来て頂いた方の多くが、残念ながら否定的な感想を持たれたことも事実で、公演が終わったにも関わらず、スッキリしませんでした。
しかし、こちらのサイトを見つけ、読ませて頂いたことで、随分と思考が整理することができ、やっとスッキリしました。
やっと次にむけて、踏み出せる気がします。

お礼をお伝えしたく、コメントさせて頂きました。
ありがとうございました。

山下さん、まずは素晴らしい舞台をありがとうございます。

尊敬する・・・というか、東京文化会館でのリサイタルや、大宮のバッハアカデミーまで出かけていって『冬の旅』を聴かせてもらったような歌手の方から、望外の言葉をいただけたことは私の誇りとするところとなるでしょう。

確かに、私の知り合いにも、この演出に対する怒りにも似た嫌悪感を示す方がいらっしゃいます。しかし、私としては、いま、次の記事に書いているところなのですが、山下さんや大隅さん、それに経験の浅い片寄さん、友清さんなどの歌声に次々に触発され、こころの扉がひとつひとつ開いていった特別な舞台であったと思っています。


ひとつの声を支えるために、これだけ多くの命が関わり、互いに影響しあう舞台というのは、なかなか見られるものではないと思います。そして、この舞台を見ていると、途中にも書いたように、自分を鏡で見ているような気になってきたのです。その象徴としての、扉の場面は、いま思い出しても涙が出てくるほどです。

田村さんにしろ、山下さんにしろ、ここにコメントは下さっていない大隅さんにしろ、みなさんが口を揃えて特別な舞台だったと仰り、勇気をもらったと仰るような今回のプロダクションは、決して、出演者だけが喜んでいるようなヨガリの舞台ではなかったはずだと私はつよく信じておりますし、その信念に従って記事を書いています。

その影響力ははなはだ微力なれども、山下さんのような傑出した歌い手の背中を、少しでも押すことができたとするならば、それは私にとって天にも昇るような喜びなのです。

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