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2011年3月17日 (木)

田村響 ピアノ・リサイタル & 計画停電下の街の様子 3/14

震災後、初の演奏会に出かけて参りました。計画停電初日ですし、まだ早いかなとも思いましたが、このまま地震や原発のことばかり考えていると気が滅入ってきそうですし、ただでさえ好況とはいえない音楽業界のためにも、消費を抑えすぎるのもいけないと思いました。この日は非番でしたから、街の様子も知りたかったし、気分転換にも良かったのではないでしょうか。羽目を外さない範囲で、みなさんがいつもどおりに楽しまれることは、この国にとって、決して悪いことではないと思います。

もちろん、安全性の確保や、消費電力節減の問題、交通機関の不安定な状況などもありますが、それらに配慮した上で開催を決断したところには、私はなるべく足を運びたいと思っています。

【計画停電下の上野】

この日、やはり、街は閑散としています。朝方は通勤客が駅を埋め尽くす大混乱となったようですが、夕方には、それも収まっていました。17:00すぎに池袋駅で最前列に乗った山手線の外回り線は、西日暮里あたりまで大変な混雑でありましたが、日暮里駅を過ぎるころにはガラガラに。朝のラッシュ時は、さぞや大変だったことでしょう。上野駅はもう、がらんどうとしていて、この時間、17:00で閉店したアトレ全店舗のほか、既にオープンしていないお店が多かったようです。不忍口から駅の上を歩いて公園のほうに向かっていきましたが、本当に寂しい雰囲気。上野の森のほうはいつにも増して暗く、静寂に包まれています。

めざす東京文化会館もいつもより薄暗く、台東区の含まれるグループに計画停電が予定されていた時間帯とあってか、大幅に照明を落としているようでした。学生や、家族連れの姿も見当たらず、静かな上野公園でした。

【演奏会冒頭に追悼演奏と黙祷】

演奏会は、予定時間どおりに始まります。演奏会冒頭、田村はやはり、今回の震災についてコメントしましたが、マイクなしで声が小さく、あまりよく聞きとれない部分もありました。プログラムに先立って1曲を演奏し、これを被災者に捧げたいので、演奏後には黙祷をしてくださいという内容だったと思われます。響きからは、彼の想いがしっかりと伝わってきて、良質なコミュニケーション力をもった優れた弾き手となりつつあることを感じさせます。

このコミュニケーションということについて語る場合は、クシシュトフ・ヤヴォンスキが師匠のアンジェイ・ヤシンスキについて言っていたことを、しばしば引用します。曰く、ヤシンスキのいちばん凄いところは、その響きを通じたコミュニケーション能力である。ヤシンスキの演奏を聴く者は、彼がピアノを通じてコンタクトしてくるのに逆らえず、その温かみから逃れることができないのだという意見を述べています。私は、田村にもこのような特別な要素があると思いますが、まだ、それを完全に使いこなすところまではいっていません。最初の曲では、震災に対するつよい想いが、彼を手助けしてくれた可能性もあります。

【6年前とは別人】

実は田村の演奏は、6年も前に江副育英会奨学生によるのコンサートで耳にしているのですが、そのときは本当に虫の泣くような音で、吹けば飛びそうな弱々しさでしたが、その彼が、あんなにパワフルなリストを弾けるようになったとは驚きです。6年前の繊細さはカラフルで、慎重な音づくりに発展的に残っており、まだまだ良くなりそうなポテンシャルを感じました。そして、あのときはもう、客席になにかを届けるということさえ覚束なかった彼なのに、1つ1つの音色やフレージング、テンポ感、パウゼの取り方などに、明確な意思が感じ取れるだけではなく、その意図を客席と共有するというレヴェルまで達しています。

6年前とは、別人のようです。

【なんとなく時節にあったプログラム】

今回は、ショパンとリストの作品によって構成されたプログラムでした。こじつけかもしれませんが、これらのプログラムは偶然にも時節を捉えたものといえます(そうでなければ、ここに来ません)。まず、前半のメインは、ショパンの「葬送」ソナタです。

次に、リストのバラード第2番は確証はないものの、クラウディオ・アラウをはじめとする一部の研究者は、ギリシア神話のへーローとレアンドロスの素材が、もとになっていると指摘しています。レアンドロスは恋人に会うために泳いで海を渡るのですが、徐々に状況は困難となり、最後は「溺れて」死んでしまい、ヘーローは恋人を追います。最後に演奏した『ダンテを読んで』は、ダンテによる大著『神曲』の「地獄篇」をもとにしています。この作品を実際に読み通したことはないのですが、「地獄篇」では地上で罪を犯した者たちが罰を受けるなか、ダンテとその精神的な師であるウェルギリウスがともに脱出を図る筋書きとなっているようです。『神曲』には政治的な意図や宗教的な読みもあり、読み解くには甚だ複雑な書物のようですが、とりあえず、さしあたっては今回の震災でも方々で地獄絵図が展開していることを重ね合わせてみるだけでいいでしょう。

そんな状況のなかで、唯一、希望を与えるのが愛だと思います。ショパンの歌曲『わが愛しのひと』の編曲が、バラードとダンテの間に演奏されました。

もちろん、田村はこの震災を予見していたわけではなく、生と死のなかに、生きる人間のロマンティシズムを見つめるようなプログラムを構想したのだと思います。そして、死と罪という2つの悲劇を前半と後半のメインに置き、すべてを奪い去っていくようなショパンの終楽章に対して、わずかに光の注す後者をあとにもってくることで、最終的に音楽による悲劇の克服というプログラムを描いてみせたにちがいありません。そのプログラムが、震災の被害と悲しみという主題から、それに少しでも光を与えたいというピアニストの想いが相俟って、スピリチュアルな演奏になったものと想像します。空席は目立ちましたし、こころから音楽を楽しむ感じにはやはりなれなかったものの、田村については見直しました。

【昔ながらのショパン】

ただし、よく練られたリストに対して、ショパンの演奏は甘いと思います。ノクターンやプログラム中のワルツはわりに良かったのですが、ソナタや、アンコールで弾いた曲目はあまり感心しませんでした。ソナタは1つ1つの打鍵を几帳面に大事にしていく姿勢が、かえって仇となっています。ソナタやファンタジー、アンスピ、ポロネーズといった作品では、音の捨て方が重要になってきます。つまり、大事な打鍵とそうでないものを区別し、音はあってもスペースが空いているという状態にして、そこに聴き手のイマジネーションを導かねばならないのです。

田村の演奏ではすべての音が粒だっているために、かえってショパンのもつ響きの優しさが浮かんで来ず、かえって力ずくのものに思えてしまいます。特に、「葬送」ソナタでは、葬ろうとする死者との間にあった思い出をそうした緩いスペースが生み出してくれるのですが、田村の演奏ではあまりにも骨組みが露出しすぎているために、聴き手の想像力が働く余地がないのです。通常のソナタ形式に従った構造の積み重なりという点では充実しているのですが、この作品の核である「葬送行進曲」に入るまでに十分な感情の溜めがないことから、作品はいかにもドライな感じに思われます。

同じショパンであっても、(op.18)のワルツなどは、とても上品で、爽やかな解釈に思われました。派手な曲なのに、こうした時節にも相応しい品格を備えています。この曲に関しては、ブレハッチよりもいいと思いました。しかし、リストはどの作品も自分のアタマで考えたイメージが鮮明なのに、ショパンは昔ながらの・・・つまり、子どものときから弾いていたイメージがそのままというものも多いように感じられ、特にアンコール・ステージではその傾向がはっきり感じられます。アンコールの2曲は弾かないほうがマシで、むしろ演奏会の雰囲気を盛り下げることになっていたのではないでしょうか。

【リストはそれぞれに見事】

一方、リストでは上のような打鍵の総花的な美しさが、煌びやかな、整然としたイメージを形成してくれます。とりわけ素晴らしかったのは、『バラード第2番』です。この作品では物語的なイメージと、構造的な鋭い見識、それらをつなぎ合わせる響きの要素がうまく噛み合っており、特に最後の音色の要素が田村のゆたかポテンシャルを思わせるものでした。あのような響きが出せるのであれば、フォーレやラヴェル、それにドビュッシーなどを弾いてほしいと思わせてくれたものです。

最後に演奏した、『巡礼の年・第2年/イタリア』に含まれるソナタ風幻想曲「ダンテを読んで」は、『神曲』のイメージを借りながらも、形式に捉われない自由な発想で作品を組み上げたリストの想いを、そのまま形にしたような奔放さ。それでありながら、きっちりと「ソナタ風」にまとめあげる手際の良さをも備えた作曲者の器用さをしっかりと表現しています。最初にモティーフを散らすときに、さりげなく、しかし、きっちりと聴き手にイメージを与え、それらをきれいに組み上げていくときの素材の扱いが、実に誠意に満ちたものなのです。

演奏はバラードとはまた異なり、アーティキュレーションに焦点を絞った知的な構成となっています。ドラマトゥルギーにあわせた強弱や、和声の凝ったアーティキュレーションが美しく、特にこの作品では、和声の整然としたアピールが耳を惹きました。ただ、もうひとつ重要なのは、リストのもっていた信仰心であることもメッセージとして読み取れます。それらについては天国から注しかける響きとして、とびきり爽やかで、輝かしい光をもった打鍵でくっきりと輪郭を示していて、地獄絵図のオカルト的な描写ではなく、そこから抜け出ていこうとする魂の逞しさに焦点を合わせている点が、田村の傑出した表現センスを示しているように思います。

【まとめ】

まだまだステージ・マナーも硬く、聴き手に対して必要以上の緊張感を与えてしまうのが歯がゆい限りでした。最初の曲にみられたように、彼の傑出した才能の第一は、実はコミュニケーション力です。その点を意識的に大事にして、聴き手との一体感を導くようなステージングを学んでほしいと思います。次に来る彼の良さは、音色の多彩さと繊細さでしょう。そして、最後に和声のアピールの精確性が来ます。これらを素直に生かせるようなピアニストになれれば、彼は世界を驚かすような才能を発揮できるはずです。

なお、この演奏会を開催するか否かについては、ぎりぎりまで大きな迷いがあったようです。会場である東京文化会館を管理する東京都からは、主催者に対して中止を促す働きかけがあったものの、主催者はつよい想いで開催を主張し、都を説得して条件付きの開催を認めさせたという話が、内情を知るらしい人物から報告されています。

今後、このような演奏会を開催することはとても難しい判断になり、リスクもつきまとうことになります。こんな時節に音楽会なんて・・・という批判も出てくるでしょう。その際、自分たちはどうして公演をおこなうのか、何のために活動するのかということが、よりつよく問われることになります。オーケストラをはじめとする主催者のみなさん、あなたたちの良心と、つよい想いがあるのかどうか、いま厳しく問われていますが、勇気と英知を以ってこれに立ち向かい、人間に喜びと精神の逞しさ、そして、癒しを与える音楽を守り抜いていただきたいと願います。

そのなかで、田村響自身と、その活動を守り抜いた主催者の決断を賞賛するものです。

なお、この日の使用ピアノは、ヤマハの最新鋭器であるCFXだったそうです。ピアノの良し悪しはわからないものの、彼の表現にはよくあっている感じをもちました。強奏した場合の響きのゴージャスさや柔らか味については注文もありそうですが、とりわけ、中・低音には芳醇な響きをもつピアノであるという印象をもちました。

【プログラム】 2011年3月14日

1、ショパン ノクターン op.9-1

2、ショパン ワルツ op.18 「華麗なる大ワルツ」

3、ショパン ノクターン op.15-2

4、ショパン ソナタ 変ロ短調

5、リスト バラード第2番

6、ショパン/リスト わが愛しのひと~6つのポーランド歌曲

7、リスト ダンテを読んで~巡礼の年・第2年/イタリア

 於:東京文化会館(小ホール)

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