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2011年3月24日 (木)

二期会ロシア東欧オペラ研究会 10周年記念公演 ルサルカ/サルタン王物語 3/22

二期会の研究会のひとつ「ロシア東欧オペラ研究会」が、10周年を祝う記念のコンサートをおこなった。

【平静を保つことこそ最善】

ご多分に漏れず、やはり彼らもこの時期に、敢えて演奏会をおこなうべきかどうかについては悩んだということだ。こんなとき、いま流行の文句は「苦難のときこそ、音楽を通してみなさんを元気づけたい」というものであるが、私はその種の「言い訳」には多少の安易さを感じ、違和感をもっている。むしろ、自分たちが平静を保ち、その活動をなるべくいつもどおりに守ることが我々の生活、ひいては、日本のあるべき姿を守ることになるのだということのほうが、はるかに大事なことだと思わないだろうか。少なくとも私はそう信じて活動しているし、音楽家やオーケストラの諸君、そして、聴衆たちだって、できることなら、そうできることを願っているはずだ。

石原慎太郎氏のように、津波によって「我欲を洗い流せ」などというのは傲慢である。そうではなく、その自然な衝動に無理なく応えてやることが、どれほど人間にとって大事かということに注目すべきだろう。

もちろん、この時節、常にも増してつよい想いがなければ、事態の難しさを乗り越えるような感動的な公演をつくることはできないことは当然である。しかし、イスラエル・フィルは祖国が生き残れるか/滅びるかという最中にも演奏をつづけていたというし、第二次大戦下のペテルブルク包囲戦では、ナチスによる厳しい半包囲の欠乏のなかで、音楽がペテルブルクの人々を勇気づけたとされている。これは他国の物語ばかりではなく、わが国でも欠乏と大いなる犠牲に包まれた太平洋戦争の最中、数多くの邦人作品が初演され、その時期は以外にも日本人によるクラシック音楽の創作史のなかで、稀にみる内容ゆたかな時期にも当たるという(長木誠司氏)。また、終戦の迫る1945年6月13日、空襲警報の鳴り響くのも厭わず日比谷に集った聴衆は、日響の演奏する『第九』で戦中期、最後となる演奏会を楽しんだほどなのだ。

この時節、音楽会をやることは、決して不謹慎な出来事ではないのである。

【厳密なルサルカ】

さて、そういうわけで、客席を巻き込んで1分間の黙祷のあと、舞台が始まった。まず前半は、ドヴォルザークの歌劇『ルサルカ』の抜粋である。題名役は、津山恵。二期会本公演では『イェヌーファ』の題名役も歌ったことがある彼女だが、そのときはたしかドイツ語歌唱であった。有名なアリア「夜空の深みに浮かぶ月よ」(通称、月に寄せる歌)は、大泉学園ゆめりあホールでおこなわれた彼女のリサイタルで聴いて、とても感動的だった記憶がある。津山の「月に寄せる歌」はヴィブラートに頼らず、清潔で厳しいフォルムによって、ルサルカの一途さを印象づけるものだった。どちらかといえば、この役の主流はもっと強かな芯のある歌い方で占められているが、あの日の津山の歌は、いつまでも私のイメージのなかで貴重な位置を占めているのである。

ただし、今回はその厳しさだけが目立ったと言っておく。原因は、伴奏の稲葉和歌子との呼吸がうまく合わなかったことにあり、その点、津山にとってのベスト・パートナーである服部容子とはちがったということに尽きると思う。津山はこの歌のフォルムを以前よりもさらに細かく練りなおし、聖歌のような清らかなスタイルではじめて、そこから徐々に詩情を膨らませながらも、ルバートのような構造も織り交ぜつつ、上品に歌のフォルムをふくよかにしていくというヴィジョンを組み立てていたようだ。しかし、基本的にインテンポを好しとする稲葉は、なかなかそのような自由な発想に乗ってくることはない。結果として津山は少しずつ自分のペースを崩していき、完全に自分の思いどおりに歌うことはできなかったのだと思われる。

とはいえ、その範囲であっても、津山のルサルカはやはり素敵だった。今回、同研究会が二期会のスタジオでやったときよりも朗唱の部分が増えているように思うが、津山は以前に比べて、そういう部分で長足の進歩を見せている。彼女もまた、『エフゲーニ・オネーギン』のときにコンヴィチュニーの指導を受けているが、この演出家の洗礼を受けた歌い手は大抵、そうした部分で自分の殻を破ることを厭わなくなるし、より積極的で、人間的な表現を試みるようになっていく。それがまた肝心な部分に良い作用を及ぼすことになるし、そうして歌手は自らを育んでいくための大きな武器を手にするわけだから、多くの歌手がコンヴィチュニーに感謝するのも無理はない。

津山は明らかに、この素晴らしいサイクルのなかに自分を置いている。その意味で、個性的なアリアにも増して、この日のハイライトは第2幕、王子を喪いそうだとヴォドニク(水の精)に訴える場面にあるのである。この場におけるルサルカは父性的なヴォドニクにも、もちろん、恋人であるはずの王子にも受け止めきれないほど、つよい力を発する。それはルサルカの強烈な愛情と、その裏にあるふかい不安によって生み出されるものだ。

【キャラクターの変化を捉える】

ここで『ルサルカ』論を展開するのもまた面白いが、今回、それは止しにして、このことについて再び津山の美点について示したい。私はこの歌手の表現力の素晴らしさをつよく支持しているが、そのなかでも何に驚くかといえば、やはり、キャラクターの変化を表現するのが抜群に巧いことである。例えば、『オネーギン』のタチアーナの場合は、それがそっくり作品のモティーフになっているわけで、「手紙の場」のタチアーナと、公爵夫人となった彼女をはっきり演じ分けていた津山の演唱の鋭さを記憶している人も少なくないと思う。私は初めてヤナーチェクの舞台で彼女の歌に接して以来、多くの舞台でそのことを経験してきた。

今回、第2幕の場面は池のほうに出てきたルサルカとヴォドニクが再会して、ルサルカが窮状を訴える場面からいきなり始まる。それでも津山はヴォドニクに出会い、言葉が戻った瞬間をはっきり呑みこんで、自分で意識するだけではなく、それを聴き手と共有したうえで歌い始める。彼女のあたまのなかでは、あの短い転換の間だけで、まったく新しいルサルカ像が動き始めている。実際、これは物凄い集中力であったのではなかろうか?

【ルサルカと震災】

本来であれば、最後、題名役が黒田美代子にバトン・タッチして、第3幕で水の精に戻ることも、人間の妻になることもできず、「私をなぜ死なせてくれなかったの?」と嘆く部分が歌われるはずだったが、歌手の病気が癒えなかったために、第2幕までで舞台は終わった。今度の震災に際して、この歌はとてもよく符合するところがあるので楽しみだったが、残念である。

というのも、いま、避難所では、かつて戦争を生き残って「しまった」人たちのように、自分がここで生きていることが申し訳ないと思っている人が相当いるらしいからだ。文化放送制作のラジオ番組『セイヤング21』のなかで、甲斐よしひろ氏(ロック・ミュージシャン)が話していたことによれば、テレビ中継の際のインタビューのなかで、上のような想いを吐露した被災者に対して、番組の司会を務める池上彰氏はつよい口調で、そんなことを言っては駄目だ、生きてください・・・と激励する言葉を送ったそうである。結局、ルサルカは王子の命を奪い、池のなかへと消えていくことに変わりはない。しかし、次のように美しいメッセージを残していく。

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

Za tvou lásku, za tu krásu tvou,
za tvou lidskou vášeň nestálou,
za všechno, čím klet jest osud můj 

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

これはどんな犠牲も無駄であるというヴォドニクの嘆きに応え、「あなたさまの愛、そして、美しさ、移ろいやすいひとの情熱・・・私はそうしたものすべてに命を賭けました」という意味である(オペラ対訳ライブラリーによる)。賭けに敗れようとも、その美しさは永遠に残る。池上氏のつよい呼びかけと、このルサルカの想いはつながっているはずだ。

【サルタン王物語の構造美】

なんといっても、『ルサルカ』はリリカルな作品だが、リムスキー=コルサコフの『サルタン王物語』はもっときっちりした構造の作品と思える。一見、寓話のエッセンスの溶け込んだ陽気な喜劇のようにも見えるが、そのなかで、リムスキー=コルサコフは驚くほど実験的な手法と、コラージュ的なイマジネーションを思いきって動員している。以前、二期会のスタジオで観たときは、ミリトリーサを中心としたオンナの成長と幸せを描くものにすぎなかった。それがここに至るまでに、もっと作品の構造そのものを丁寧に追うプロダクションに仕上がっていた。

印象的なのは、最初の場面である。末嬢のミリトリーサが忙しく働くなかで、姉たちがのんびり歌う旋律線。それはピアノ(伴奏)の左右の手の動きで印象的に物語られる。やや説明的ではあるが、ピアノの忙しない伴奏形に沿って掃除の手を動かすミリトリーサと、のんびりと展開する旋律線にあわせて、ダラダラと仕事の手を動かす姉たちの動きを示す大島尚志の演出はわかりやすい。

このほか、ライトモティーフ的に展開する素材のわかりやすい提示と、シンフォニックに構造が規則的に広がっていくなかで、寓話劇の筋が上手に糸口を見つけて延ばされていくのがはっきりわかり、むしろピアノ伴奏であることがメリットとなるような面白さである。そのピアノのラインを支えるのは、小笠原貞宗である。ロシア語ディクションや構造の波をしっかり捉えた演奏で、堂々たる厚みを誇る。

前半は、ババリーハを歌うベテランの筧聰子を中心に、末嬢いびりの3人がアンサンブル的に親密で、舞台を盛り上げる。岸本と筧はともに、ロシア語のオペラや歌曲につよい関心をもってきた歌手だけに、そのディクションの柔らかさがほかの人とはわけがちがった。筧はフィジカルな面での衰えも目立つが、岸本のほうは、まだいつでも主役を張れそうな重厚感がある。末嬢を演じた小森美枝もいいが、最初から押しが強すぎるのはどうか。ババリーハらの姦計のあと、有名な「熊蜂の飛行」以降、棒の先についた蜂の模型を王子自身の役者が操るのは、スタジオでやっていたときと同じ。ババリーハと姉2人が刺されて、赤いこぶが出るところなど学芸会的だが、作品のキッチュなコミカルさを訴えるには、十分に効果的だ。

フィナーレの歓喜の合唱は、『ルサルカ』のキャストも含めて全員が登場して声をあわせた。この部分は総じて、ベートーベンの『第九』のパロディになっているのが明らかで、コードをずらして、それとわかるように露骨にやっているのがわかるだろう。この作品は大体が、ベートーベンとワーグナーのパロディでできているのだ。合唱はミュージカル的なとても温かい雰囲気に包まれ、もともとこの日のようにちゃんとした衣裳とてなく、手づくりの衣裳を持ち寄って、二期会の練習場でこじんまりと楽しんでいたような公演を知る者としては、快哉を叫びたくなる楽しさだった。やってよかった/やってくれてよかったと思わせる幸福なフィナーレで、作品の持ち味も生かしているといえるだろう。

【サルタン王物語と震災】

サルタン王は最後、お前たちの悪巧みがなければ、こんな素晴らしい結婚を体験することはなかったろうといって、その罪を赦す。この辺りが、今回の震災に遭われた人たちを励ますメッセージともなり得るだろう。もちろん、この悲惨な被害を忘れることなどできないだろうし、そのダメージから立ち上がることは相当に困難であるはずだ。そのことは、我々にとって想像すべくもないほど辛いことであって、軽々しく言うべきでもない。でも、いつの日か、あの忌まわしい体験があったから、いまの幸福があると思えるような日が来ることを、誰もが望んでいると私は信じる。

もう死んだと思っていた人が、ほかの国で生きているなんて奇跡はないかもしれないが、多くの人たちが「義経伝説」(平泉を逃れてモンゴルに渡ったなどという荒唐無稽な伝承)を信じたように、我々の行方知れずの家族たちもきっと、どこかでいのちを取り留めているものと信じたい。もしも亡くなっていたとしても、彼らの魂にもう一生、出会うことができないというわけではない。「私のお墓のまえで、泣かないでください。そこに、私はいません。眠ってなんていません。」という流行歌もあったことを思い出そう。

リムスキー=コルサコフの『サルタン王物語』は、底意として政治的な風刺を含んでいるにしても、とても大らかな作品だ。この大らかなメッセージを、『ルサルカ』の甘く、しかし、どこまでも厳しい詩情と見比べてみるとき、同じスラヴ圏でも、ロシアとチェコの微妙な差が見えてくるようでもあり、興味ぶかい感じがする。

二期会の研究会活動にひろく通じているわけではないが、ロシア東欧オペラ研究会の活動はとても気に入っている。上演に際しては、進行役の大島が筋書きを説明してくれるし、ロシア語やチェコ語に通じていないと、楽しめないということもない。是非、チャレンジしてほしいと思う次第である。

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