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2011年4月 3日 (日)

尾高忠明&読響 マーラー 交響曲第5番 東北関東大震災 被災者支援チャリティー・コンサート 4/2

東京・春・音楽祭も、ようやく4月に入って動き出した。入場者にもれなく配られる分厚い冊子のなかに紹介されていた企画は、そのほとんどが中止になったものばかりである。そんななか、「NOMORI」企画には非常に冷淡な態度をとってきた私だが、震災チャリティ公演として組まれたこの演奏会には、勇んで足を運んだものである。読売日本交響楽団を指揮するのは、尾高忠明。演目は、マーラーの交響曲第5番。折角の忠さんなら、エルガーかブルックナーのほうがいいのになあと思いながらも、元来、「大地の歌」をやるはずの公演だったのだから、それも止むを得ないところ。しかし、素晴らしい演奏だった。

【理由のある公演は面白い】

幸か不幸か、この時期におこなわれるコンサートは「なんでやるのか」がハッキリしている分、聴き手と音楽家のコミュニケーションが近しくなっている。音楽を別の目的のために利用するのはいいことではないが、そういう意味ではなく、音楽が人々励まし、その力に応えて何かをしたいと願う聴衆のこころを動かして、それが実際に寄付金のような形となって表出されるならば、決して芸術の悪用とはいえないはずだ。実際に家族や知己があるかどうかはともかくとして、東北や北関東でおこなったことをなるべく身近に感じようとして、人々はいろいろな行動をとっているように思える。東京だって、いまや安全な場所とは言い難い状況であるが、我々の困難は被災地のそれに比べれば、ずっと幸福で、穏やかだ。

客席は、6割ぐらいが埋まった。最初にバーバーの『弦楽のためのアダージョ』が、今度の震災で亡くなられた人たちの御霊に捧げられた。美しく・・・寂しい演奏である。当然、拍手はなし。厳粛な雰囲気。10分の休憩を挟んで、マーラーの演奏が始まる。

【ファンファーレに込められた想い】

背筋を伸ばし、長谷川首席のトランペット・ファンファーレが高々と響いた。テンポは遅く、1つ1つのフレーズに想いを載せるかのようにして吹ききり、そこにかかる重みが物凄かった。有名なファンファーレだが、こんなのは聴いたことがない。彼らがどういう想いで演奏するのか、あのファンファーレを聴けば、はっきりわかったはずだし、この演奏会は特別なものだと誰もが認識した。テンポは誇大主義に陥る可能性も秘めていたが、その点については尾高がしっかり手綱を引き締めるから、その心配は杞憂におわった。むしろ、この速さにア・テンポしたときのベースの清らかさと、その裏にへばりついたスピリテュアルな表情が、いつまでも聴き手の脳を刺激するようだった。

【指先まで神経の行き届いた演奏】

このファンファーレに限らず、踊りに譬えれば、「指の先まで神経の行き渡った」音が次々に響いてきた演奏会である。

例えば、コンマスのデヴィッド・ノーランは、いつもはクールなタイプであるのに、テンシュテットが率いたLPO時代の魂を復活させたかのように、鬼気迫るボウイングでアンサンブルを燃え上がらせた。そのアクションは大胆で、スリリングな発想に満ちているが、実はきわめて合理的でもあり、弦の性能を遺憾なく生かすために最適のものであることは想像がつく。特に、強奏部におけるテンションの上げ方は神がかっており、改めてコンマスの役割の重要さを認識させた。一方、対角線上でチェロ・パートを引っ張る毛利伯郎の唸りを上げるかのような弦さばきも常以上の鋭さを示す。

そして、岡田全弘のティンパニは、彼にとって一生のなかでも数えるほどの奇跡的なパフォーマンスではなかっただろうか。特にソロでは音程の精確さが際立ったが、それ以上に、その響きのなかに溶け込んでいる表情の冷徹さに鳥肌が立った。読響のティンパニというと、定年で退職した菅原淳が有名だったが、後継の岡田の成長はここのところ著しいように思う。

もちろん、長い曲なので、いくらか目立つミスも出なかったわけではない。長谷川の最初のファンファーレにしても、ひっくり返った音がひとつだけあったが、そうした揚げ足とりはまったく意味をもたない。

【構想の勝利】

さて、そのようなクラスタたちの充実のなかで、当夜のマーラーは構想の勝利でもあった。数ある「マーラー演奏」のなかでも、特にドイツ本流の整然とした美しいフォルムを示したことで、作曲者に対してとりわけ好意的なイメージを与える演奏であったと思う。尾高の目には、マーラーという作曲家は、20世紀におけるバッハ的な「総括者」として映るのであろう。特に、前世代のワーグナー派 vs ブラームス派的な対立の構図からみると、マーラーは両派が重箱の隅をつつきあいながらいがみあっていたものを、いとも簡単に和解させて用いているようにみえる。それだけではなく、『魔弾の射手』やワーグナーのオペラに見られるような要素、イタリア・ヴェリズモの要素・・・音楽史的には、ヴェリズモはワーグナー的な夢想の世界に対置されるものだが、ここでも、相反するものの要素が呉越同舟できれいに位置を占めているのがわかる。

ヴェリズモはロマン派の否定から生まれるという説明がなされることもあるが、後期ロマン派に属するマーラーは、少なくとも指揮者としては、ウィーンで逸早くマスカーニの作品を取り上げることで、自らの地歩を築いたりもしているのである。

【ドライな構造美】

さて、尾高の演奏によれば、最終楽章はどこまでも整然とした対位法的技法で構築されている。カノンやフーガの技法が縦横無尽に駆使され、そのベースを破天荒に破ったり、または、豪華に盛り立てることで、作品の構造は聴衆の目の前で組み立てられていく。そのような構造は一般的な知見のなかに入っているが、尾高の場合、この構造を変に盛り上げないのが特徴である。例えば、尾高にとっては師匠筋に当たるハンス・スワロフスキは右肩上がりの長いロッシーニ・クレッシェンド的な発想で、響きをつよく、ロマンティックなものに育て上げる。直弟子的なブルーノ・ワルターでさえ、その緻密な対位法の構築に、ロマンティックな展開の広がりをゆたかに重ね合わせる。

しかし、尾高はドライである。マーラーというよりは、もっと厳格なポリフォニーの構築に徹した尾高の演奏は、ある意味では無味乾燥かもしれないが、この日の雰囲気からは津波に押し流された地域が整然と機能を回復して、極端にいえば碁盤の目のように、きれいに整備されていくようなイメージをもたらす。バッハ的な世界観に始まり、それがブルックナーの築いた高みにまで到達したときが作品のクライマックスとなるのだが、ここに至るあたりでは、もはや、復興の力強いエネルギーが津波の強大な力をも跳ね飛ばしてしまうような印象さえ与えるほど、響きはつよく成長している。ただ、そのことは露骨に示されず、大事なところで、1回だけ強いインパクトで提示されるにすぎない。

それまでは、まったくもってさり気ない。さて、このクライマックスの至るか至らないかのうちに、マーラーはだるま落としの下を払うように、それまでの曲想を完全に粉々にして、なかったことにする。その後の展開については、しばらく割愛したいと思う。ただ誤解を避けるために付け足しておくならば、尾高はこうした整然とした構造の美しさを、ときどき、思いきったルバートによって揺さぶることも忘れない。マーラーの作品はやはり、ウィーンの伝統音楽に立脚しているのは明白である。

【天国と破壊】

ところで、マーラーとしては最終楽章において、津波云々ではなくて、天国を描きたかったのであろうことは、容易に想像がつく。死の賛美・・・これは決してキリスト教的には異常なことではない。例えばバッハも、イエスをその手に抱くまでは死ねないと運命づけられた老修道士が、ようやくイエスに対面して「われは満ち足れり」といって喜びのうちに死ぬカンタータをつくっている。キリスト教徒にとって、死は肉体からの精神の解放であり、主との一体化に一歩ちかづくことを意味している。マーラーはしばしば、現世を放り出して、あの世で安らかに暮らす夢想を作品のなかに組み込んでいるが、この作品では有名なアダージェトまでに死が象徴的に描かれ、終楽章はもはや天国の物語となっている。それゆえに、神聖なるポリフォニーの技法が厳格に用いられているのは当然であろう。

しかし、第1楽章に見られるような破滅的な破壊、僅かな創造さえも・・・まるで空中で崩壊するラピュタのように、つくった先から壊れていくようなイメージは、もちろん、津波と地震の恐怖へと我々を引き戻したかもしれない。その意味で、もしも地震に対する恐怖が依然、忘れられないような人があそこにいたとしたら、私としては居た堪れない気持ちになるのである。ただ、もちろん、それに対応するようにアダージェトは大事に演奏され、上のようなマーラーの真意は、緩徐楽章からフィナーレをアタッカでつなげるという英知により、見事に聴き手に伝わったと思われる。

尾高は多分、アダージェトまでになんとか祈りを済ませて、フィナーレでは、自分の得意なポリフォニーの手法を鮮やかに浮かび上がらせることで、既に示したような創造と復興のイメージをはっきりしたビジョンとして示そうとしたし、また、そのことによって聴き手を励まそうと思っていたにちがいない。最後の疾走するリズムのぶつかりどころでは、なんと尾高はぴょんと跳び上がり、響きを鼓舞する始末であった。

【まとめ】

細かくいえば、もっと磨きこめる余地はあったにちがいない。特に、スケルッツォなどは問題であり、大胆なルバートの構造がおっとり刀で表現されて、構造の軋みがうまく伝わってこない。このような響きはやはり、ウィーンのオケがもっともうまくやってのけるだろうし、逆に日本のオケはもっとも不得意とする分野である。ノーランの動きをみると、彼らが本来、めざすべきだったものがわかるが、彼ひとりではさすがに引っ張りきれないのである。

とはいえ、こうした状況下で、彼らはとにもかくにも、自分たちにできるベストを尽くしたと胸を張ることはできるだろう。その想いは楽器の響きを通じて、ヒシヒシと私に伝わってきたし、どの曲も感動的な演奏として、聴衆の胸に刻まれたことは想像に難くない。尾高と読響のコンビには、素直に「ありがとう(さぎ)」と言っておきたい。そして、この想いが少しでも、現地に届くことを願いたいのである。

【プログラム】 2011年4月2日

1、バーバー 弦楽のためのアダージョ

2、マーラー 交響曲第5番

 コンサートマスター:デヴィッド・ノーラン

 於:東京文化会館

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