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2011年4月30日 (土)

服部容子&冨平恭平 ~2台のピアノの物語 @東京オペラシティ(リサイタルホール) 4/28

【縁を感じるコンサート】

私はいままで神さまを真面目に信じたことがありませんが、ときどき、自分が選んだというよりは、そのコンサートに「見えざる手」によって招かれているような印象を抱くことが時折あるのです。空くはずのないスケジュールが急に空いてみたり、私の好きなプログラムが奇跡的にぞろりと並んでみたり・・・そういう日はわりに天候もパッとしたりして面白いものだと思います。

例えば、私が初めて札幌を訪れ(自註:音楽を聴くために行ったのは初めて)、エリシュカさんの演奏を聴こうと思ったのは、ドヴォルザークの6番がプログラムされたから。私はこの曲をノイマンの全集ではじめて知り、下野竜也&東響の演奏を聴くことで、ドヴォルザークの作品のなかでも特に愛着のあるものとして感じるようになっていました。

偶然は偶然を呼びます。もしも、下野竜也という指揮者に私がまったく共感しなかったなら、そして、札響が1回共演しただけのエリシュカをいきなり首席客演に担ぎ上げたりしなければ・・・また、噂になった都響での演奏を私が上野で耳にすることができていたとしたら、わざわざ札幌まで行って、エリシュカさんの演奏で「6番」を聴こうと思ったかはわかりません。私の母系は北海道出身で旭川にいたわけですし、以前、札幌には行きましたが、友人と一緒のスキー旅行で、しかも、私はスキーをしないので、もういちどちゃんと行きたいと思っていたこともあります。これらいずれの条件が欠けても、私は動かなかったでしょう。そこに、不思議な縁を感じました。そして、動いたことで、新しい出会いが生まれたのです。

前置きが長くなりましたが、要するに、この日のコンサートとも縁を感じたということが言いたかったのです。以前から行きたいとは思っていたのですが、仕事の調整がつかなかくて断念していたのに、前日の夜、急にスケジュールが変わったのでした。それでもギリギリの時間でしたが、神さまはちゃんと間に合う電車に乗せてくださいました。そして、演目として、私が(響きだけ)ソラで憶えているようなブラームスの『ハイドンの主題による変奏曲』とラヴェルの『ラ・ヴァルス』がプログラミングされています。なんという偶然でしょう!

【公演について】

これは、ピアノのデュオによるコンサートです。服部容子については、このブログでも再三、取り上げています。日本に在るオペラのコレペティトゥールのなかでは、多分、もっとも有能と思われるピアニストです。プロンプターを務めたり、企画にも携わって、日本のオペラ界で縁の下を支える仕事をしています。一方、冨平恭平は2010年の8月より新国立劇場のスタッフとなり、合唱指揮や下振りなどでの活躍が知られています。現在、イタリアに滞在中の三澤洋史に代わって合唱指揮の仕事をしていますが、昨年の『ヴォツェック』の公演では、くるくる回る舞台のうえでピアノを弾きながら出演したという人物でもあります。

2人とも、オペラとの関係は切っても切り離せないわけですが、意外にも、アンコールを含めて、オペラとはほとんど関係のないプログラムでした。代わって、2人が選んだのは、一見、派手で豪華にみえる作品の構造的な緻密さと、そのベースとなるドイツの作品の折り目正しい構造美についてのプレゼンテーションだったと思います。

【オーケストラを超える】

ブリジット・エンゲラー女史がラ・フォル・ジュルネのマスタークラスで話していたように、モダン・ピアノは、古い鍵盤楽器から音色(カラー)を奪いました。その結果、獲得したものが構造(和声を含む)に対する厳密さでした。ブーレーズが『構造』という実験をピアノのうえで行ったことは、理由のあることです。ムソルグスキーの『展覧会の絵』は、ラヴェル編で華やかに色彩されて美しく輝きますが、ピアノ版では、その構造がラヴェルの編曲によっては見逃しがちなところでくっきりと浮かび上がり、結果として、内面的にはずっとゆたかな表現であるようにも感じられます。多分、冨平の筆によると思われるプログラムへの記載で、「オーケストラを超える」と言っているのはそのような意味なのではないかと思います。

しかし、それは音色を捨象して、表現を淡彩にすることで輪郭を浮かび上がらせるという意味ではありません。例えば、2曲目のモーツァルトのソナタ(K448)では、モーツァルトの時代の楽器の音色の豊富さが恋しくなるような、カラーの復元にも成功していました。しかし、それだけが目的ならば、初めからチェンバロなりフォルテピアノなりを使えばいいことであって、モダン・ピアノの長所を生かすことにはなりません。最初の楽章でダイナミズムの強調によるオペラ的な響きをまず伸び伸びと生かしたうえで、第2楽章以降は、それとは対照的なシンプルな響きを追求するということで、服部と冨平は単調な作品に含まれる意外な奥行きを示そうとしているかのようです。

また、バーンスタイン編によるコープランド『エル・サロン・メヒコ』では、作曲家とも親しく、自身が一人前のピアニストでもあったレナード・バーンスタインの編曲を通じて、オーケストラの作品をピアノで演奏するためのヒントを得ようとしたのであり、その成果を2人は格好をつけず、シンプルに客席に伝えようとしたと思います。

しかし、この2曲においては、私は十分な満足感を得ることはできませんでした。コープランドは、そうはいっても作品の魅力が弱く、基本的にインテンポを貫くことで、作品の構造をまっすぐに示していくことを旨とした当夜の演奏では、なおさら、色気は出にくかったと思います。モーツァルトもオペラそのもののような序盤は、さすがにこの2人だけあって立体感がある演奏になっていたものの、第2楽章以降はやや退屈で、準備不足は明らかだったと思います。

【折り目正しいハイヴァリ】

これに対して、後半はとても充実した演奏になりました。ブラームスの『ハイドンの主題による変奏曲』は、同じ作曲家による『2台ピアノのためのソナタ』(op.34b)と同様、より編成の大きな有名なヴァージョン(前者は管弦楽、後者はピアノ五重奏)に対して、実は2台ピアノ版が先行してあったという作品です。それはともかく、やはりブラームスという作曲家は、ほかの作曲家と比べて段ちがいに凝った作品を書いており、この「ハイヴァリ」のようなキャッチーな作品でさえ、ずっしりした重みを感じるということが大きいのでしょう。

服部&冨平の演奏においては、3つほどの特徴が指摘できます。1つはテンポの問題で、既に述べたように厳しいインテンポの保持と、不如意のルバートの大幅な抑制です。次に、オペラに通じた2人ならではの、豊富なカンタービレへのアイディアがあること。そして、最後にピアノという楽器の構造的な明晰さを生かした表現への意識です。

なかでも、最後者の要素が重要であることは、言うまでもないでしょう。特に、ヴィヴァーチェによる決然とした第2変奏では、弾力のある冨平のつくるベースのうえで、対位法的な動きを煮詰めてつくってあるラインの美しさを服部が大胆に押し出して、見事な造形美を表現しています。中間は、歌曲のようなカンタービレの美しさが際立ちます。よく煮詰めてコクを出した服部の響きと比べると、直截で、屈託のない冨平の表現もときには爽快ですが、やはり、服部の包容力がパートナーを徐々に引き上げていく印象が強かったと思います。

カンタービレの歌い方はブラームスが書いた以上に、多彩に工夫してあり、ルバートなどの要素を敢えて厚化粧せず、テンポやフレージング、アーティキュレーションをシンプルに調整して、丁寧に演奏していました。スケルッツォ的な第5変奏のようなパートでも、その動きの激しさだけには還元せず、2人が音を聴きあって、和声のこだわりがきれいに浮かび上がるように工夫していたようです。一方、音量はやや腰高で、表現に紛れのないようにしていたものと推察できます。全体に響きはくっきりと、惜しみなく彫り込むというのが、2人の合意事項であったのではないでしょうか。

上のスケルッツォのあと、最終変奏まではラインのクロスや、その結びつきが慎重に表現され、ゆっくりしたナンバーほどふくよかに響いてきます。終曲の演奏ではすべての要素が溶け込み、ブラームスの雄大なダイナミズムがどのような書法によって可能になるか、はっきりさせようという意思が明確です。伝統的な対位法を生かすベースを器に、ほんのり感じられる旋律の甘みと、それに倍するカンタービレの意識、さらにそれらを支えるテクニックが生み出す燃焼力までもが整然とセットされて、あれほど充実した響きが成り立っていたのです。服部のリードも素晴らしいのですが、冨平のほうもよくつけています。最終変奏以降、若干、インテンポにつけきれない場面が見受けられたのですが、それはご愛嬌だと思います。

【ラ・ヴァルスの快演】

そして、これ1曲でお釣りがくるほどの素晴らしい演奏になったのは『ラ・ヴァルス』です。あるいは、前の3曲はすべて、この作品の演奏のために周到に用意されたものだったのかもしれないというほど、充実感がちがいました。その演奏の特徴はドイツ的な構造、フランス的な舞踊性と音色の深さ、そして、それらを仲介する風刺性を遺憾なく引き出した点にあるのでしょう。オーケストラ編では、演奏によっては隠れてしまう旋回性が、2人によるピアノ演奏ではくっきりと浮かび上がり、これがアルペジオの上下行が激しいクライマックスの響きと自然に結びついて、作品の見事な円環構造を呼び覚ましていました。

素材の図太い扱いと、それらのヴィヴィッドな組み合わせは、オケでいえば、ユージン・オーマンディ的なドライヴを思い出させるものですが、一方、当夜のオーマンディ氏はやや几帳面なところもあるようで、ストコフスキー的な性質を併せもっていたのです。このクールな視点がラヴェルの仕込んだルバートの構造をひときわアイロニカルに描くことにつながり、その視座が面白いように決まって、作品に微妙な陰影をつけていくことになります。まるで、フェルメールの作品のように。私の不満に思うのは、若干、ダイナミズムの幅が狭すぎることで、そのことがオーマンディ的な魔性のもつ毒気を薄れさせています。しかし、それ以外は見事なパフォーマンスであり、この作品をはじめて聴いたかのように、新鮮なものに思わせてくれたものです。

逆にいえば、この日の演奏はテンポやリズムの動き、ダイナミクスの変化といったわかりやすい揺らぎを、できるだけ排除するところから始まるということでもあります。その結果、本当に必要な要素だけが生き残り、作品のなかに位置を占めることとなったため、私たちは演奏者の恣意性とはいっさい関係のない、『ラ・ヴァルス』の真の姿を拝むことができたのです。

【ラ・ヴァルスがつなぐ2つの震災】

なお、私の感動にはもうひとつ奥御殿があります。

実は、この曲には思い出があるのです。2004年10月23日17時56分、それは新潟県中越地震のあった時間・・・私はいつものようにコンサートホールにいました。ステージでは仲良しの小川典子と田部京子が2台ピアノや連弾で、ドビュッシーとラヴェルの曲目を素晴らしいコンビ・ワークで披露していました。そして、「その時間」に演奏されていたのが、他ならぬ『ラ・ヴァルス』だったのです。ゆらゆら揺れるホールの座席で、それにも動じず演奏をつづける2人の演奏を通じて、私は沈みいくタイタニック号で演奏をつづけたというバンドのことを思い浮かべました。あるいは、このまま自分がホールの下敷きになって死んでも悔いはあるまい・・・という夢心地になっていたものです。

しかし、帰ってから震災の甚大なる被害を知るに至って、そんな呑気な夢想に耽っていた自分のことを自己反省しなければなりませんでした。7年後、同じ曲を聴いて思い浮かべるのはもちろん、私たちの体験している現在の惨事についてのことです。演奏はそれを忘れさせるぐらい、素晴らしいものだったけれども、無意識のなかで、響きというハッカーが、私の記憶に何らかのアクセスをかけてきたことは間違いないだろうと思います。

アンコールでは偶然、ピアソラの『アディオス・ノニーノ』という作品が演奏されました。奇しくも、私がこの震災のためのキャンペーン・ソングに勝手に選んでいる曲です。ピアソラは異国の空の下で、父親についての悲報を聞いて、この作品をつくったのです。この作品をはじめて知ったのは、紀尾井シンフォニエッタ東京の演奏会で、チェリストのマリオ・ブルネロがアンコールでこの曲を弾いたときのことでした。その澄みきった心根は、その日のメイン・ステージで演奏された武満徹のものと同種のものでしたが、作曲者はピアソラと聞いて驚いたものです。

ピアノ・デュオではバンドネオンやギターという魅力的な楽器の音色がない分、やはり、この作品の構造感が鋭く浮かび上がってきました。しかし、コープランドのものよりも、意外にも、こちらの作品のほうが構造的にしっかりしていて、それを構成するパーツがロジカルに、意味ありげに使われているのがわかります。例えば、この作品にも後半、対位法的な構造を示す部分がありますが、その部分で、ピアソラは父のめざしていったであろう天国のイメージを手短に語っています。バロック以降、対位法とは神に近づく(無私という)階段への入口にほかならないことを思い出してほしいのです。ただ、そうした要素を入れることで、ピアソラは耐えがたい哀しみを克服して、演奏をつづけることを父親に誓ったのだと思います。

当夜、2人がどういう想いでこの作品を演奏したかは明らかです。それは、「さよなら、父さん!」と呼びかけながら、こうして熱く、内面から滲み出るような作品を書いて、いかなる哀しみのなかにあっても、音楽への情熱だけは捨て去ることがなかったピアソラの想いに通じるものであるはずです。ジョニーは演奏する(自註:クルシェネクのオペラの題名)・・・私たちは演奏するというわけす。自分たちはどんな困難のときであっても演奏しつづける、そのことによって、自分たちにしかできない役割を果たしたいというわけです。演奏は上記のように、きっちりした構造的感覚をベースにしつつも、こころもち直感的に、つまり、彼らがいつもはサポートしている歌手の感覚に立ったものであり、その逸脱の姿勢がなおさら感動を増幅してくれるのでした。

やはり私は、自分の意志というよりは、何者かに導かれて、この場に来たのではないでしょうか?

【まとめ】

以前、記事にした瀬尾久仁&加藤慎一郎デュオのような明確なデュオの役割わけ、そのコミュニケーションが室内楽的に組み立てられているわけではないのですが、2人が単にピアニストとしてだけではなく、舞台や指揮における経験までをも総動員して組み立てた、貴重なパフォーマンスだったと思います。縁の下の仕事で忙しい2人だけに、いくらか及ばざる面もありましたが、だからといって、こころない準備不足の公演ではなく、しっかりとやりたいことがある人たちのパフォーマンスだったと報告しておきます。

【プログラム】 2011年4月28日

1、コープランド/バーンスタイン エル・サロン・メヒコ

2、モーツァルト 2台ピアノのためのソナタ K448

3、ブラームス ハイドンの主題による変奏曲

4、ラヴェル ラ・ヴァルス

 於:東京オペラシティ(リサイタルホール)

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