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2011年4月25日 (月)

エリシュカ ドヴォルザーク スターバト・マーテル 札響 538th定期 4/23

【律儀もんの子だくさん】

最近、いろはがるたのなかにある「律儀もんの子だくさん」という言葉を憶えた。「律儀な人は損をして貧乏になるので、ほかに娯楽がなくて子だくさんになる」というアイロニカルな意味ではなくて、「律儀な人は家族も大事にし、家庭円満で子だくさんになる」という意味だということである。かるたの文句には儒学や仏教、さらに、各階層において守られてきた社会倫理などの影響を受けたかのような慣用句が多いことを考えれば、単に家庭円満で子だくさんに・・・というだけではなく、律儀という功徳を積むと子宝に恵まれるという教訓、もしくは、民間信仰を表してもいるのであろう。

なんとなくラドミル・エリシュカ翁のことを想像してしまうような言葉だが、ドヴォルザークもまた、この条件に十分、当て嵌まる人物であろう。今回、札幌交響楽団の定期演奏会で、エリシュカが取り上げたのがドヴォルザークの『スターバト・マーテル』である。この作品を仕上げるまでに、ドヴォルザークは3人の子を犠牲にしなければならなかった。子どもたちを喪った哀しみが、聖母マリアの哀しみへとダイレクトに通じるわけである。ただ、長男を亡くしたあとにドヴォルザークはこの作品に取り掛かったものの、作品を完成させるには、あまりにも事態が辛すぎたのだと思われる。程なく、さらに2人の子どもを喪うことで、ドヴォルザークはようやく決心を固めることができた・・・そのように見える。

律儀もんの子だくさん。それでもドヴォルザークはさらに3男2女に恵まれて、長い目でみれば幸運な生涯を送ったのだ。律儀もんはこの作品により、英国で高く評価された。さすがは欧州でも随一の合唱王国である。律儀もんにしか書けないし、本来、律儀もんにしか上手に演奏できないという厄介な作品だが、英国人はもっと気安くドヴォルザークの作品を受け入れたような気がしてならない。松に鷹、ドヴォルザークにはエリシュカ。ピアニストの小川典子女史によれば、なんでも初見でスラスラ弾ける天才音楽家大国だが、一方、滅多に水準以上になることはないという英国のオーケストラ事情である。本当の律儀もんが弾いた場合は、作品が一変する。ましてや、教えれば教えただけ伸びてくる日本人のやることである。

【ひとつひとつ、大切に】

最後、アーメン・コーラスが全部おわったあとに、オケが短いフレーズを粘りづよく造型して、作品はゆたかな響きを包み込んでしまいとなる。チェロ協奏曲のおわり、親しい知己からいくら長すぎると言われても、恩人で、初恋の人でもあったカウニッツ伯爵夫人の御霊のために、一音たりとも削ることを許さずに、作品を長い未練によって満たしたドヴォルザークである。それと同じ意味が、『スターバト・マーテル』の最後にも見出される。

エリシュカはこの部分を切なくか細い響きではなくて、非常にはっきりとした演奏で締め括らせた。一見、粗っぽく、朴訥な表現が私を微笑ませたものである。なぜならば、そのことが、音譜に書かれた響きをひとつひとつ丁寧に吟味して、でき得る限り、すべての響きが聴き手の胸に刻まれるようにと考えて演奏を組み上げていった、エリシュカと演奏者たちの姿勢を示すものだったからである。不器用で、ある意味、不格好な表現であるかもしれないが、この響きによって、彼らは、私たちの背中を少しでも押せたらと願っていたのかもしれない。律儀もんの日本の人たち(残念ながら、子だくさんではないものの)が、ドヴォルザークのような恩寵を受けられるようにと、エリシュカは最後、少しだけ細工をしたのかもしれない。

しかし、本来、陽気で屈託ない性格であるというドヴォルザークの気質を、ここでも自然に浮き立たせただけのことだともとれる。実際、エリシュカのつくる響きはとても明るい。

【まずは音色、当たり前のことを当たり前に】

ところで、札響の演奏は、決して完璧ではなかった。長い作品、目立ったミスもなかったわけではないし、注文をつけたい部分はいくらでもある。ただ、エリシュカ&札響の聴きどころは、そういうところにはないと断言しておきたい。

まずは、音色である。出だしも少しフラフラしたが、魂が上へ上へと昇っていくこころの部分の描写は、なんとか繋ぎ止めた。そして、弦が加わって徐々に響きが厚みを増していく場面で、「この響きだ!」と思い出したのである。重く、大地に根を張った音色の深さ。低音弦が加わると、それがさらにはっきり輪郭を現すのだ。この響きを聴く度に、私はいつも、札幌に来てよかったと思う。これだけはN響にも、東京フィルにも・・・ほかの札響よりは機能性に優れたどのオーケストラも、多分、真似することの適わないものなのである。もしかしたら、地元・チェコのオーケストラでさえ忘れかけているものであることを思えば、それも無理はない。

エリシュカや札響のメンバーたちに、どうやったのかと聞いても、それは当の本人たちにさえ、わからない秘密のようなものであると思う。例えば、一本の木から見事に仏像を彫りだした運慶・快慶に向かって、これはどうやったのかと聞いても無駄なことであろう。それは、神のみぞ知ることであるからだ。

いつも書くことだが、エリシュカの表現は当たり前のところを当たり前に盛り上げ、あるいは、弱めるだけのことだ。ただ、その響きの磨き上げは容赦なく厳しい。それだけのことで、それまで何でもなかった部分のアーティキュレーションが煌めき、埋もれていたフレージングの素晴らしさが返ってくるという不思議。私はこのコンビによる演奏を、大抵、舞台横のバルコニー席で聴くことにしている。響きの全体像は掴みにくいが、上に描いたようなコミュニケーションの磨き上げが、この席ではどこよりも明確に読み取れるからである。そして、いつも感心する。エリシュカが札響をどのように動かしたいのか、そして、札響のメンバーがどのようにして、音楽を良くするかということしか考えていないこの指揮者のために奉仕しているか。この席では、すべてがよく見えると思っている。

【またも見事なヤドカリぶり】

これもいつも書いていることだが、ドヴォルザークはヤドカリ的な作曲家である。いろいろな先達の作品を自分の手法のなかに取り込んで、はじめから、自分のものだったようにして、インディペンデントな世界に仕立てあげてしまうことの天才だ。この『スターバト・マーテル』にしても、それまで書かれてきた数々の同名の作品に加え、バッハ、ヘンデル、モーツァルト、シューベルト、ロッシーニ、そして、ベートーベンなどの音楽を下地としており、いくつかはきわめて露骨である。

例えば、第4曲(第10-11節/バス独唱とコーラス)では、モーツァルト『レクイエム』の「キリエ」に似たクラリネットの旋律をベースに、イタリアの巨匠たち(ヴェルディヤロッシーニ)のもっていた要素や、もっと古い聖歌の要素を巧みに組み合わせて、バスによる深い祈願と、天上的なコーラスの清らかな響きを見事に昇華させている。このパートのみに登場するオルガンの役割はエリシュカの場合、清楚で、むしろ、響きを質素なものに感じさせる。コーラスはソプラノの声がやや幼く、これは必ずしも褒め言葉ではないのだが、しかし、このような場面においては、作品に不思議と調和して、聴き手を安心させる。

次の第5曲(第12節)では、淑やかな優しい響きから劇的な展開に転調する変わり目の部分で、明らかにブラームス『ドイツ・レクイエム』の手法が援用されていることに気づく。

また、最終曲(第20節)は『第九』そのものである。私は、エリシュカの東京フィルでの演奏に際して、ドヴォルザークの交響曲第9番の終楽章が、ベートーベンの『第九』をベースに組み立てられていることを指摘したが、この作品でもやはり、『第九』の世界が顔を出す。特にアーメン・コーラスに入ってからの展開は、ベートーベンの「歓喜の歌」とまったく同じような構造的特質を示している。一般的にはヘンデルからの影響もよく指摘されるところだが、エリシュカの演奏では管弦楽の対位法的な構造がひときわ明確である点や、変に歌いすぎないフォルムの慎重な彫琢ゆえに、作品の奥底に光り輝く構造のエネルギーが、『第九』的な上向エネルギーと照応しあい、その真の姿を照らし出すのである。ソリストと合唱、オーケストラの有機的な結びつきの構造(もしくはアーティキュレーション)も、そのことについて考えるときのキーである。

【関係というキーワード】

エリシュカの演奏において、特筆すべきことのひとつは、この絆が素晴らしいということである。アルト(メゾ・ソプラノ)を除く独唱陣には必ずしも満足しないが、彼らのアンサンブルのなかには無粋な壊し屋は少なくとも存在せず、単に若干、技能が足りないだけである。それに対して、技能の面における不足をエリシュカに対する深い敬意と、真摯な努力で補いきったのがこの日のコーラスであった。この日の合唱団は、札響合唱団、札幌アカデミー合唱団、札幌放送合唱団の3団体による合同である。しかし、いちどもプログラムを見ないで公演に臨んだ私は、この文章を書くまでは、これらがひとつの合唱団であると信じて疑わなかったのである。

既に書いたように、ソプラノの声がときに幼くなってしまう欠点は指摘した。また、アンサンブルの受け渡しがうまくいかず、女声のほうが動きの鈍い男声のほうを突っ放して、見切り発車してしまうような局面もあった。多少なりとも合唱をかじった人間としては、よくわかる・・・ありがちな現象である。しかし、そのような欠点が目立ったのはわずかな部分であり、声質がきれいに整い、言葉もしっかり聞こえてきたうえに、なにより私が素晴らしいと感じたのは、オーケストラと綿密にコミュニケーションがとれているということだ。

この点、プロの声楽家であるソリストたちには注文をつけないといけない。私としては、あれほど細々と響きを切り替えているオーケストラやコーラスに対して、独唱はもっと繊細に動きを感じて、きびきびと反応して声を出してほしかったと思う。単に、「ぶち壊しにしない」というだけでは不満足だ。そのことで満足できるレヴェルを示し得たのは、メゾの手嶋眞佐子のみである。最後から2番目の独唱を含め、彼女はよくバックの響きに耳を澄まし、エリシュカのつくる繊細な響きを感じ取って、微妙に自分の声の出し方やタイミングを調節して歌いだす。そのため、彼女のところでは、オーケストラや合唱がつくるような流れの断絶は感じないどころか、それがふくよかな彼女の声を通して、ふうわりと膨らんでいくのである。

一方、ソプラノの半田美和子は最近、細川俊夫の歌劇に起用されて海外でも歌ったり、インバルに起用される(都響のマーラー)などして、よく売れている歌手である。確かに高音の鋭い伸びに特徴があるとはいえ、彼女の歌は、たとえバックをつくるのがエリシュカであろうと、ビエロフラーヴェクであろうと関係ないかのようだ。彼女の歌からはアンサンブルの意識が感じられず、相手がなんであろうと、いつもニュートラルな響きでしかない。その分、表面的には美しい声で、スコアに対して精確であっても、また、アンサンブルから大いに突出するようなことはなくとも、どこか物足りないのである。これは多分、仲間の出す音を聴いたり、それに合わせて反応するための技術が足りないということなのであって、それは男声側の小原啓楼や青山貴といった歌い手については、なおさら言えることである。

とにかく、エリシュカほど、関係にうるさい指揮者はいない。この日の『スターバト・マーテル』の演奏も、とにかくアンサンブルの関係が重要であったが、さすがに指揮者ひとりでは引っ張りきれないのである。例えば、木管のアンサンブルは、粘りづよく響きを組み立てたファゴットの坂口首席以外、NJPのメンバー(ob:古部賢一、cl:重松希巳江、fl:白尾彰)と取り替えたくなるぐらいにだらしがない部分が多い。ただ、それらの関係の面白さが私を寛容な気持ちにさせる。もっと巧くなってほしいというのはきっと、みんなの願いであるし、その伸びしろも十分にあるのだろう。だが、その範囲であっても、成し遂げられることがないも何もないというわけではない。

【白眉となる第3曲】

白眉は、第3曲(第9節)である。この部分から、歌は聖母マリアと哀しみを共有したいという方向に向かう。そのことを象徴するかのように、1つの歌詞を2つの旋律で歌うという仕掛けになっている。伴奏はきわめてシンプルで、ミニマル的だ。だが、エリシュカはその一見、何の変哲もない響きが、どれだけ美しいミルフィーユ構造になっているか、一枚一枚、丁寧に剥がしたり、重ね合わせたりして、私たちに見せてくれた。そのアンサンブルの清らかさは只事ではなく、驚くべきことに、そのミルフィーユ構造には合唱も組み込まれている。そのほか、自然で柔らかいルバートの効きめ。これも交響曲第9番について述べたことがある、テンポと雰囲気の切り替えの巧みさ。いろいろな要素が、感動的に凝縮していた。

【大震災に寄せて】

このプログラムが決められたのは、ずっと前のことである。しかし、その間に日本はおぞましい体験をし、未だその最中にある。エリシュカも今度の事態には胸を痛めており、この時節、来日を快諾したのは、この偶然にも我々の境遇に見合ったドヴォルザークの傑作を、直接被災し、亡くなられ、また、それを支えようとする人たちのために捧げるためであった。

このような意味から、私は第9節を皮切りに、特に第12-14節に焦点が来るのではと予想していた。これらの場面では、バロック的なベースに、イタリアの古いオペラの要素や、ドイツの牧歌的な声楽曲の感じが、ほんのりスラヴ的な雰囲気のなかに溶け込んでいる。第14節の最後には、非常に印象的な旋律の盛り上がりも見られる。ただ、結論からいえば、私は甘かった。もちろん、これらのナンバーを素通りするということはあり得ないが、エリシュカがより大切に演奏したのは、第7曲(第15節)である。特に、’Fac me tecum plangere’(あなたとともに、嘆かせてください)という歌詞を、しんみり歌い上げるところがなんともいえない。無伴奏の部分は合唱にとっては最上の部分であり、先の白眉の部分にも及ばぬ聴かせどころであった。

【そうだ、そのとおりだ】

既に申し述べたように、開始から10数秒、あの懐かしい音色に再会し、今日はどんなことがあろうと素晴らしい演奏会になると確信して以来、私はずっと胸を熱くしていたものだ。「アーメン」とはもともと、「そうだ、そのとおりだ」という意味である。最後の「アーメン」に対して、私はこころのなかで、「アーメン!」(そうだ!)と叫び返していた。それは無論、この演奏のすべてに対して、「そのとおりだ」ということである。私は傲慢な人間なので、めったに降参することはない。音楽家を好きになることはあってもファンにはならず、信仰者ではなくて、良い隣人でありたいと願っていた。しかし、エリシュカに対してはそろそろ、「心服した」というクレドを示さなければならない。

それでも、神格化はしないつもりである。千人の友人よりも、ひとりの隣人のほうが大切なことだってあるのだから。しかし、こんな律儀もんは他にはいないということは確かであろう。ドヴォルザークも律儀もんだし、日本人も律儀もんである。札響も律儀もんの集まりだ。札響を囲むサークルも、律儀もんばかりによって成り立っている。こうした人たちが、美しい北海道の地で出会ったというのはひとつの奇跡であるというほかはない。私も、そうした律義もんの列に並べる人間となりたいと思う。律儀もんが子宝に恵まれず、損をする世界など許されぬ。

今月で、エリシュカは80歳になった。でも、はじめてお会いしたときよりも、若返っているように見える。終演後は節目を祝う多くの楽団員やスタッフたちに囲まれて、幸せそうであった。しかし、どちらかといえば、彼のおかげで私たちが幸せになったのであろう。アーメン、そうである!

なお、12月にはビエロフラーヴェクとともに、エリシュカに強い影響を受けたというヤクプ・フルーシャが、都響で同じ演目を演奏することになる。彼がエリシュカの教えをどれぐらい真摯に受け止めているのか、確認するチャンスであると思う。現時点で、私はプラハ・フィルハーモニアにおける録音などを通じて彼について感想をもっているが、その範囲では、フルーシャはエリシュカの境地には遠く、ビエロフラーヴェクの劣化コピーであるとしか見做せない。その評価を覆すような、律儀もんの性を見せてもらいたいものだ。

最後に、今回の演奏会に際して、参考にしたページをリンクしておく。2004年の作成であるようだが、かなり読みごたえのあるホームページで参考になった。

 リベラリア・ムジカ http://www.asahi-net.or.jp/~wg6m-mykw/

【プログラム】 2011年4月23日

 ドヴォルザーク スターバト・マーテル

 合唱:札響合唱団、札幌アカデミー合唱団、札幌放送合唱団

 (合唱指揮:長内 勲)

 独唱:半田美和子(S)、手嶋眞佐子(Ms)、小原啓楼(T)、青山貴(Br)

 コンサートマスター:伊藤 亮太郎

 於:札幌コンサートホールKITARA

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コメント

長文、読ませていただきました。
私の感想と重なるところ、私が気づかなかったところが多々あり大変面白かったです。

4曲目の女声合唱に幼さを感じたというのですが、あそこは本来は子供合唱が歌うので「歌う人数を減らし、なるべく音色をつけずないようにと」マエストロが指示したそうです。私の手持ちのスコアには児童合唱の指定はなく、クーベリック、スメターチェク、アーノンクールも普通に女声合唱で柔らかく歌われています。ターリヒは児童合唱を使っていますね。

私は、エリシュカの大ファンではあるが、別に神格化しているわけではありません。エリシュカはチェリビダッケやクライバーのようなカリスマではないですよね。演奏は「何と、こう来るか!」という驚きより、「うんうん、そうだよなぁ」と腑に落ちるものでしょう。今回もエリシュカの解釈、札響のアンサンブルともに満点の出来ではないでしょう。特に一日目は70点の出来といっていいのですが、70点でも作品のツボは決して外さずに練習時間等の制約の中で最良のものを仕上げるというしたたかさに指揮者の凄味とライヴの醍醐味を感じるのです。

ドヴォジャーク、ヤドカリ論は面白いです。私も感じていました。特にこの曲では、どこかで聴いたことがある響きが頻出しますね。かと言ってパクリではないのですが。頭で真似るというより、もっと身体的な勘で取り込むといったほうがいいのかもしれませんね。まさにヤドカリ!

ひとつ誤解のないように補足ですが、70点と書いたのは、完璧に理想的な演奏という厳しい仮想の上の達成度ということです。私は一日目の演奏も堪能しました。

Plisnerさん、コメントありがとうございます。いつもながら、長文にて失礼いたしました。

私の文章もあるいは、「札響の演奏は下手」と解釈されかねないことを懸念しますが、私も同じように誤解のないように一言しておくべきでした。ただ、技術的な正確さというものは、私は演奏するための技能のひとつとしか思っていませんから、もっと優先されるべきものがあるという想いで書きました。巧いほうがいいとは思っておらず、逆にそれが拙い場合もあります。とにかく正確なことが価値という世間のなかでは、誤解のもととなるかもしれません。

正確なだけなら、ライヴはいらないわけですし、ブーレーズ指揮ベルリン・フィルとかを聴けばいいわけです。そのなかで、札響を聴く意味があるということは、ちゃんと書いたつもりでいます。

また、神格化云々というのは誰かに向けて注意を向けたつもりはなく、自分がエリシュカであれば何でもいい・・・というような立場にならないように注意するための文句です。逆にいえば、そう言わねばならないほど、心服しているということでもあります。

いずれにしても、今回も有意義な札幌でした。イマイチなプロでも、シャブリエが好きなもので、秋の来訪も検討しています。でも、今年は東北旅行も公約していますし、なかなか都合をつけるのは大変です。

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