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2011年5月15日 (日)

パーヴェル・ネルセシアン 東日本大震災チャリティー演奏会 @東京文化会館 5/14

【概要】

パーヴェル・ネルセシアンは1964年生まれ、モスクワ音楽院で恩師、セルゲイ・ドレンスキーの後任として教授職に就いているピアニストである。余計なことだが、一応、断っておけば、ドレンスキーは師匠のグリゴリー・ギンズブルクを通じて、歴史的な名教師であるアレクサンドル・ゴリデンヴェイゼルの一派に連なり、アレクサンドル・ジロティやパヴェル・バプストからリスト、ベートーベン、ラフマニノフ、チャイコフスキーなどまで遡れるピアニズムの系譜を受け継いでいる。

今回、主催の日本ユーラシア協会は10年前からネルセシアンを定期的に招聘しており、これが5回目のシリーズとなるが、今回は3月11日に起こった震災に対するチャリティ・コンサートとしておこなわれ、この5月と来る10月の2回シリーズで、全国11都市を回るということである。5月は初回の名古屋を皮切りに、所沢と東京の公演がおこなわれ、東京では主催の協会員を交えた懇談会が行われる。また、以前から取り上げているように、5月17日にはカワイ表参道におけるチャリティ演奏会にも出演する(チャイコフスキー/四季よりの抜粋)。ネルセシアンはカワイがスポンサーであったダブリン国際コンペティションで、同社のFXピアノを弾いて優勝したという縁があるからであろう(ただし、この年のダブリン国際では1-6位までの全員がカワイを弾いているので、若干、きなくさいものもあるが)。

余談だが、日本ユーラシア協会は「戦前の『ソヴェートの友の会』、戦後の『旧日ソ親善協会』、日ソ国交回復後の『日ソ協会』の歴史と伝統をうけついで、ソ連崩壊後に『日本ユーラシア協会』が新しくスタートした」ものだという。1957年設立、日ソ協会の初代会長は「友愛」で知られる故鳩山一郎氏で、日ソ国交正常化を成し遂げた総理大臣である。団体の思想は保守と左翼思想がないまぜになっている感じでわかりにくいが、現在は文化交流や相互留学支援などの活動を主におこなっているらしい。

さて、演奏は前半がチャイコフスキーの『四季』の全曲演奏で、これは協会側からの要望を受け容れたものということである。後半は、ベートーベンとスクリャービンという構成になっていた。これに加え、被災者の皆様への追悼のためにということで、冒頭にショパンのノクターンが演奏されたが、特に黙祷などのセレモニーはなく、拍手も受けていた。

【共感の深いスクリャービン】

これらのうち、私が本当の意味で深い共感を得たのは最後のスクリャービンの3曲だが、それはやはり、このピアニストの個性にぴったりくる作品だったせいであろうと思う。ここで演奏した3曲はいずれもスクリャービンが1913-14年に書いた作品で、1915年に亡くなる作曲家にとっては最晩期のものである。

最初のソナタ第10番(op.70)は1913年の作品で、僅かに完成の遅れた第8番とともに、このジャンルの最後となる作品である。怜悧に鋭く重ねられる和声と、合理的に、美しくクロスするラインの美しさが重なり合い、細かく反復されるトリルの輝きも特徴的な作品である。ネルセシアンの演奏は明晰のうえにも、明晰だ。例えば、バドゥラ=スコダは響きの支持体にカンバスのようなものを持ち出し、その質感が一種、独特の温かみをもたらすのであるが、ネルセシアンが持ち出すのは透明度の高いガラスの板である。透明で、ときには光を反射するかのようなガラス板の上に、ネルセシアンは慎重に筆を滑らせる。

だが、その筆致は次第次第に大胆さを増し、あたかもガラス板の上に溜まった絵の具が盛り上がって見えるように、立体性を加えていくのである。私は、そのようなパフォーマンスから、ジャクソン・ポロックのアクション・ペインティングを思い出した。

2番目に演奏された『2つの舞曲』(op.73)は、1914年の作品。「花飾り」「暗い炎」という2曲から成り、「舞曲」となっているが、並みのピアニストが弾いたのでは、どこが舞曲なのかよくわからないような作品で、このような演奏会でプログラミングされることも稀である。それがネルセシアンの演奏ともなると、なるほど、立派な舞曲として描かれる。それは高度に洗練されたフレージングと、神秘性やセリエール的なセンスばかりには流されない、独特のリズムや構造把握のセンスに基づくのであり、その構想を実現する精緻のうえにも柔らかいピアニズムによって、初めて可能となるのである。

今回、ネルセシアンは何曲かをつづけて弾くことで、それぞれの構造が有機的に連結し、かえって見通しの良いものになることを教えてくれたが、この『2つの舞曲』が最たるものであろう。まだしもリズム感のとりやすい第2曲の運動性を引き立てるためにも、第1曲で構造的な概観をアテンションとして明示しておくことがなにより重要なのである。最後、急に梯子が外れたように、響きがふわっと浮き上がったとき、私自身も無重力状態に襲われて椅子から浮き上がりそうになったのが印象的だが、その感覚は既に、第1曲の冒頭の和声構造によって体験済みである。この2曲はいわばジグゾー・パズルのように噛み合っており、そのことを示すのに、ネルセシアンの透明なピアニズムは何よりもわかりやすい。

最後の詩曲『焔に向かって』は、この時期の作品ではまだしも手ごたえのある作品で、しばしば演奏会やコンペティションのプログラムにも上るものである。しかし、ネルセシアンほど骨太で、完全な均衡を生み出した表現はこれまで、ほとんど聴いたことがないといっても過言ではないほどだ。和声の逞しさがクールに際立てば際立つほど、スクリャービンの書いた絶望的な音楽の響きが甘く、哀切に響いてくる。譜面台に立てられた(私の幻影のなかで)スクリャービンのスコアは燃え上がり、ピアノの筐体や弦を次第に焼き払って、灰塵の孤独に帰していくのだが、そこに自分でも正体のわからないような不思議ななエクスタシーが立ち上ってくる。ネルセシアンの凄いのは、その変身の自然さと同時に、劇的さである。

この3曲では、正に、ネルセシアンは作曲家と一体となって、聴き手を興奮の渦に巻き込んでいく。3つの作品は完成時期がほとんど同じで、響きや和声のデザインも似通っている。しかし、その表現方法は驚くほど多彩であり、ソナタではクールで知的、舞曲では直接的な動きが加わり、詩曲では正にポエジーの逞しい肉体性が問題となる。ネルセシアンはこうした要素をくっきりと描き分け、かつ、その響きはこの上もなく清廉で、例えば、この作曲家を得意とするアナトール・ウゴルスキなどと比べても、ずっと動きがシャープで透き通っているようである。

【独特のベートーベン】

ベートーベンのソナタ第32番も、面白い演奏であった。その特徴は、この作品をマスクのように覆うはずの対位法的な構造を隠しに隠して、ソナタの構造だけを平明に描き上げたことであり、第2楽章のアリエッタのもつカンタービレ(歌ごころ)を最大限に引き出した歌い方の巧さに秘密がある。ネルセシアンの表現を信じるならば、ベートーベンは第1楽章では、ほとんど溜息だけをカタチにしたような音楽を志しているが、それは作曲者の予想に反して苦もなく済んでしまい、ベートーベンはいつもそうするように、早くも神さまへの供物を対位法のカタチで献じだす。天使たちが箒をもって、彼の書いたすべての楽想を払いのけていくような緩徐的な部分の雰囲気は、既に書いたスクリャービン晩年の世界とも共通する。

その喜びがスケルツォ的な部分で描かれるが、この部分の対位法的な印象が巧みに、デモーニッシュな歌ごころの下に隠されて演奏されることで、聴き手をある意味、先の見えない迷路に誘い込ませるのがネルセシアンの面白さである。森で迷った旅人は、その失敗にもかかわらず、首尾よく森から抜け出た場合には、いかにも神秘的な喜びに包まれるであろう。これと同じことで、最終変奏で主題がはっきりと浮かび上がるときに、迷子になっていた聴き手は突如として、温かい光に包まれて恍惚となる。

終盤は、とても静謐・・・というよりは、冷笑的な演奏だ。序盤、いかにもロシアン・ピアニズム的な濃厚で、骨太な響きに酔っていた我々は、むしろ、最後の子守唄のなかで、毅然として目覚めるのである。だが、その鋭い風刺性にもかかわらず、ネルセシアンのピアノが発する響きは聴き手を尊重する温かみばかりが目立つ。いわば掃き清められ、人もいない茶室の庭のなかで、一人佇むときの詫びの感覚である。ネルセシアンから、このような表現が聴けるとは予想していなかっただけに、ただただ驚いたベートーベンの演奏である。

また、第2楽章の構造的ヴァリュエーションでは、通常は右手の旋律が左手の伴奏型に対して半歩ほど先行し、玉乗り的なドライブになる演奏が多いなか、これとは主客転倒し、左手の伴奏型が右手の旋律に対し半歩先をいくことで、より積極的に構造が旋律を導く構図が生まれていたのも鋭い。

【退屈さのなかにも】

前半のチャイコフスキーも悪くはないが、これは12曲、通して聴くにはいささか退屈というほかない。シンプルな旋律に申し訳程度の和声がついている作品が、ネルセシアンほど、このバランスを徹底的に見直したピアニストがいるだろうか。ネルセシアンは叙景的なリアルさでは一歩を譲るが、ピアノにおいては思ったよりも、ずっと古典的なチャイコフスキーの特徴を示しているようである。

面白かったのは第9曲=9月の「狩り」である。この作品は角笛の響きが高音の鋭い打鍵で表現されているが、そこから展開する構造がリストやショパンの作品のチャンポンで表現されている。一体に、この作品はこうした先行世代の影響をもろに受けており、模倣こそが大作曲家に至る近道であることを示しているようだ。

また、この「狩り」の成功を意味するかのような最後の音につづけて、、ネルセシアンは直ちに、肌寒い秋の薫りが漂う第10曲「秋の歌」へと繋いでいく。この連結は意外であるが、ポエジーの浮き沈みが人間的な連続性として表れることになり、なかなか効果的である。続く「トロイカ」では、若干、間を置く。このナンバーの冒頭には、次のようなネクラーソフ作の詩が掲げられている。

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

悲しげに道を見るな、トロイカの後を急いで追うな、

 そして胸の物憂いときめきを すぐにも永遠に消すがよい

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

これにつづき、最終曲「クリスマス」の明るい楽想が流れる。トロイカはその露払いで、前曲のメランコリックな感じから間奏曲的な役割を果たすのであるが、こうした音楽的な骨組みから、ネルセシアンが流れを決めているのはほぼ間違いないところだろう。

なお、この第12曲ではワルツのリズムを打つ左手の明晰さがこの上もない。演奏によっては、このワルツの特徴はより感傷的にぼかされる傾向もあるが、左手の伴奏型を堂々と打ち、ワルツのリズムを引き立たせたネルセシアンの演奏のほうが、この作品の華々しさを余計に際立たせる力がある。

【まとめ】

アンコール・ステージでは偶然、私の好きなショパンのワルツ(op.34-2)も演奏され、こういうときには何か見えない縁のようなものを感じる。ネルセシアンのショパンはクールすぎて、私の好みには合わないけれど、そんなことはどうでもよかった。こうしてショパンの短調によって、演奏会全体がサンドウィッチされたわけである(実際にはもう1曲、華麗な曲が演奏された)。なお、このワルツはそのメランコリックなワルツ主題のせいか、もうひとつの「葬送」などと呼ばれることもあることを付記しておきたい

【プログラム】 2011年5月14日

1、チャイコフスキー 四季(全曲)

2、ベートーベン ピアノ・ソナタ第32番

3、スクリャービン ピアノ・ソナタ第10番 op.70

4、スクリャービン 2つの舞曲 op.73

5、スクリャービン 詩曲「焔に向かって」

 於:東京文化会館(小ホール)

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