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2011年5月22日 (日)

澤クァルテット ベートーベン セリオーソ ほか デビュー20周年記念公演 @白寿ホール 5/19

【不思議さの本質】

これは見るからに不思議だというものをつくることは、意外に容易い。その天才といったら、まず、私たちの幼い子どもたちのことを思い浮かべるだろう。これに対して、芸術的な不思議はむしろ、一見、単純でありふれたところから生まれることが多い。なんでもないはずのリンゴがそれを超えた実態として描かれるような「シュルレアリスム」はその最たる例だが、そこまで極端なことを言わずとも、例えば、優れたバレエ・ダンサーがただ立っているシーンを思い浮かべるとよいのである。立っていることはもちろん、我々人間にとって容易なことであるが、一方、優れたバレエ・ダンサーのように立っていることは、その単純さゆえに、なにか特別な姿勢をとることよりもはるかに難しいこととなるであろう。

彼らと凡人の最大のちがいは、つま先立ちができたり、垂直に片足が上がるようなことよりも、単に立っていたり、歩くだけで感動的に美しさを感じさせるという、そういうポイントにあるのではなかろうか。そして、私たちはそれを「不思議」だと感じる。この感覚は、私たちがなにか見慣れない動きによって眩惑される場合よりも、はるかに強い刺激をもたらし、私たちを混乱(感動)させる。バレエ(単にダンスでもいいが)とはそのような洗練された動きの綜合であり、その視覚的な直感性により、我々にとってもっとも親密な芸術のひとつである。

さて、澤クァルテットがデビュー20周年記念のツアーに選んだ曲目は、少しも奇を衒うものではない。モーツァルト、ベートーベンの「セリオーソ」、そして、ラヴェル。20代の若いクァルテットが選びそうな、正面突破のプログラミングである。それゆえ、私の興味はそれほど高いものではなかったのだが、おわってみれば、なんと素晴らしい演奏会であったことか!

【ミステリオーゾ@セリオーソ】

私が特にふかい感動を覚えたのは、ベートーベンの弦楽四重奏曲第11番「セリオーソ」である。「セリオーソ」は「厳粛な」「真剣な」「真面目な」という意味であるが、その厳粛さがどこに求められるかといえば、もちろん、それは形式のことを指すのにちがいない。ラズモフスキー・セットのあと、「ハープ」で一服したベートーベンが、構造の厳密さによって、かえって新たな世界を開こうと試みたのがこの作品なのであろう。しかし、後世の理論音楽派が迷い込んだような道を選ぶのではなく、彼の時代にはまだ、そのなかに仕込むことのできる「ミステリオーソ」な部分・・・つまり、神秘的、もしくは謎めいた領域を見出すこともできた。澤クァルテットが示したのは、正にその部分である。

最近、哲学を少しずつ勉強しているのだが、例えば、キルケゴールは主著『死に至る病』のなかで(主著しか読んでいないが)自己とは必然性と可能性から成り、子どもが夢想のなかで何にでもなり得ると思うことと同じように、人間には無限の可能性がある。ただ、その可能性を実現するための必然性の重みに気づくことができなければ、人間(自己)は絶望の状態にあるのだとしている。もともと音楽の神秘性といったようなものには限りがなく、ここにいう可能性の領域により広く属している。ベートーベンは、その可能性の一部を「セリオーソ」な構造によって必然的に限定しようとしたが、必然性だけではやはり、キルケゴールのいう絶望のようなものであると感じたのであろう。

クァルテットは、セリオーソな構造観を徹底的に追いながらも、そこから逸脱するときのベートーベンの迫力を、何よりもつよく押し出して演奏していた。正確にいえば、それはクァルテットが誇張的に「押し出した」というよりは、そうした部分にあるベートーベンの本質を、ごく自然に炙り出したのにすぎないだろう。

【独特のポジショニング】

具体的にどのような演奏がなされたのかといえば、それは響き、もしくは領域の拡張というキーワードで語ることができる。つまり、それは突き詰めれば、1つ1つの声部をこの上もなく丁寧に扱って、その効果を研ぎ澄ますということにすぎないのかもしれない。特に素晴らしいのは中間の2楽章なのだが、ここで強調すべきは内声の堅固な柱の美しさである。第2楽章ではヴィオラに、第3楽章では第2ヴァイオリンに見せ場があるということもあるが、それだけではない。むしろ、そうした花形を支えるときの、他の声部の動き(アーティキュレーション)に注目すべきである。

ここにいうアーティキュレーションは、単にポジショニングと言いなおしてもよい。通常、各声部の重みに注目するアンサンブルほど、拡張よりは凝縮を選び、各々の位置を近づけていくことで響きに厚みをつけていくものである。ところが、澤クァルテットの場合は、4人の位置どりが初めから緊密で、それは特に音色の面で象徴的である。彼らのつくる音色は深く、一体感がつよい。そのため、ここぞという場所に来ると、むしろ彼らはお互いが距離をとり、離れていくことで初めて、その構造的な網目構造の美しさを引き出すことができるのである。そうはいっても、これら1本1本の糸は依然として図太く、響きのもつ生命感が弱まってしまうことはない。いわば輪状の太いゴムを相異なる4つの方向から引っ張りあい、その引き合う力を感じながら、少しずつ輪を広げていくといったイメージに似ているのである。

【+よじり】

しかも、この作業にはもっと細かい作業が結びついている。それは、フレージングやボウイングについての細かいよじりである。彼らがどれぐらいの時間をかけて、この演奏を練り上げたのかは定かではない。その実態がどうであろうとも、彼らの演奏には手間がかかっている。上のような張りつめた感覚を維持しながら、弓の入れ方やヴィブラート、それにフレーズの区切りまで、すべてがよく考えられている。特に、弓の入れ方ひとつで、彼らが手にしていた響きの質感や音色の厚みについては、驚くべきものがある。

【第2ヴァイオリン!】

音色ということでいえば、大関博明の奏でる第2ヴァイオリンのそれは、この日、多くみられた楽器を抱えてやってきた学生たちに対して、大きな啓示を与えるのではなかろうか。それは隣の澤(第1ヴァイオリン)がもっている楽器ともちろん、まったくもって同じなのであるが、その音色たるや似ても似つかないものであり、単なる役割のちがいを越えた音色へのこだわりがハッキリと聴き取れた。それ第3楽章では特にわかりやすく、第1が奏でる主題と、第2が奏でる主題の性格のちがい=音色のちがいは歴然であった。それは澤よりも大関が劣る(あるいは、その反対)とかいう問題ではなくて、2つの楽器のファンクション(機能)や位置どりに合わせた合理的なちがいなのである。

この「セリオーソ」を聴く限りでは、私にとって、目の前にいるアンサンブルは「澤クァルテット」というよりは、「大関クァルテット」なのであった。それぐらい、大関の第2ヴァイオリンは響きにコクがあって、しかもくどさはなく、爽やかで響きが新鮮である。これほどの第2ヴァイオリンは、世界じゅうを探し歩いても、そう簡単に見つかるものではあるまい。

【チェロ・ハヤシ】

この作品でベートーベンの天才性をみるためには、チェロの表現も重要である。かつての大阪フィルの首席奏者・・・というよりは、今はもう、デュオ・ハヤシの旦那さんというほうが通りがいいのかもしれないが、林俊昭のチェロは、今日の若手が失いつつあるものをしっかりと感じさせてくれる数少ない職人の響きである。その技能の高さは第4楽章の最後、『第九』をはじめ、ベートーベンの作品でしばしば顔を出す、低音弦へのサディスティックなまでの要求を完璧にこなしてしまった例からも明らかだ。

しかし、この日の演奏で耳についたのは、やはり、先に書いたようなポジショニングの凄さだろう。チェロはその役割からいっても、ポジショニングに迷うことは少ない。しかし、林はその当たり前の常識をしばしば逸脱する。例えば、第2楽章の開始のソロはさほどヴィブラートなどで甘みをつけていないにもかかわらず、、この作品としては並外れて甘美で、淑やかである。その性格はアンサンブル全体の方向性を端的に導くものであり、この第2楽章は他のクァルテットの比べてヒューマンで、手ごたえのある響きになっている。こんなことができるのも、やはり世界じゅうで、林ぐらいのものといっても過言ではあるまい。

結局、こうした読みから音色や、凝縮から拡散へという方向性が自然に固まっていったのであろうが、その種の独特な観点が「セリオーソ」のなかの「ミステリオーゾ」、つまりは、必然性のなかに生じる新たな可能性として感じられたのは言うまでもない。

【ラヴェルとモーツァルト】

後半の、ラヴェルのクァルテットも素晴らしかった。特に、スケルッツォ的な第2楽章の演奏が凄かった。その理由のひとつはピッチカートの絵も言われぬふくよかさにあるが、それよりも何よりも、結局はベートーベンの場合とほぼ同じであって、外へ外へと遠ざかっていく声部の張りつめた距離の素晴らしさということに尽きる。このラヴェルのクァルテットは響きが個性的であることもあり、多くのクァルテットがしばしばプログラムに入れたがる作品であるが、これほど「広がっていく」演奏はまず耳にすることができないだろう。それどころか、ピッチカート主体という制限もあって、なんだか焦点が定まらず、小さくまとまってしまい、時折、すっきり流れるメロディだけがあたまに残るということも少なくないのだ。

第3楽章も、印象ぶかい。まずは、私のこよなく愛する楽器、ヴィオラの控えめな、しかし、濃厚な歌いくち。市坪俊彦のヴィオラは深く、骨太ながらも、繊細な音色がする。トレー・ラン(とても遅く、きわめて緩やかに)だが、テンポ自体は引っ張らず、ヴィオラのリードのもつクールな歌ごころを自然に引き延ばしている。また、これはアタッカでつづけて演奏した前楽章との関係を示すものでもあろう。

演奏は全体的にコンパクトだが、その分、情熱を込めての表現であった。

最初のモーツァルト(14番)は、初めて聴く澤クァルテットということもあって、まず、第1音の音色のコクにじんとなってしまった。腕ごなしにも用いられるモーツァルトの作品だが、その第1音に始まり、全体的に濃厚な表現で図太い表現だ。整然と構造を追っていく丁寧な演奏で、シンプルだが、よく練られた表現に感じ入った。

【まとめ】

アンコール・ステージでは、有名なハッピー・バースディ・ソングを世界各国の音楽の特徴を踏まえて変奏した特別曲で、自ら20周年を祝うとともに、聴衆サーヴィスを充実させた。最後のハンガリー・ジプシー風ヴァリュエーションでは、エンターテイメント・ピアニストの「ピアニスターHIROSHI」のように、2つの楽曲を同時演奏する曲芸になっていたものである。ちょうどひとりの女性客の誕生日に当たっており、彼女のために演奏するという形をとったが、最後は笑いに包まれた会場であった。

なお、代々木公園ちかくの白寿ホールは室内楽には音響効果が最適であり、改めて、ホールの良さも再認識したところである。

【プログラム】 2011年5月19日

1、モーツァルト 弦楽四重奏曲第14番「春」

2、ベートーベン 弦楽四重奏曲第11番「セリオーソ」

3、ラヴェル 弦楽四重奏曲

 於:白寿ホール

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