2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

« ヴィオラスペース2011 ミニ・コンサートⅠ&Ⅱ 5/28 | トップページ | ヴィオラスペース2011 ミニ・コンサートⅢ マーロフ&ヘルテンシュタイン 5/29 »

2011年5月29日 (日)

ヴィオラスペース2011 コンサートⅡ ヘルテンシュタイン&マーロフ 5/28 ①

28日もソワレに入って、コンサートⅡが行われた。特に、若い2人が大いに盛り上げて、濃厚な演奏会となった。

まず、東京フィル首席の須田祥子が、テレマンのヴィオラ協奏曲を演奏した。須田の演奏も彼女らしくキビキビとして颯爽たるものだが、バロック作品ということを考えると、いますこし機転を利かせた響きがほしい。一方、桐朋音大の学生オーケストラは今年は大変よく、まるでバロック・オーケストラのようなまろやかさと、適度な粒立ちがあって素晴らしい。最初のカデンツァのあと、本当なら、もっと輝かしく階段を上るはずのオーケストラが動ききれないなど、経験不足に基づく反応の鈍さがあるにはあるが、あまり高望みしてもいけない。なお、途中のベリオを除き、コンマスはアミティエQの会田莉凡が弾いていて、堂に入っていた。

2曲目に、ファイト・ヘルテンシュタインが登場した。第1回の東京国際ヴィオラコンクールでは、第3位ながらオーディエンス賞に選出された。当時はまだティーンであったが、丹念で、音楽を噛みしめるような表現は確かに日本人好みで、かくいう私も、優勝はしないと思いながらも彼に投票したものである。この日は、なんとエルガーのチェロ協奏曲を弾く。

この作品をヴィオラで弾くことは、ちょっと無理であろう。チェロは筐体が大きいので、深く、たっぷりした響きが出る。そして、ヴィオラよりも低音が深く、充実していて、高音もヴィオラよりはしっかりと出せる。この作品をヴィオラで弾くと、大事なところで響きが浅くなり、作品の持ち味が十分に発揮されないのである。ヴィオラの良さをダイレクトに生かして、作品のフレージングなどを見直していく手もあるが、それでは作品そのものの性質が変わってしまう。いわば、自分が上手に歌えないところを勝手に編曲してしまうようなものだからである。

これらの困難を、ヘルテンシュタインは完全に克服してみせる。それも、本当に彼らしいやり方であった。つまり、それは実直に、作品の求める要素をヴィオラで出せる範囲で、限界ギリギリまで絞り尽くすということである。確かに、原曲のチェロと比べれば、浅い部分もなくはないが、しかし、本当に限界を試されたヴィオラが命がけで出す響きは、この作品の求める極限的な悲劇性と共鳴する。

作曲家たちは、例えば横笛の響きで、ピッコロを使えば容易に出るような響きを、フルートのパートに書くということがある。そのような部分では、演奏者は極度の緊張を強いられ、響きはひときわ厳しくなるのが普通である。このヴィオラ版の『チェロ協奏曲』では、そのような場面が断続的につづくということになる。これは並大抵の配慮だけでこなすことができるものではなく、フレージングや強調(ストレス)、音色、ボウイングなどに対する磨き抜かれた配慮に基づくしかない。その上で、先に書いたような勝手な編曲に陥らぬように、少しずつヴィオラという楽器の味わいをつけ足していくという気の遠くなるような作業の結果、聴き手を納得させるようなものに仕上げなくてはならないのである。

ヘルテンシュタインがここで頼りにしたのは、やはり構造的な要素だろう。彼はチェロで紋切型となっているような表現をすべて相対化し、これは確かに相応しいと思うものだけを選び取り、あとは新鮮な切り口で構造を洗い清めていく。そのなかには、いかにもヴィオラに相応しい音域が、くっきりと浮かび上がるような局面も見られる。しかし、とにかく感動的なのは、そうした知的なコントロールが限界ギリギリの、精神性とでもいうよりほかにないレヴェルでこなされているということだ。だが、単に熱心に弾けばそれでいいというわけではなく、ヘルテンシュタイン最大の持ち味は、やはり、その純真なまでに研ぎ澄まれた実直な歌ごころであろう。

正に、このような緻密さと涼しい気迫、それに、聴き手の共感を誘う丹念な歌ごころが、あの日、オーディエンス賞に彼を導いたのであろう。そのときの印象が、もっと洗練されたものとなって、私たちの前に現れた。世の中には、ロー・ティーンのときのほうが、よっぽど上手に演奏していたという人も多いものだが、ヘルテンシュタインは見たところ、右肩上がりに上昇している。彼の上昇が、作品のなかにみられる上昇と重なってみえた。

しかし、冒頭と終わりの悲劇的な孤独は、本当に身につまされるものである。それは、エルガーが生きた時代への惜別ともとれる。正にティーンで、この作品のもつ本質にワープしてしまったチェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレのように、ヘルテンシュタインもその本質を掴みかけている。だが、デュ・プレのような鋭い直感というよりは、彼の場合、もっと堅実なものの積み上げに基づく深い理解である。それは随所に示される、構造をいっぱいに使った表現の広がりと、くっきりした輪郭から読み取れる。ただ、この年代で、そうした要素を遺憾なく使いきれる演奏家といったら、そんなに多いとは思えない。ヘルテンシュタインの演奏には、本当に驚かされた。

 (②につづく)

« ヴィオラスペース2011 ミニ・コンサートⅠ&Ⅱ 5/28 | トップページ | ヴィオラスペース2011 ミニ・コンサートⅢ マーロフ&ヘルテンシュタイン 5/29 »

オーケストラ」カテゴリの記事

コメント

 僕も今年の桐朋学生オケは迫力があると感じました。
 今年は一晩出ずっぱりだったので大変だったでしょうが、彼らの今後の活躍にも期待したいです。

ご存じのように、このオーケストラのなかには、コンマスの会田さんのようにソリスト・コースで学ぶ人もあれば、一般の音楽学部で学ぶ者もいます。会田さんのような存在を含め、これらの人たちの多くが将来、なにがしか別の道を歩んでいかざるを得ないであろうことは現実なのですが、こうして1回的にも素晴らしい演奏を体験したということは、千金に値する体験であると思いたいものです。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543421/51797696

この記事へのトラックバック一覧です: ヴィオラスペース2011 コンサートⅡ ヘルテンシュタイン&マーロフ 5/28 ①:

« ヴィオラスペース2011 ミニ・コンサートⅠ&Ⅱ 5/28 | トップページ | ヴィオラスペース2011 ミニ・コンサートⅢ マーロフ&ヘルテンシュタイン 5/29 »

ツイッター

  • ツイッター

最近のコメント