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2011年5月29日 (日)

ヴィオラスペース2011 ミニ・コンサートⅠ&Ⅱ 5/28

今年のヴィオラスペース東京公演は、27-29日までの本コンサート3つと、それをサポートするミニ・コンサート3つ、それにマスタークラスで構成される。まず、ミニ・コンサートのⅠとⅡについてリポートしたい。

順番を逆にして、ミニ・コンサートⅡを先にするが、これはマスタークラス受講者のなかから特に優秀な者、3人を選んで出演させたコンサートである。といっても、単にうまく楽器を鳴らす、あるいは、ひととおり楽曲を構成するという観点でいえば、この3人も既に満足なレヴェルである。1人はまだ桐朋音大に在学中だが、N響アカデミーに所属しているので、いずれ正式なメンバーとしてセレクトされる可能性がある。あとの2人はアジア人で、既にシンガポール響でプロ奏者として活動しているヴィオリストと、まだ現在は高校生で、カーティス音楽院への進学が決まっている若い奏者であった。それぞれに持ち味も出ており、一般的なコンサートとして楽しめた。

【キビキビした古屋聡見】

まずは、古屋聡見がウォルトンの協奏曲の第1楽章をピアノ伴奏で演奏した。古屋は技術的な精度が高く、安定した音色をつくり、キビキビとした表現をこなすことができる。ウォルトンの協奏曲には是非とも必要な、響きの厚みも全体的にはよくアピールできている。ただ、終盤、私のこころを捉えたのは、ヴィオラの音よりも、伴奏の矢崎貴子がつくるしっとりした音楽の骨組みであったのは皮肉である。もちろん、矢崎は常に、ヴィオラの味わいを前面に出すような淑やかな響きしか出していないが、その清楚な美しさが、かえって私の関心を惹いたというべきだろう。ヴィオラと照応する弦の動きはそのままではなく、ピアノ的に解釈しなおされ、それが響きのうえで実に新鮮なイメージで輝いたように思う。

【クールなチェン・エンチェン】

2番目に登場したのは、まだ高校在学中の台湾人、チェン・エンチェンで、バルトークの協奏曲(ピアノ伴奏)を弾いた。知的で構造的なバルトークの骨組みに、フォークロア的な要素は自分自身の中国的なルーツで補っての演奏だった。揺るぎない技術力に基づいた、クールで辛口の表現が際立つが、全体的に表現は硬く、まだまだ伸びしろがありそうに思えた。特に、この作品ではほのかに薫るという感じのフォークロア的な要素を歌うときに、そのフレージングやボウイングの選び方には、まだまだ余裕がありそうである。

【剽軽な技巧派のジャン・ハンソンと草冬香】

最後に、シンガポール華僑と思われるジャン・ハンソンが登場して、パガニーニの『グランド・ヴィオラと管弦楽のためのソナタ』を演奏した。当夜の本コンサートでセルゲイ・マーロフが演奏したときには、その差に驚いたものだが、この時点では、ジャンの演奏もなかなかのものと感じられた。技巧的には余裕があり、デモーニッシュな風刺性のつよい楽曲を、幾分、無邪気に演奏して、おもちゃ箱をひっくり返したような楽しさで仕上げていた。パガニーニの曲はある程度、技術がしっかりしていれば、難技巧が多い分、かなり上手に聴こえるものである。しかし、それを差し引いても、ジャンは各変奏の味わいをしっかりと引き出し、丹念に演奏していたので好感を抱いた。

そうはいっても、例えば、音楽の変わり目のブリッジの部分などに、あやしい部分は残ったが、これは後のマーロフの演奏で完全に暴かれてしまうことになる。また、ハーモニクスの柔らかさなど、ヴィルトゥオーゾ的な要素では優れているのだが、その分、歌い方は粗削りで、伴奏者に負担をかける部分もなくはなかった。

この日は草冬香が伴奏だったが、特にパガニーニでは悪戯っぽい表現が書かれている部分を、茶目っ気たっぷりに演奏して魅力的である。草はその表現の良し悪しはともかくとして、自分らしい表現をもち、それを信じて徹底的に鍛え上げることのできるアーティストで、今後とも陰ながら応援していきたいものだ。以前に行われたリサイタルのとき、不運な身体の不調を告白していたが、それも徐々に良化してきたものか、元気な姿をみられて安心させられる。赤の他人ではあるが、あんなに活き活きと弾くアーティストが力を出しきれない状態にあるのはやはり悲しいし、心配であった。

全部を含めて、40分足らずで終わったので、もうすこし長く弾かせてあげてもよかったのかもしれないと思う。

【井上祐子という驚き】

ミニ・コンサートⅠは「今井信子とアジアン・フレンズ」の副題で、今井と、その高弟で英国王立アカデミーの教授にも起用されている井上祐子、さらに、アジアの腕利きヴィオリスト、2人を集めての公演であった。

全員が素晴らしく、個性的なヴィオリストであったが、そのなかでも、私は井上の表現につよく惹かれた。演奏した曲は、ヨーク・ボーエンのラプソディである。ボーエンは1884年、英国はロンドン生まれのコンポーザー・ピアニストで、歴史的な名ヴィオラ奏者のライオネル・ターティスとコンビを組んでいたという。井上にとってはいわば「お国もの」であるが、その言葉は決して大げさではない。

この作品はヴィオリストにとって、それなりに便利ではあっても、取り立てて魅力的とまではいえないだろう。序盤は甘みのあるメロディをたっぷりと、後半は技巧的な部分が立つという、ロマン派以降ではありがちな展開であるからだ。しかし、これを井上はギリギリまで削りに削って、もとは図太い木の幹を薄くて、まあるくしなるほどになったピカピカの板に仕上げていった。彼女の表現は音の厚みや、作品の味つけの濃厚さには頼らず、むしろ、まったく外面的な虚飾とは無関係に発展する。井上は時折、狙う相手の人間性には拘泥しないアサシン(日本でいうところの忍者)のような冷淡な表現も採るのだが、全体的には慎重によく練られたフレージングに基づき、歯切れの良い、しかも、適度なカンタービレを含んだ人間的な表現になっている。

際立っているのは、響きや楽器そのもの対する手厚い労りである。彼女は響きにも、楽器にも過重なストレスをかけることなく、その良さを自然に引き出したいと願っている。いわば声楽のベルカントの考えにちかいわけだが、そのように「思う」レヴェルまでは、きっと多くの人たちが到達する。しかし、実際にはその意外な実りの少なさや、そこに至る鍛錬の厳しさから、結局は、なにか別の手軽な表現手段に迂回してしまうものなのである。その結果、最初の志とは反対に、本来なら要らざる力が随所に、過剰に込められることになり、その楽曲のもつ味わいを引き伸ばすどころか、かえって自然な風味や舌ざわりを損なうことにさえなってしまう。

そんなことになるぐらいなら、演奏しないほうがマシだと彼女は思っているだろう。そのような弾き手にとって、いちばん頼りになるのが作品の構造である。この作品でも井上は前半部分の甘みをほぼ放棄して、その構造観を厳しく締めることで、こうした作品がいかに輝くのかを私たちに教えてくれた。そこでは井上は幾分、流れを抑え気味に調整して、響きをたっぷり、堂々と歌うことで、がっしりした構造美をまずは味方につけてしまう。そうしてしまえば、あとの技巧的な部分はどうにでもなるのである。

ここで重要なのは、だからといって、決して非人間的な無機質な美しさにはついていないということだ。直向きに、自分の楽器と、それが発する響きの世界に向き合って、耳を傾け、徐々にそれを磨き上げていくという過程が、井上の演奏からは見えてくる。井上はそうしたコツコツした作業に飽き飽きすることもなく、現在でさえ、この楽器と初めて出会った少女のように、爽やかな好奇心を失わない。そうして組み上げられたフレージングは柔らかく、しかも確信に満ちていて、さらには瑞々しく、どこかミステリアスでさえある。こうして井上は、ボーエンの意外な深さを私たちに向かって示してくれたのである。

いまやボーエンは月並みな、没個性な職人的作曲家ではなくて、繊細でシンプルなパーツを磨き上げ、ヴィオリストのために用意していった「名工」として捉えられるだろう。

【ラムは私たちとともに】

最初に登場したのは、ジェンセン・ラムは自国の作曲家による、中国歌劇の賑やかな作品を取り上げるはずだったが、多分、この度の震災の状況に鑑みてのことか、1曲は自国の民俗的な風合いのあるものを選び、もう1曲は、ブリテンの『エレジー』に置き換えた。ラムの著しい特徴は、中低音のどっしりした重い響きである。それを生かしたブリテンの演奏からは、彼の真摯な想いが私のこころにヒシヒシと響いてきた。何訓田(1953年生まれ)という作曲家の『香・踊Ⅱ』は、題名どおりの活き活きとした作品だが、それに続けて演奏されたブリテンの作品を聴くことで、彼なりに自分の愛する者が失われたときのイメージを追体験しているのだろう。そうして、彼が私たちと「ともにある」ようにと願ってくれることは、本当にありがたいことだ。

【迷える者たちのための悲歌】

一方、韓国のチェ・エンシクは機動力の高さが持ち味で、軽やかで、すっきりした流れをつくるヴィオリストである。この日は今井と共演し、彼がファーストを弾いて、ユン・イサンの『瞑想曲』を演奏した。

この作品は「瞑想曲」といっても、高僧的に洗練された純潔の精神性を表現するというよりは、むしろ、俗世の悩みを断ち切れないで迷う者たちのための悲歌である。まなこをつぶっても払い去ることができないような、目の前に浮かび上がる光や映像のイメージが多彩に描かれていることで、それがわかるのだ。響きも終始、暗いわけではなく、むしろ、エピソード的な具体性を伴う立体的なイメージが先行する。チェはそれらをキビキビとまとめて、今井の側に送り出していく。

すると、今井はそれを受け取って、気の利いたメッセージをつけて表出していく役割を担うというわけである。ただ、今井は終始、チェのほうを向いており、楽器のほうも決して客席側に向けることはない。そのため、客席上のオーディエンスは(強制的に情報を押しつけられるのではなく)適度な刺激に自ら反応して、そのメッセージをコレクトしていかなければならない。2つの楽器の響きも容易に溶け合う性質のものではないのだが、時折、それまで不協和音として別々に存在していたはずの響きが、奇跡的に出会って輝くときのアーティキュレーションの素晴らしさが、この作品の最大の見ものとなっているように思われる。

【ヴィオラ四重奏】

最後は、4人のヴィオラ奏者が全員出演し、バルトークの『44の二重奏曲』から、37番、および、41-44番が演奏された。全員で演奏するパートでは、私はもっと細かくパートが割られ、いろいろな組み合わせで二重奏を変容してから、最終的に、仮想的なクァルテットとして組み上げていくことを予想していた。大筋はそうであるが、コマ割りはもっと大雑把で、最初から2人ずつのユニゾンで始まったので、拍子抜けした。しかし、既にみてきたように、個性的で味のある4人衆だけに、それでも響きは十分、面白く変容され、44のうちの5曲ではとても物足りない感じがするほど、興味ぶかい演奏とはなった。

これで、ミニ・コンサート2つが終了した。あらゆる意味で、アジアを意識したコンサート。このパートが今後のクラシック音楽の世界で、大きく主導権を握ることになるのは間違いない。しかし、そのなかでも日本が主要な役割を果たしつづけることができるのか、覚束ないのは皮肉である。

【プログラム】 2011年5月28日

1、何訓田 香・踊Ⅱ

2、ブリテン エレジー

 (以上、va:ジェンセン・ラム)

3、ユン・イサン 瞑想曲

 (va:チェ・エンシク、今井 信子)

4、ボーエン 狂詩曲 op.149

 (va:井上 祐子 pf:野平 一郎)

5、バルトーク 44の二重奏曲(抜粋)

 (va:全員)

 於:紀尾井ホール

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コメント

 今年はマスタークラスは聴きに行けなかったのですが、古屋君て去年の桐朋オケのヴィオラ首席のイケメン君ですよね。
(去年のプログラムにも名前が載ってました)
 やっぱり出てきてくれましたね。来年のコンクールや今後が楽しみです。

コメント、ありがとうございました。古屋さんが去年の彼なのかはよくわかりませんが、多分、そうなのでありましょう。でも、去年は髪を染めていたように記憶していますし、容貌は随分、大人しくなりましたね。神奈川フィルの石田コンマスみたいに、尖っててもいいと思うのですが!

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