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2011年5月29日 (日)

ヴィオラスペース2011 コンサートⅢ ヴィオラ・ヴィオラ・ヴィオラ 5/29 ②

休憩後は、シュニトケの弦楽三重奏曲から再開したが、このメンバーが、ヴァイオリンに原田幸一郎、ヴィオラに菅沼準二、チェロに原田禎夫というグレート・マスターズによる歴史的な演奏であった。周知のとおり、両原田は東京クヮルテットの創設メンバーで、菅沼は「伝説の」巌本真理四重奏団のメンバーであったという夢の組み合わせになる。しかし、名前が凄いというだけではなく、演奏が物凄かった。

私はこの日、ミニ・コンサートとこのコンサートの間に、恵比寿まで出かけていって、クーデルカ(コウデルカ)の写真を見てきていた。1968年、チェコ=スロヴァキアの自由化路線を警戒したソ連が軍事介入したときのルポルタージュ写真である。

シュニトケの作品は1985年、ベルクの生誕100年を祝うために書かれたので、意外に新しいのだが、それでも、こうした時代の息吹きを抜きにしては考えられない重みをもっている。シュニトケらしく、不協和音が豊富に用いられた作品であるが、いつもシュニトケの作品を聴いて感じることは、その「不協和」音の柔らかさなのである。だが、このグレート・マスターズの演奏を通じては、もうひとつ別の味わいを感じとることができた。それはもう、あの暗い時代を知らない私たちにはなかなかイメージできないものであるが、両原田や菅沼にとっては、いまも生々しい感覚として生きている、クーデルカの写真が写し取ったような時代の厳しさであろう。

このシュニトケの作品は、たった2つの楽章に、循環主題的に・・・しかし、ぷかぷかと所在なげに浮かぶ素材が、シュニトケ独特の手法で変奏されていく名品だ。その素材のなかで主要なものは、実は、ハッピー・バースデー・ソング(Happy birthday to you)ではなかろうか。誕生の喜びを無邪気に歌うこの曲を、シュニトケは実に厳しい風刺をこめて、調子っ外れに歌わせている。’Hppy birthday’’Happy bithday to you’と、シュニトケは何度も歌わせているのだが、もちろん、原曲の調子から悪意的に外された素材は、もはや悪魔的に浮かび上がるしかないのだ。

この素材自体はもちろん、決して演奏が難しいものではないだろう。しかし、それを包み込むように配置された修飾や、展開は実に厳しく、難解で、ときにはハーモニクスやグリッサンドなどの難技巧を伴ってアイロニカルに響く。幸福の素朴な表現であるハッピー・バースデイの素材が、こうしてもっとも手荒な目に合うというのが時代的である。グレート・マスターズ・トリオは、そうした要素に躊躇いがない。平易さと難解さ、優しさと厳しさ、美しさと醜さの間に境界がなく、それらの表現には底が通じていることを見逃さない。そして、後者の要素は現実として体験しているし、身体が知っているのである。どんなに腕利きの現代音楽の奏者であっても、こうした現実感がないことには、作品の持ち味を半減させることになるだろう。

現代音楽は難解だとか言っている人たちは、ここに気づかなければならないのだ。確かに、難解である部分はあるかもしれないし、すべてが良い作品であるはずもない。私も、全部がわかると豪語する自信はないし、その実力もないと思う。しかし、このシュニトケの作品にみられるように、響きの晦渋さにも必ず理由があったはずである。それは単に時代背景によるソーシャルなものばかりではない。そこには信仰、生活、民族、歴史、家族、友人、恋人など、いろいろな要素が複雑に絡み合っている。

いずれにしても、その理由を知っている奏者たちの演奏を聴けば、つまり、この日のトリオのような演奏を聴けば、感じないものがないというほうがおかしいのである。響きが重なるごとに、私は背筋が伸びてきた。できることならば、つと立ち上がり、敬意を払って聴かねばならぬものがそこにあると思った。そして、そこにクーデルカの写真がイメージとして割り込んできたのである。人々は、理由なく行動しないものだ。神さまというものがいらっしゃるとするなら、彼は、私がクーデルカの写真をみてから、シュニトケの作品を聴くようにと思召されて、そのように導かれたにちがいない。きっと、そうではなかろうか?

しかし、未熟な私はどうしても、ともすれば、こころ休まるほうへと惹かれていく。この作品のなかで唯一、’Happy birthday, happy birthdy dear ・・・’というところまで流れる部分がくると、私は言い知れぬ安心を感じるのだ。たった一瞬で、その幸福は潰えてしまうかもしれない。そうだとしても、私はその幸福に身を委ねたいと願わずにはいられないのである。そんな要素も、ちゃんとシュニトケは用意してくれていた。

なお、誕生日というキーワードを通して、このプログラムは前のクレンゲルのプログラムと鋭く対応し、同時にまた、ヴィオラスペース20周年記念という場に対しては、厳しい相対化の姿勢を与えるものであることも指摘しておきたい。

このイベントの発起人、今井信子の両親はナチスに追われるユダヤ人たちを救おうとしたことで知られている。2004年のヴィオラスペースでも、杉原千畝の偉大な功績に感謝して、リトアニアの作曲家、ヴィータウタス・バルカウスカスが書いた作品が演奏されたが、日本の『さくら、さくら』のメロディや和太鼓的な響きを挿入した、激しくも、たおやかな作品であったと記憶している(実は、リトアニアの音楽祭における録音も持っている)。また、これと対応するように、オランダでユダヤ人を匿ったりした今井の両親との機縁もあって、バルカウスカスは今井自身のためにも、作品を献呈している。

シュニトケの作品(シュニトケのほう)の演奏は、今井のなかにも確実に流れるヒューマニズムの真実味に対する、ひとつの冷酷な挑戦状であったとも言えないだろうか。しかし、その冷酷さのなかには、どこか言い知れない温かみもあるのではなかろうか。

例えば、ムソルグスキーに『子どものころの思い出』という鍵盤のための作品があるが、これには「乳母が私を閉じ込めた」と副題されている。乳母の罰は手厳しいものだったにちがいないが、一方、その罰は子どものことを思うがためのものだったにちがいない。かつて私は、この作品を評して次のように書いている。

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

結局のところ、作品には、閉じ込められた者と閉じ込めた者のこころのつながりが描かれているのです。暗闇の不安に怯える子どもの心情は、中で怖がっているであろう相手を気遣う乳母の心情と重なっています。閉じ込められた原因を後悔する子どもの気持ちは、乳母自身が愛する者を閉じ込めたという罪の意識と、ぴったり背中あわせになっています。そして、暗い部屋の内と外で、彼らは確かに愛し合っているのです。

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

シュニトケの作品の厳しさとは、大体において、このようなものではないか・・・と私は信じているのである。昨今の世の中、このように本気で怒ることのできる人がいなくなってしまったように思われる。クーデルカの写真に捉えられていたような、丸腰で戦車兵に詰め寄るチェコ=スロヴァキア人のような存在は、もう珍しいのかもしれない。つまり、その分、温かみもなくなってしまったということである。

 

 (③につづく)

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コメント

 再びお邪魔します。

 バルカウスカスの曲は杉原千畝夫妻に奉げられていますが、今井さんと血縁関係はないのでは???

確かに、バルカウスカスの作品は杉原夫妻に捧げられていますね。これは記憶の間違いで、訂正が必要です。その曲が入っているCDに収められた別の曲が、今井さんに捧げられています。


よっぽど今井さんのご両親は当時、オランダにいらしたらしいのですが、杉原さんと立場はちがえども、ユダヤ人を匿ったりしていたのは確かなようです。

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