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2011年5月 6日 (金)

ビントレー振付 アラディン(アラジン) 八幡顕光&小野絢子組 新国立劇場 バレエ公演 5/3 ②

【アラディンのレヴェルで】

①の記事に書ききれなかったビントレー振付の最後の特徴は、表現意図がシンプルで、紛れがないということである。ある意味、紋切型の集積だともいえるが、それを批判するには当たらない。踊り手にとってはいざ知らず、それを見る側にしてみれば、もともと、ダンスとは表面的な視覚芸術であると受け取られる。ジョン・ノイマイヤーのように、そのような芸術のなかにも深い哲学を植えつけることはできるだろうが、その場合、舞踊表現そのものはでき得る限り、シンプルに、直截である必要がある。この種の葛藤こそが、バレエの振付家を悩ませるいちばんのポイントではないかと思う。

単純で、受け手に直截な刺激を与えるのが特徴である舞踊表現のなかで、その特徴を損なうことなく、いかにして、作品の表現性を高い次元・・・もしくは、独創的な個性に引き上げていくことができるのか。

ビントレーの場合、このような悩みからは、比較的、自由であるものと思われる。というのも、これまで『アラディン』や『ペンギン・カフェ』という作品をみた限りでは、この振付家は身近で、単純な素材に、奥深い表現を与えることにかけては、とても鋭いセンスをもっているからだ。例えば、アラディンがジーンの魔法によって、家に帰ってくる場面をみよう。自宅では、腰の曲がった母親(それにしても曲がりすぎでは?)が息子のことを待っている。突如として現れたアラディンは、前の洞窟の場でみたアクションを矢継ぎ早に繰り出して、この心躍る体験を母親に伝えようとする。そのあたりの魅力には前回、あまり気づけなかったのだが、とても面白い場面なので詳述したい。

ここで描かれるアラディンの姿は、ほとんど漫画的にありふれている。母親の背中の曲がり方も、漫画じみていると思うし、子どもが特別な体験を母親に興奮を伴ってまくしたてるのもありがちなことだ。しかし、そのありふれた表現が前の場の見せ場と重ねられて、さりげなく表現されてくると、この場面の深さにぐっと打ちのめされる気がする。母親はアラディンの言葉を鵜呑みにはしないが、楽しそうに傾聴しているようにもみえる。それは、当のアラディンが誰よりも楽しそうだからであるが、その興奮を示すのが、前の場面の印象が具体的な動きで再現されるアラディンの些細なアクションということになる。

子どもがゼスチャーで、母親に出来事を訴えるという単純な仕種が、こうして、交響曲的な展開とともに現れるのを見逃してはならない。この自宅前でのやりとりはコミカルな間奏曲的な役割をしているが、親の顔をみることは何より子どものあり方を見極めるカギであることを踏まえても、アラディンの性格描写にとっては非常に重要である。アラディンが宝石たちの踊りを真似することができるのは、彼らの踊りとしっかり向き合っていたことの証拠である。ランプを手中にすることができるのは、そのことに対する褒美なのであろう(もうひとつ理由があるが)。

この母親はあとの場面で、浴場を覗き見した罪で、サルタンに首を落とされそうになる息子を助ける役割も果たすが、決して美しい動きはしないのに、個性的なサルタン親子や息子に対して、十分に存在感を示すことができなくてはならない。アラディンと母親は雌雄一対であり、母親の細かな仕種のなかにはアラディンの、また息子の仕種のなかには母親の、こころが映り込んでいるという面白さがあった。

結局、『アラディン』というバレエは、いたって素朴なレヴェル・・・つまりは、アラディンのレヴェルで描かれる物語である。だが、アラディンは単純で素朴という以上に、多感である点が魅力であろう。王女が惹かれるのは自分とはまったく正反対であるという点に加え、このようなアラディンの多感さなのである。そして、アラディンの感じる力の素晴らしさが、この作品のすべてなのだと言ってもよい。この魅力に対しては、王女以外にも、みんなが敬意を払う。マグリヴの魔術師や、万能のランプの精さえも!

【八幡&小野組の魅力】

さて、そろそろダンサーの話に移りたい。今回、主要四役は、アラディンに八幡顕光、王女に小野絢子、ジーンに吉本泰久、魔術師にマイレン・トレウバエフという陣容であった。

特に、八幡のアラディン役は独創的である。世界じゅうのどこの劇場でも、彼のようなアラディンのフォルムをつくるのは容易ではあるまい。八幡は小柄であるが、その分、機動力、跳躍力が高く、アラディンのなかに、既にジーンの要素が溶け込んでいるように思える点で特別である。また動きの点だけではなく、内面的な描写力も相当なものであり、多分に演劇性のつよいビントレーの舞台において、言葉をしのぐ直截な身体の表現力で、舞台をどんどんリードしていくエネルギーに満ちていた。

一方、小野絢子は現時点での完成度が高いといよりは、よりゆたかな未来を感じさせる踊り手だ。小野の優れている点は、単にバレエ・ダンサーとして洗練されているだけではなく、女優として、役のなかに入り込んでいく能力の高さという点に要約できる。

例えば、ザハロワがクールな視点で、ひたすらダンサーとしての美しさを洗練させることで人々を感動させる種類のダンサーだとすれば、小野はもっと直感的な表現力を備えたダンサーであろう。しかし、同じカンパニーの厚木三杏のような情熱的、直情的なタイプではなく、それぞれの役どころに応じた適度なコントロールが効いていることで、例えば、このサルタンの王女の場合は、兄弟もおらず、母親も亡くなって、父親の唯一の希望になっている自分の重みを自覚して、自らの魅力を慎重にしか発さないというある種の気品を表現し得ているのである。

中東のサルタンの娘ではあるが、そのダンスの動きには合掌など、仏教的な動きも取り入れられており、インド=中国的なセンスも併せもった王族として、彼らは描写されている。特に、その合掌につながる動きは、小野の場合、鋭い品格に満ちみちている。それは単なる振付ではなくて、王女の信仰心をしっかりと呑み込んだうえでのものである。もちろん、これは架空の世界で、仏教なのかイスラム教なのか、はたまたヒンズー教なのか、どのような宗教なのかは知るべくもないはずだが、小野のなかでは、その動きのなかに、すべての要素が詰まっているように思えるのであろう。その一挙手一投足は、このような宗教をも背景にした、王女の優しさや気高さにつながっており、狩りにいったアラディンの留守を襲って、彼女がさらわれてしまう直前の、ごく家庭的なシーンにおいてさえ、例外ではない。

小野の踊りをみて、私はこのプロダクションにおける王女の重要性を、よりはっきりと認識することを得た。王女のさりげなくも、飛躍的な成長が、全編にわたって描かれているアラディンの成長に、決定的な飛躍を与える。そして、後半に集められた多彩なパ・ド・ドゥで、その成長が確かめられるのである。

【ベスト・カップル】

この組がベスト・カップルというのは、既述のようにアラディンのレヴェルで語られる物語のなかで、もっとも典型的で、身近なアラディンの闊達さと、それを高いところに引き上げる王女の清らかで、気高くも、若干、熟れきっていない少女性という魅力が、八幡&小野の場合はごく自然なものであって、互いが互いの個性を助け合っているからである。そのなかでも、ベスト場面としては湯浴みの場を挙げたい。この場面では、出会いの証である林檎をガリリと噛んで、いささか艶めかしくも、その爽やかな人柄を王女に印象づけるアラディンと、そんな彼をみて、自分を抑えきれずに恥ずかしがる王女の姿が、ゆたかな情感に基づいて描かれているからだ。

2人とも、自分の感じたストーリーや感情を、身体いっぱいに表現して、大胆なフォルムをつくるという点で共通しており、通常の王子&王女役の範疇を超えて、独創的な造型に踏み込んでいる。一方、上の場面では、それぞれのちがいというものが象徴的に描かれながらも、柔らかなユーモアによってそれらが巧みに重ねあわされ、単なる調和からは得られない上向のエネルギーが彫り込まれているのである。やはり、出会いの場面ほど甘美なものはない。第1幕の最後では、プッチーニ風の豪勢な「中国的」音楽(バスハウス・マーチ)で飾られている2人の関係は、バスハウスの場面で、より透明度の高いものとして変奏され、その純真さを通じて、見る者を感動へと誘う。

一方、このバスハウスのシーンのなかにある、明らかにリヒャルト・シュトラウスの『サロメ』風の官能的なシーンは、のちに、アラディンの来援を得て勇気百倍した王女が、魔術師を騙すときの踊りのシーンと直結し、アラディンと王女の結びつきを示すのに、かなり重要な役割を果たすことになる。その終結では、ABAの典型的なトリオ形式をもつバスハウス・マーチの主部が再現し、しかし、今度はトリオ部のたおやかさでもって、2人の完全な結びつきを示す証拠となっている。ただし、実際の場面はこの音楽に若干、遅れてやってくるようにできているのは面白いところ。このあたりの場面は音楽的なクライマックスのひとつにもなっており、今回、大きく見直した場面のひとつとなった。

【その他の役どころ】

これに対し、悪役のトレウバエフがとても良い踊りを見せている。踊りというよりは、演技的なものが多い役柄だが、その演技のなかにも、踊りを感じさせる。バレエ・ダンサーというのはただ立っているだけでも踊りを感じさせるものだが、トレウバエフはその極致をいくような踊り手である。特に、第1幕第2場の砂漠の場で、アラディンを鍛える魔術師の姿はなかなか人間的で、温かみがあるものだ。この役が『白鳥の湖』のロットバルトのパロディであることは疑いもないが、トレウバエフは堅固な技能によってコーチ役をしっかり演じきるとともに、そうした重ね合わせの要素もしっかりと感じさせている。主役組以外では、このトレウバエフへの共感が大きい。

ジーンは、吉本泰久。初演のときと比べると、男らしさが増しており、サルタンの前で披露するヴァリュエーションは迫力があって、見応えがあった。ジーンは意外と出番が少ないが、そのなかでインパクトのある動きを披露するのは大変だと思う。しかし、婚礼の直前のシーンにおけるヴァリュエーションはたくさんの種類の踊りを次々に、テンポよく表現していくことになり、ジーンの万能性を踊りのレヴェルで感じさせる重要なシーンである。

宝石たちのディヴェルティスマンについては、個別の評は避けたいと思うが、配役表を見なくとも、ある程度、自分の好きなタイプのダンサーは弁別できるということがわかって、初心者の私には面白かった。それは例えば、ゴールド&シルバーのところに出た西川貴子であり、サファイアを踊った湯川麻美子であり、ルビーとして鋭い踊りをみせた長田佳世であり、ダイヤモンドのしなやかな表現力で魅せた川村真樹であった。

前回は、洞窟の場があまりにも盛り上がりすぎたために、後半の繊細な部分が霞んでしまうという欠点が指摘されていた(私はそうは思わなかったが)。今回はアプローズをあまり長く受けないようにして、場面全体をなるべく切り詰める努力がおこなわれているが、これは功を奏している。単に尺が縮められるということではなく、宝石の踊りに反応して動くアラディンのアクションが見易くなっている点も重要だ。

【まとめ】

6日の公演もあるので、とりあえず、このあたりで中締めとしたい。

なお、管弦楽はポール・マーフィー指揮の東京フィル。前回よりもこなれてきており、表現力に磨きがかかっている。序盤は金管が外したり、全体のドライヴも鈍い部分があるが、そのあたりは、日にちを重ねるにしたがって良化していくものと信じたい。実際、場面を追うごとに表現は深彫りとなり、最終的には素晴らしい演奏に仕上がっていた。新国の場合は、この東京フィルのピット・インも魅力のひとつであろう(他のカンパニーでは臨時編成のオーケストラや、東京シティ・フィル、東京ニュー・フィルハーモニーなど、一段落ちるオーケストラとなるからである)。

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