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2011年5月 4日 (水)

ビントレー振付 アラディン(アラジン) 八幡顕光&小野絢子組 新国立劇場 バレエ公演 5/3 ①

デイヴィッド・ビントレーの『アラディン』は2008年11月のプレミエ、2シーズンぶりの再演である。新国のためにビントレーが振り付けた最初のプロダクションとなったが、既に輸出も決まっているというほど完成度が高い作品である。3月11日、ビントレーはその改訂振付とレッスンのために東京にいたのだという。しかし、彼は自らの劇場を見捨てることなく、きっちりと役割を果たしていった。私はプレミエのシリーズは一度だけ観ているが、新国の舞台のなかでも特に感動したもののうちに数え上げられる。ただ、今回、その魅力がさらに凝縮した舞台に接して、より大きな感動を味わった。

私の記憶に刻まれたのは、特に第1幕、アラディンが放り込まれた洞窟のなかで、宝石たちが思い思いに踊りを披露する場面であって、プロローグのあと、すぐにやってくる見せ場に興奮し、その後のエピソードは断片的にしか憶えていなかった。なお、主役組は本島美和&山本隆之だったようである。2度目の視聴となる今回は6日を予定していたが、LFJには行かないことを決意し、なおかつスケジュールが空いたので3日にも駆けつけることとなった。まったく同じキャストで2回、観ることになる。しかし、2日の晩までは、私の記憶は確かに残っていたものの、まだ奥深いところに格納されたままだったため、正直、2日分の鑑賞に堪えるような舞台なのかは定かでなかった。

しかし、これは私のイメージ以上によく考えられた舞台であることをはっきりと思い出したし、今回、再発見もあった。こちらの鑑賞力も多少は磨かれたものか、以前よりも多くのメッセージを読み取ることができたために、そのことに気づけたという面もあろう。

【スケールの大きな舞台設定】

舞台はイスラム世界と中国のチャンポンになっている。日本人のイメージではアラディンといえば中東の世界のおはなしだというイメージがあるが、実際には英国でつくられたおはなしで、作者は舞台を中国と想定していた・・・というのは、プレミエ時に、ビントレー自身が話していたことだ。ただ、ビントレーはそれぞれのイメージを生かして作品をつくると述べていたものである。実際には、彼の言葉よりもっとスケールが大きい作品に仕上がっている。例えば、「イスラム世界」は中東だけではなく、北アフリカというほうがしっくりきそうな場面もある。実際、マグリヴ人といった場合には、一般に、北アフリカの西側にある4国に住む人たちのことを指す。さらに、踊りのなかには明らかにインド的なものや、仏教文化も溶け込んでいるほか、コサック・ダンスなどのスラヴ的な要素も含まれているようだ。

つまり、ビントレーの『アラディン』はアジア的なスケールの大きさによって発想された作品であり、そこに北アフリカやスラヴ圏の要素までが加わるとすれば、ほとんど西欧を囲むシルクロード・地中海文化圏を幅広く覆うようなプロダクションと言ってもよいのである。王子役は「アラディン」だが、服装からして中国人の設定だろう。王女はイスラム王国のサルタンの娘で、これらの結びつきは単に中国と中東のどこかの国の結婚ではなくて、上のような文化圏の東西両端を結びつける壮大な縁となる。

そして、その仲人となるのがランプの精=ジーンであるが、この万能の精霊は呼び出す者の心根によって、悪魔にもなれば天使にもなるというのが面白いし、また、結びつきの象徴物としては、獅子舞やドラゴン・ダンスという中国の祝祭的な風物をもってきているのが興味ぶかいところである。

【成長】

作品は、このようなスケールの大きな舞台の設定のほかに、いくつかの柱を抱えて、発展するようにできている。それらは当然のことだが、踊りのなかに仕込まれている。1つは、成長という問題である。これは明らかに無邪気で、他愛もないアラディンの側ばかりではなく、一見、しっかり者で隙のない王女のほうにも影を落とす点で深みがある。しかし、その中心はやはり、アラディンの側にある。アラディンは最初の幕では、コソ泥でペテン師だ。仲間と一緒になって悪さを働き、その機転の素晴らしさを魔術師に見込まれて、虎の穴に連れ込まれてしまうというわけだ。最初の師匠は、実は魔術師であった。彼はアラディンをうまく仕込んで、手下にして、ランプを手に入れようとする。

そこから先の成長物語については、前回の記事でもしっかり書いているので繰り返さない。

【男が女を支配しない】

次に重要になってくるのは、男女の問題であろう。このプロダクションの著しい特徴は、男性ダンサーが女性ダンサーを支配していないということである。伝統的なバレエ作品では、プリマとして目立つのは女性ダンサーのほうであっても、実のところ、男性ダンサーがその動きの鍵を握っており、女性ダンサーはヒュッテやほんの僅かに赦されるフォルムの個性によってのみ、自分を解放することができるという按配であった。そのようなことを嫌ってか、例えば「H・アールカオス」という団体ではワイヤー・ワークを多く取り入れて、男性ダンサーのくびきから個性的な女性ダンサーを解放しているわけでもあろう。

これに対し、『アラディン』ではもともと男性ダンサーは支えの役割が多くなく、動きに焦点があわせられている。アラディンと王女の関係は、いかにもバレエ的な絡みではなくて、より自由で、フレキシブルな距離によって表現されているのだ。相手に触れる場合でも、相手の動きを生かすための最小限のものになるように工夫されているのが明らかだ。それとは対照的に、魔術師と王女の間の(ダンスの)関係は完全に、男性の支配によって成り立っている。あまつさえ、魔術師は言うままにならぬ王女を、乱暴に放り出してしまうのである。

最後の場のパ・ド・ドゥともなれば、アラディンも王女を支える役割が大きくなるが、それは支配云々という関係ではなく、2人の関係の緊密化・・・つまり、2人の距離が縮まったことによる自然な変化にすぎないだろう。

【劇場運営になぞらえた裏の成長物語】

プロットに即していえばそういうことになるが、このことは、劇場そのもののヒエラルキーにも影響を与える考え方だった。初演当時は牧阿佐美が芸術監督の地位に君臨しており、ビントレーはまだ、今のような地位にはなかったが、ダンサーの選び方には目にみえる革命をもたらした。彼はそれまで起用されていた主役級と並んで、八幡顕光と小野絢子をアラディンと王女役に選び、メディアでも2人の良さを頻りに強調した。ビントレーが名実ともに責任者の地位に就いて、その方針はよりはっきりとしたが、優れたダンサーの集う新国の舞台では、日本的なヒエラルキーはかき回され、世界のバレエ・シアターのように、新しいダンサーが努力と成長に応じてチャンスを掴むことができるかもしれないシステムが成立した。

今回のプロダクションでも、昨季から加入の長田佳世が洞窟の場の花形のひとつであるルビー役を務め(2、3、4、6、8日)、新加入の米沢唯(4、7日)や、ペンギンで活躍した群舞格のダンサー、井倉真未(5、8日)が同じく洞窟の場のサファイヤ役に抜擢されるなど、フレッシュなメンバー構成が目を惹くところである。

これは、前述の舞台設定や「成長」の問題とも関係して、作品を覆うテーマのひとつにも発展する。マグリヴの魔術師は『白鳥の湖』のロットバルトに相当する悪役だが、一方、アラディンの良さを逸早く見抜いて、その才能を伸ばそうとするコーチでもあることに注意しよう。悪事に使うためとはいえ、魔術師がアラディンを鍛え上げる砂漠の場は意味ぶかく、魔術師は実のところ、ビントレーの分身であることに気づくべきだ。ビントレーは多分、ないものねだりでダンサーを困らせるのではなく、彼らの良さを見つけ出し、あるものを巧く組み上げていくことで、舞台とダンサーの関係を深めていくタイプのコリオグラファーである。その素晴らしさが、この舞台に生きていることは疑うべくもない。

【ビントレーの指導スタイル】

前回、見たのが山本隆之のアラディンで、今回は八幡顕光だったということで、この特徴をはっきり感じ取ることができたのも幸いである。ダンサーによってかなり印象がちがうとは聞いていたが、これほどまでとは思わなかった。山本のアラディンはビントレーの学んできたクラシック的な部分・・・つまり、フォルムの美しさや、他のダンサーとの関係の鋭さを物語るものだが、八幡のそれは、同じビントレーの培ってきたもののなかでも、ポップな部分・・・つまり、表現の崩し方やリラックス、あるいは、自由といった視点を代表する。八幡のアラディンはすばしこく、ちょっと呑気で、無邪気さが目立つ。その分、母親との絡みなどがより身近で、ヒューマンな印象に仕上がる。そのような魅力は、より高度なダンサーであるはずの山本のなかにはないものだ。

ただし、自由、即、何でもありではない。八幡はむしろ、ビントレーの意図に忠実である。そこが、面白いところなのだ。

ビントレーは多分、次のような指導をおこなっているにちがいない。まず、大筋のプロットや彼自身が思い描くダンスのスタイルは、確固として定められている。しかし、そのなかにある細部の解釈については、各ダンサーの個性を最大限に尊重する。例えば、山本と八幡では背格好も随分とちがうわけで、もちろん、受けてきた教育やこれまでの経験、その人が身につけてきた人間性によって、作品の解釈は様々となる。普通、こうしたキャストが同時に、同じ役で併用されることはない。オペラにおいて、声質によって歌手の役どころが決まってくるように、バレエの場合は、踊りに求められる資質によってダンサーが選別されるからである。だが、ビントレーの舞台では、そうした常識は通用せず、そこに生まれる余白の部分が大きいために、同じプロダクションであっても、細かな表現の差によって生じる印象の差も大きくなるわけである。

【八幡&小野組の優位性】

そうはいっても、このプロダクションにおいては、やはり八幡&小野組がベスト・カップルだろう。八幡はスピードと押しのつよい表現力で、きわめて魅力的に王子の成長物語を描く。湯浴みの場で、2人の出会いの思い出に王女が大事にもっていた林檎をこともなげにガリリと噛んでしまう場面など、その無邪気さ=爽やかさにつながる場面が印象的だ。一方、小野のダンスは気品がありながらも、適度なリリカルさがあり、この役には相応しい。シャープで美しいが、フォルムに屈託のない小野の踊りは、相手役の個性ともよく噛み合っている。

2人のことについては、あとでもうすこし詳しく書くことになろう。

なお、この小野絢子はビントレー時代の中心的役割を演じるダンサーになりそうな印象であり、来季、発表されている範囲のキャスティングを見ても、主要なプロダクションで常に小野が柱になっていることは一見して明らかである。

【伝統との対峙】

話が前後するが、あと2つ、「柱」となるものがある。1つは、音楽や舞踊の伝統を踏襲した振付のスタイルであり、もう1つは、表現意図のシンプルさである。前者のはなしについては、まず、このプロダクションが元来、クリスマス前後に恒例化しているチャイコフスキー『ナッツ・クラッカー(くるみ割り人形)』の季節に、その代用として構想されたことと関連づけて考えられる。例えば、洞窟の場の宝石たちによるディベルティスマンは、『ナッツ・クラッカー』の第2幕にある各キャストによる踊りのシーケンスをパロディ化したものである。細かくは述べないが、チャイコフスキーの音楽をそれなりによく知る人ならば、その符合関係はいろいろなところで発見されるにちがいない。

しかし、それだけではないのだ。例えば、浴場宮殿前で流れる王女のテーマは、アラディンとの出会いを予告するように中国的なものだが、その響きは実はプッチーニが描いたような「中国」にちかいものであり、豪華なマーチであることもあって、いささかはフランツ・レハール的でもあろう。音楽的な要素は、これらイタリア・オペラやウィンナー・オペレッタ、それにチャイコフスキーの舞台作品などのチャンポンで成り立ってあり、カール・デイヴィスの音楽は際立って独創的ではない。しかしながら、その作品は徹底的にバレエ的であり、まるで振付家が作曲をしたかのような都合よさがある。例えば、アラディンと王女の婚約を祝う獅子舞(ライオン・ダンス)の音楽などは、彼以外の誰かに思いつくものとも思えない。

ただし、リンクの録音に収められた作曲者指揮による演奏を聴くと、ライオン・ダンスは結婚の喜びを表現するだけではなく、次に登場する野心的な魔術師による悪巧みによる悲劇を暗示する役割を併せもっているが、ビントレーの盟友、ポール・マーフィーは獅子舞のアクティヴな明るさに特化した音楽に整理しており、ビントレーのオーダーによるものか、音楽自体も若干、獅子舞のところが膨らまされているのではなかろうか。動きからみても、最後、獅子舞の2人の踊り手が着ぐるみを脱ぎ、顔を出すなどすることで、完全に、これを余興として描いているにすぎない。そして、改めて魔術師の場面をきりっと描きなおしているのである。

プロットの鋭さは原曲が上だが、第1幕を締め括る獅子舞の印象は意外に大事であり、表現の効率よりも、アランディンや王女、それを取り巻く人たちの幸福をより効果的に印象づけることを狙ったものと思われ、賢明である。

デイヴィスの音楽もそうだが、ビントレーの振付も、決して伝統的なものを尊重しない傲慢なものではない。むしろ、そうしたものと真剣に向き合いながら、この時代、ここに生きる人々とも向き合うことで、彼らの表現は高められているようにみえる。ビントレーの考え方は、もっと保守的な私の考え方とは合わない面もあるが、しかし、彼の徹底した合理主義・・・つまり、あるものを手の届く範囲で、きっちりとモノにするアイディアの素晴らしさというものは、とかくランキングや価値の固定化に向かってしまうような牧時代の価値観を大きく覆すという点でも、私はつよく支持するものである。

【おまけ】

ついでに皮肉めいたことを書くなら、実は、5月17日からビントレーが手掛けるもうひとつのカンパニー(もちろん、そちらこそが主戦場であろう)、英国のバーミンガム・ロイヤル・バレエがNBSの招聘で公演をおこなう。ところが、新国でも活躍するマエストロの振付は取り上げず、すべてアシュトンやプティパ(ピーター・ライトによる改訂版)の振付による古典的な舞台なのである。それ自体が問題なのではないが、かつてはサドラーズウェルズ・ロイヤル・バレエ団とも呼ばれたこのシアターの評価を高めるに当たっては、重鎮のピーター・ライトとともに、やはりビントレーの功績が大きかったのではなかろうか。

NBSの企画者は、やはりヒエラルキーとしてプロダクションを比べ、劇場やコリオグラファーを知名度でポジショニングして、あの有名な「ロイヤル・バレエ団の姉妹カンパニー」として売り出そうとしているようだ。実際は「ロイヤル」の姉妹分というよりは、日本のバレエ界に貢献してくれているマエストロの母国における手兵というほうが自然なのに、なぜかビントレー色をあまり色濃く出そうとはしておらず、発音へのこだわりか、芸術監督はデヴィッド・「ビントリー」としている。私はそのような姿勢に、激しい違和感を覚えるのである。

私はどうせバーミンガムが来るなら、ビントレーの舞台がもっと見たいと思う。この振付家は非常にアクティヴに制作をおこなっていることで知られ、そのなかで、世界的に当たった舞台もたくさんあるからである。『アラディン』が輸出できるのも、彼がつくったものへの信頼が高いからに相違ない。そのようなことを知っているはずのNBSの姿勢は、暗に日本の観衆を低く見るものであるように思われる。

(②につづく)

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