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2011年5月 8日 (日)

ビントレー振付 アラディン(アラジン) 八幡顕光&小野絢子組 新国立劇場 バレエ公演 5/6

【客層のちがいに驚く】

予告どおり、6日も同じプロダクションをみた。この日は平日ソワレということで子どもたちの姿も少なく、私のいた3F席は後方2列がガラガラ。連休の谷間に当たる、金曜日の集客は難しかったようである。しかし、プロダクションの印象はもちろん、相変わらず上質で楽しめるもの。ただし、微妙に観客層が異なるせいか、客席の反応が大きく異なるのには驚かされた。例えば、最後のパ・ド・ドゥのあと、3日には盛大な拍手がオケが鳴り出すまでつづいたのに、6日は最後の繊細な動きを噛みしめるようにシーンと静寂に包まれ、みんなが見とれているうちにフィナーレに突っ込んでいったのである。

いつもは同じ公演を何度も観ることなどあまりないので、これが普通のことなのかどうか、私としてはよくわからないが、宝石たちのディヴェルティスマンにおける掛け声なども少ない代わりに、フェッテなどの見どころでは流れに合わせて時宜を得た拍手が出るなど、同じプロダクションでこれほどちがう客席の反応は、オペラやコンサートではなかなか体験できないものである。

【ハプニング!】

6日には、若干、ハプニングがあった。王女が魔術師のもとに連れ去られたあと、魔術師の手下に化けているアラディンに気づかず、彼女が自分の運命を嘆きながら踊る場面で、小野が転倒したのである。大きな音がしたので、まさか新規の演出とは思えぬが、この場面はもともと王女が泣き崩れてしっかり踊れないという場面なので、何も知らない人から見たら、これも演出のうちとみえたかもしれない。その後の舞台は概ねしっかりこなしていたし、大過失として扱うつもりはなく、かえって、雰囲気が出た面もなくはない。もちろん、怪我につながる可能性もあることであるし、転ばないに越したことはないのだろうが、こうしてみると、王女の悲嘆はもっと鮮明に描いたほうが効果があるのかもしれないと思う。

【洗練と成熟のあいだで】

全体の印象は変わらないが、音楽面はやや向上、舞踊のほうは少し落ち着いた感じであるが、後者の印象は主にオープニングの八幡のパフォーマンスによるのだろう。こなれた分、動きの新鮮さはこころなし減退。ただし、私が今回、最高の場面として挙げた湯浴みの場は、3日よりもずっといい。特に2人の関係がぐっと詰まり、その表出として、小野のフォルムの美しさが鋭さを増したからである。また、もうひとつ挙げた月の砂漠での特訓も、表現がくっきりしてわかりやすくなっている。

この間にある宝石たちのディヴェルティスマンの印象は、3日とさほど変わらないが、ルビーの長田と、ダイヤモンドの川村は、それぞれに役柄が入ってきたという印象である。特に、この役で5日を除く4連続日程で踊っている長田は初日、まだ動きと動きのつなぎにムラがあって、私はそこに若干の粗さを見出していたものだが、その部分がはっきりと解消され、彼女らしいフォルムが完璧に輝いた。ここまで書かなかったが、バーミンガムから逆輸入のダンスール・ノーブル、厚地康雄がとても安定した支えを見せており、まともな支え役が山本ぐらいしかいない新国の舞台で貴重な存在になりそうな可能性をはっきりと見せてくれた。

川村は初日、ダイヤモンドの精のもつ可愛らしさと、きりっとしたリード・ダンサーとしての役割で、若干、迷いを見せていて、結局、後者の要素において目立ったわけであるが、当夜はアラディンのお姉さん役に徹することで、2つの要素をきっちりと動きのなかに統合させていた。この役がしっかりすると、宝石の精たちから各々のジュエリーを頂戴して喜んでいたアラディンが、改心してみんなのところに宝石を戻し、その褒美としてランプを手にすることができる人間性を獲得するという流れがわかりやすくなる。

トレウバエフ、吉本は、ブレない踊りと演技で鉄板。小野も先の場面に限らず、ふらつく場面が少なくなかったが、それはこの振付の難しさとして、表現としては一歩を進めたように思われる。むしろ、より強く、鋭い表現を求めての「失敗」とみて、私はむしろ満足した。

音楽はより洗練されてきたが、先の小野とは反対に、ひっくり返りやすい跳躍音で慎重すぎて格好が悪く、私には可笑しかった。前半のドライヴは3日と比べて、すこし速めに思われたが、気もち程度である。マーフィーの指揮は舞台に対して合理的でありながら、音楽面での味わいにもメリハリがあり、やはりビントレーの舞台には欠かせないメンバーといえる。東京フィルは、オーボエなど木管のアンサンブルが美しくて耳を惹く。3日も6日も、オーケストラに対しては、ひときわ大きな拍手が贈られていた。

洗練と成熟のあいだで何が本当に正しいものなのか、しっかりと見分けることは容易ではない。

【闇には光を】

バレエ部門としては震災後、はじめてとなる公演に当たっての挨拶書きで、ビントレー芸術監督は、「闇にはいつか光が注さねばならない」という言葉を書いている。もちろん、この舞台に因んだ言葉であろうが、この一言には多くの人たちが勇気をもらえる気がするのではなかろうか。アラディンは愛する妻を奪われ、頼みの綱のランプさえ奪われても、決して諦めずに、空飛ぶ絨毯を追って自らの足で駆けていた。正に、我々はこのアラディンとならねばならないのである。そして、その結果、真の強さを手に入れたアラディンは多少、王女に引っ張られながらも、本当の男として成長する。

日本は、幼い。そのことは、私たちの政治をみれば明らかだが、一方、私たちにも良い面があると、今回のことで同時に証明されたことも忘れてはならない。リンクの「砕け散った日本の鏡」という題名の文章は米国紙WSJ日本版の社説であるが、一部、疑問に思う部分はあるものの、とても気に入っている記事である。入口は欧米の記者には不人気の石原都知事の「天罰」発言を批判するものだが、そこに本旨はなく、日本人の本質についてよく言い表した文章だと思う。最後のパラグラフを引用する。

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しかし最も重要なのは、一般の日本人が冷静に震災に立ち向かっていることだ。それは、石原都知事の見下すような発言が時代遅れでばかげているだけでなく、間違っていることを見事に証明している。彼らは自分や家族だけでなく、見ず知らずの他人とまで助け合っている。もしもそうした助け合いの精神が日本人のステレオタイプに反するというのであれば、そんなステレオタイプは、今こそ、打ち砕くべきなのである。

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私たちはまだ、成長過程のアラディンのようなものだ。しかし、それにもかかわらず、美しい特質をもっている。問題は、それを十分に生かすための鍵をもっていないことであろう。この物語のなかには、私たちがその問題をどのようにして解くべきなのか、豊富に答えが用意されているのかもしれない。

闇には、光を!

私たちは、その光を必ずや掴むことができるだろう。だが、ジーンのように、万能の精霊が私たちを助けてくれるわけではないようだ。アラディンがランプを手に入れることができたこと、また逆に、魔術師があれほど強く望んだランプを手にできないのには、十分な理由があったことも忘れてはなるまい。結局、私たちはその理由を少しずつ、突き詰めていくしかないのである。しかし、私たちは多分、間違ってはいない!

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