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2011年5月24日 (火)

クラウス・シルデ シューマン 幻想曲 (Meister Music)

【はじめに】

先日、事務所で昼食をとっていたら、2階部分をほぼ半分シェアしている大家さんの家からピアノの音が聞こえてきた。音色がよく、きっと質のいいグランド・ピアノだろう。はじめドビュッシーかなんかを弾いていて、あとでチャイコフスキーあたりに変わったのではないかと思うが、断片的なものだし、それに集中していたわけでもないのでよくわからない。しかし、ひとつ憶えているのは、断片を細々と鍛え上げるような演奏ではなくて、とにかく、多少は野暮ったい部分があっても通奏に徹していることであった。弾いて遊ぶという行為ならばまだしも、そのピアノの音がレッスン中のものだとするならば、大家さんにはまことに申し訳ないことだが、私はこのピアニストには寸分も可能性を感じない。

世の中には多くのピアニストがいるが、今日はこの場所、明日はあちらの場所と定めて、コツコツとフレージングや振幅、タッチの質などを決めている人といったら、一体、どれぐらいいるのだろうか。私の直感では、多くのピアニストはむしろ通奏に力を入れており、その流れをどのようにしたら保つことができるのか、あるいは、トータルのなかでどれだけ打鍵の精確さを保てるかに腐心しているように思われてならない。もしもそうでなかったら、もっと私のこころを惹くような細々とした表現のアイディアを駆使して、日ごとに成長していくようなピアニストに出会える可能性も高いはずだからである。

私はそのような意味で、模範的なピアニストのひとりとして、クラウス・シルデについて取り上げたいと思った。残念ながら、生で聴いたことはないが、彼のドイツ音楽の録音はいずれも質の高いものばかりであって、彼の輝かしい経歴を納得させるに十分なものばかりである。かつて東京藝大の客員教授として教鞭をとったこともある縁からか、わが国の著名な録音技師で、邦人演奏家の録音に熱心な平井義也氏の設立した Meister Music というレーベルに、バッハやベートーベン、それにシューマンの録音を多数、吹き込んでいる。

ベートーベンも非常に味わいのある録音が多いが、その分野には既に多くの名盤が輩出されていることを思うと(ただし、それらのなかにあっても、シルデの録音はもっとも模範的なものとして位置づけられる)、より価値が高いのはシューマンということになるのではなかろうか。近年、シューマンの録音も増えており、確固とした技術力を備えていれば、表現の面で苦労しない作品が多いことから、コンペティションでも『謝肉祭』や『交響的練習曲』『クライスレリアーナ』、『ユモレスク』『パピヨン』などの作品が便利に用いられている。その傾向から録音の分野でも、アムランやエマール、ル・サージュ、若手のヘルベルト・シュフなど、直球勝負のものが多数リリースされている。

これらのものと比べれば、シルデがいかに苦労して、ディスクを仕上げているかがハッキリとわかるであろう。『幻想曲』を下敷きにして、シルデの素晴らしさを検証していきたいと思う。

【ラルス・フォークトの幻想曲】

例えば、ドイツとフランスを代表する男さかりの演奏と比較して見てみよう。ラルス・フォークトは1990年のリーズ国際コンペティションでサイモン・ラトルが絶賛、今日も売れっ子として世界中のオーケストラやフェスティヴァルに招かれている。私も、彼が2006年にN響でモーツァルトを弾いたときには気に入ってしまい、次の月曜日に、紀尾井ホールで開かれた単独のリサイタルを急遽、聴きにいったりしたほどである。

彼の演奏はとりわけ完成度が高いことで知られるように、この『幻想曲』もまた、今日的な演奏のなかではまず模範的なものであり、若いピアニストたちも彼の演奏を聴くと、まずうっとりとなってしまうにちがいない。

しかし、シルデの演奏と比べれば、華やかな序奏だけでも相当に物足りない。折り目正しく、強調の仕方もスマートで、バロック音楽的に格好がいいのだが、それらはいかにも平べったいサウンドのなかで響くのであり、シルデが奏でるような狼が森のなかを駆けいくような作品の奥行きや立体感、生命感といったものに乏しい。そのため、序奏のあとに訪れる妖艶な溜めは甚だ不健康なものに聴こえ、その後の展開も小さくまとまって、幻想曲らしい自由闊達な世界観の広がりが見られない。フォークトの演奏は良くも悪くも「古典的」であるのが特徴で、バッハ的な構築の几帳面さを追い求めたり、ベートーベンに対するシューマンの影響を穿ってみることにかけては、なるほど充実した演奏である。

とはいえ、そうした要素がこの作品の演奏するのに見合う表現であるようには思えず、シューマンを矮小化したり、なにか言い古されたステロータイプに基づく要素に向かって、強引に作品を引っ張りまわしているような印象を拭えない。確かに、それほど見事に作品を再構築できる理知と技能には驚嘆すべきだが、それは慎重に磨き抜かれた表現というよりは、むしろ、そうしたものを抜きにして「できてしまう」表現という感じがする。

【ル・サージュの幻想曲】

これは、エリック・ル・サージュの演奏についても、別の意味で問題となることである。ル・サージュは、ティーンでパリ音楽院の課程を終了し、ロンドンでマリア・クルシオについた天才肌のピアニストで、そのフレキシブルで、カラーのつよい響きは特にフランスの室内楽で力を発揮している。パユやルルーといったフランスの木管楽器たちのスターたちと組んだレ・ヴァン・フランセの公演では、私もその凄さを実感している。

ただ、Alphaレーベルから出された『幻想曲』の録音は、必ずしも感心するものではない。これがドイツ音楽だから・・・という偏見に基づく評価ではない。理由は非常に簡単で、音色が多すぎて、構造が際立たないということに尽きる。ときどき和声が厚くなり、音楽が盛り上がってくると、どうしても音が飽和してしまい、全体の響きがコントロールしきれないのである。このピアニストは、多くの人たちが悩むようなカラーの問題について、ほとんど悩むことはないほど、見事に響きを色彩づけることのできる天才だ。ただ、そのことがいつも良いとは限らない。

例えば、フィギュア・スケートの安藤美姫はロー・ティーンのジュニア時代、3回転半のアクセル・ジャンプを跳ぶことが容易だった才能をもつ代わりに、規定のなかにあるダブル・アクセルでしばしば回りすぎて着氷に失敗し、ミスをしていた。これと同じように、ル・サージュの場合は、自分のカラーについての才能を抑えることができず、表現にムラができている。そのため、ところどころ素晴らしい響きを醸し出しながら、全体的には随所にバランスを欠くという内容になっているのだ。

【音色と音の厚み】

クラウス・シルデも実のところ、音色は豊富なほうである。シルデはドイツ的なピアニストであるが、その下積みの経歴をみれば、フランスで実に3年間、マルグリット・ロンのもとで研鑽を積んでいたという事実もある。そんなことを書くよりも、この『幻想曲』のプクプクした生命感が何に基づくかを考えればいいのである。つまり、それこそはフォークトのもたないものであり、音色の柔らかな膨らみが、それをもたらしているのである。ピアノ作品にとって、音色の役割のひとつは、パンにおけるイースト菌のそれと同じなのだ。それが活性化することで、ピアニストたちは初めて、作品に音の厚みを付け加えることができる。いくら強く鍵盤を叩いても、この膨らみは得られない。

しかし、シルデはそれを厳しくコントロールしている。過ぎたるは及ばざるがごとし。ヴィブラートも音色も、同じことなのだ。それが適切なところで、適度に生かされることではじめて、響きは自然で、聴き手のこころを惹くような膨らみを見せてくれる。

シルデの演奏の最初の何小節かを聴くだけでも、その素晴らしさがわかるだろう。ここに聴かれるのは完璧に制御され、その上、完璧にいのちを吹き込まれた複数の声部による室内楽だ。すべてのラインが何か明確な意識をもって、自らの立場を守り、輝かせようとして、もがいているかのような響き。それはまた対位法の厳しい構造と、滲み出るロマンティックな詩情との絶えざる交叉を示すものでもあるが、これらがシューマンらしい寄る辺ない独特の揺れをさりげなく導いている。そのことは象徴的には第2主題と、和声的なアテンションが見事なその展開によって明瞭になっており、これらの要素をゲートにして我々をどんどん深く、作品世界に引きずり込んでいく。

【和声づけの見事さ】

ちなみに、その和声づけのタッチも色鮮やかである。それについて言葉を多く弄することは避けたいが、第2楽章以降、構造的な要素が厚くなればなるほど、その繊細なデザインが明るく輝いている。ただ和声を美しく整然と並べられるだけのテクニシャンではなく、その効果を的確に予想して、慎重にデザインするところからシルデの演奏は始まっているのだ。そして、単に響きを密にするだけではなく、抜くべきところではしっかりと手綱を緩めることも忘れない。これが、理論派のピアニストが陥りがちな怜悧なサウンドから、シルデの音楽を連れ去るのである。第2楽章ではその結果として、中間のゆったりした展開からロッシーニ・クレッシェンド的な流れを追って、激しい音楽がほぼ自動的に生成するという筆致の巧さが出ている。

【第3楽章に感じられる天国】

こうしてシルデの演奏は、論理的にも整然と道を辿ることになる。終楽章は、第1楽章における飛翔、そして、第2楽章におけるどっしりとした響きの勝利に対して、安心と昇華の音楽である。つまり、それは構造的なさっぱりした展開と、それにつける和声の重々しさ、それらを繋ぎ止める詩情の甘さという3点の調和によって、しっかりと落ち着いた音楽になっている。10分弱もある演奏時間なのに、私たちは没頭してこれを聴くことになり、まず時間は感じないだろう。正に、それは天国に時間がないのと同じことである。

【まとめ】

だが、そういった意味で、私が先に述べたラルス・フォークトの平面性とは、どこがちがうのであろうか。それはまず、聴いてみてのお楽しみとしておきたい。しかし、コーダに入るときには、どんなに鈍感な人であっても、そのことにはハッキリ気づくだろう。そこには、多重的な意味がある。多分、シルデの演出する30分強の時間のなかで、私たちはいくつも賢くなるはずだ。それは単に、シューマンの音楽についてばかりではなく、正に、それに向き合うクラウス・シルデという人間性からくる問題なのである。

私がこれまでに聴いたもののなかで、これに匹敵するか、それ以上に素晴らしい録音といえばワルター・ギーゼキングのものをおいて他にはない。シルデの録音が天国を現実の感覚で描くものだとすれば、ギーゼキングのそれは、正に幻想としての天国=神秘そのものである。

もちろん、上に掲げたフォークトやル・サージュも、決して質の悪いピアニストだというわけではなく、どちらかといえば、私の好みのピアニストである。しかし、シルデと比べれば、その探究心の粘りづよさには、まだまだ磨きをかけられるはずだ。そういった意味で、まだ先のある、あるいは、余裕残しの表現だと言えるのかもしれない。例えば、ル・サージュの第3楽章などは、私のいう弊からはわりに自由であって、そうした部分を生かしきることで、彼の表現はまだずっと良くなるはずなのである。フォークトにしてもル・サージュにしても、彼らはまだ若く、3ー40代ですべてを成し遂げてしまう必要などない。しかし、既になにがしかを成し遂げたかのように見える、彼らのはるか前にも、このような優れた導師の姿があることを見逃してはならないのだ。

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