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2011年6月13日 (月)

パシフィカ・クァルテット ベートーベン 弦楽四重奏曲第14番 ほか @サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン 6/12(11:00-)

【チェンバーミュージック・ガーデン】

サントリーホールが、小ホール=ブルーローズを舞台に、「チェンバーミュージック・ガーデン」(以下、CMG)という企画を立ち上げた。

6月に開かれるCMGの柱は5本で、プロデューサーの堤剛と、彼の選んだ「ファカルティ」によるオープニング・コンサート。米国の高機能室内楽アンサンブル、パシフィカ・クァルテット(以下、パシフィカQ)によるベートーベンの弦楽四重奏曲全曲演奏会「ベートーヴェン・マラソン」。元ボザール・トリオのピアニスト、メナヘム・プレスラー(&パシフィカQ)による室内楽ワークショップとピアノ・リサイタル。クラリネットのリチャード・ストルツマンらが登場する、来週ウィーク・エンドに開催の室内楽ビギナー向けのライトなコンサート群。そして、サントリーホールのレジデント・アーティストとして活躍してきた弦楽三重奏団「フェスティバル・ソロイスツ」のための、ファイナル・コンサートである。

なお、サントリーホールは日本における室内楽の環境を整えるという目的のためか、室内楽演奏のためのアカデミー生を選抜して、定期的に指導していく方針も打ち出している。アカデミー生のための「コーチング・ファカルティ」としては、ピアニストの若林顕と、クァルテット・エクセルシオが選ばれた。また、1月にはレオン・フライシャー、この6月にはプレスラーが「ゲスト・ファカルティ」として招かれ、アカデミー生を指導する(した)。なお、この「ファカルティ(faculty)」という言葉は聞き慣れないものだが、英語で「教授陣」といったような意味で、ひとつのアカデミーや個人の範疇を越えた指導者たちの総称として用いられているような感じである。

【やや欲張りな企画】

さて、私が聴いたのは、パシフィカQの12日午前の部である。「ベートーヴェン・マラソン」の趣旨は面白いが、1日2回公演を組んでまで、3日で15の弦楽四重奏曲を全曲演奏するというのには、あまり共感できないところだ。別に全曲でなければ価値はないということはないし、全曲やったから意義ぶかいということもない(全曲やることで見えてくるものもなくはないが)。室内楽というのは手近で、フレキシブルに組みやすいという特徴がある一方、選り抜きのアンサンブルの道では、どれだけ限界まで表現を突き詰めることができるかということに、大きな面白さを見出すことができるだろう。折角のパシフィカQの公演と来れば、私はこの後者の条件をでき得る限り、万全に引き出してもらうための環境を用意すべきだったと思う。

音楽ジャーナリストの渡辺和氏は、ベートーベンの15曲を5回でやるか6回でやるかは、プログラミング上、とても難しい問題だと仰っているが、演奏会は3回にして、曲目は半分にするという選択肢もあったはずではなかろうか。残りはまた来年…という楽しみにしてもよい。このイベントは、来年の開催も予定されているのだから。

【シンプルな表現】

とはいえ、彼らの公演に、なにか不満があったというわけではないのである。このベートーベンでも、やはりパシフィカQはパシフィカQであったというほかはない。精妙のうえにも精妙、スクロヴァチェフスキ風にいうならば、楽譜に示された楽曲(の設計図)を「レントゲンにかける」ような演奏だった。さらに、今回、特に気づいたことは、表現がシンプルだということである。ボウイングにしても、フレージングにしても、ほとんど小細工がなく、モーツァルトやハイドンを弾くのとさほど変わらない表現手段なのである。

もしもベートーベンが古今東西の作曲家のなかで、際立って特徴的ではない作曲家ならば、そのことは別段、驚くに値しない。パシフィカQの凄さというのは、そうであっても、やっぱりベートーベンはベートーベンとして、個性的な、力強い表現で貫いていることなのだ。例えば、(折角だからマラソンに譬えて言うが)全盛時の高橋尚子の身体をみて、私たちはあんなコンパクトで、小さな身体のどこに、あんなに速く走ることができる力が蓄えられているのかと驚いたものだ。それと同じように、パシフィカQの演奏の奏でる繊細な響きのどこに、あれほど逞しく、堅固な骨組みをつくる要素があるのか、その秘密をすぐに感じ取ることは容易ではない。しかし、いずれにしても、その要素はあるのだ。

【身体からつくる表現】

その謎を読み解くためのひとつのキーは、身体の動きのなかに隠されているのではなかろうか。かつて、LFJの舞台にベルリン古楽アカデミーのメンバーがやってきたとき、すべてのプレイヤーが連動して、イソギンチャクのような伸縮によって、弾力的な響きの伸縮を可能にしていたことを思い出す。彼らは正に、その4人ヴァージョンをやっているのだ。2つのアンサンブルの姿を見比べれば、オーケストラの基本単位がクァルテットであるという、そのよく言われる格言の真実に触れることができるだろう。

そして、この動きをエネルギーに変えるという原理こそ、ベートーベンという人の作品をみるに当たり、あらゆる意味でキーワードとなるような要素なのである。だから、本来は彼らのアクションと響きの関係について、細々と論じていくことで、彼らの表現の本質のひとつを確かめることができるのだが、それは私のような有暇人にとっても容易いことではないので、諦める。ここでは、パシフィカQの表現が身体から楽器、そして、ホールの響きまでを有機的に結合したものだということを言い置くに留めたい。

【カンタービレの質的なちがい】

さて、演奏はあまり聴く機会のない第2番から始まった。

私はベートーベンの初期作品は、交響曲にしろ、ピアノ・ソナタにしろ、どちらかといえば、好きなほうである。それは、ベートーベンが偉大なる先行世代とどのように向き合い、表現を組み立てていったかを知るのが容易だからであり、古典的な表現の枠のなかで、彼が死ぬまでつづけることになる精神と形式の革命のエネルギーが、その時点で既に用意されていたことを証明するからである。天才は、成長しない・・・それが私の持論である。天才は最初から、すべてをもっている。ただ、自分の生き方の段階において、ご婦人方にわかりやすくいえば(その必要もないが)、季節に合わせてウォークイン・クローゼットから出してくる衣裳が異なるというだけのことなのだ。否、それこそが、季節を感じることこそがもっとも難しいことであり、成長の証ではないかという議論もあろうが、(自分で言い始めておいて恐縮だが、)いまは、そこに拘泥すべき時ではない。とにかく、もう既に、彼はすべてをもっているのである。

ときに、もしも、この日の演奏でいちばん印象的なところを挙げろと言われれば、私は迷わず、第2番のスケルッツォを選ぶだろう。パシフィカQはこの楽章をオペラの・・・それも、モーツァルト的なオペラのアリアと重唱の構造で歌い上げた。

同じカンタービレ、同じベートーベンのカンタービレでも、この第2番のスケルッツォと、例えば、「ラズモフスキー第1番」の冒頭のものでは質的にまったく異なることが、彼らの演奏ではハッキリする。つまり、後者のものは、カンタービレといえばまずオペラ的なものを当て嵌めるという古典的室内楽の様式観を大きく飛び越えるもので、器楽でしかあり得ない、声楽には置き換えられないようなカンタービレで構築されている。だが、この第2番あたりでは、まだベートーベンはオペラ・アリアの・・・そして、その革命的な優等生、モーツァルトの形式をなぞることに疑いをもたず、むしろ、その形式を深く穿つことに可能性を見出しているのである。

ファースト・ヴァイオリンのシミン・ガナートラの弾く独唱者のきりっとしたフレージングと、オペラ歌手のアジリタにしか聴こえない装飾音の見事な表現を聴くだけでも、この日の演奏会を聴いた甲斐があったというものだ。そこには呼吸(ブレス)やその使い方、声の自然な減衰までが丁寧に表現されており、感動的だ。もちろん、ガナートラだけではない。そのカンタービレを生かすべく、男たち3人の演じる控えめな、しかし、映画スターたちが通るレッド・カーペットのように、美しく、整然と通り道を彩るアンサンブルの自然な風合いと、絶妙の重さとタイミングで合いの手を入れるアーティキュレーションの素晴らしさを見逃すことはできない。合いの手では、ガナートラと同じように歌詞が聴こえてきそうなくらいの、声のきりっとしたコントロールが聴きどころだった。

【古さのなかにある新しさ】

さて、よく聴いてみると、どちらかといえば、古い形式に則ったスタイルをとるスケルッツォ楽章(よっぽど、メヌエットでないところだけでも革新的とは言えるのだろうが)であるが、既に、この「古い形式」のなかに、後世のベートーベンが試すことになる可能性がたくさん詰まっていることをも、パシフィカQは教えてくれる。それは上に書いたような対話の、ちょっとした機微を調節することで、容易に響きの印象が変わるということであるが、それはもう、これ以上はどうにもならないほど、締め上げた表現で貫いた彼らの演奏の精妙さによって、初めて確かめ得るのである。

それはよりスケールの大きな最終楽章に入って、もっと積極的に確認できることでもあった。そこに書かれた動的で、ロンド風ともいえそうな整然とした形式と、その自由な展開を、パシフィカQはいくぶん、ゆったりと演奏しているのがミソだろう。「クアジ・プレスト」の「クアジ」=「・・・にちかい」というところをむしろひろく捉え、「プレストにちかい」のではなく、「速いが、プレストではない」という方向で解釈したのだろう。ピリオド主義の台頭以降、ノン・ヴィブラート・ベースで、テンポは速めにするトレンドのなかで、こうした表現を採ることは多分、勇気のいることであるが、作品のもつ華やかな響きと多彩なユーモアが浮かび上がり、やはり、モーツァルトの作品、そのなかでも、今度は交響曲を思わせる内面のゆたかさが際立つのがとても良いと思われた。

【苦悩を突き抜け…】

2曲目は休憩を挟まずに、弦楽四重奏曲第7番「ラズモフスキー第1番」の演奏となった。なんだかんだと言って、知的なフリをしながらも、やっぱりキャッチーなものが好きな私としては、この「ラズモフスキー第1番」の朗々たるカンタービレにはワクワクするものだ。しかし、そのカンタービレの性質は、第2番のときとはちがっていることは既に述べた。弦楽器によって声の真似をすることは何かと面白いが、その分、カンタービレの種類を増やすことはできない。そこでベートーベンは、器楽には器楽にしかできない歌い方が必要だと考え、また同時に、そうすることで、より多彩な可能性が花開くことを見越していたのだ。

その可能性は後期作品では「無調」ならぬ、「無カンタービレ」として切り返され、作品のなかに、アイロニカルに生かされていることに気づく。第14番でも、第1楽章のはじめや、スケルッツォ以降の楽章では豊富なカンタービレに作品が彩られている。だが、第1楽章のアダージョにしても、そこにあるのはカンタービレというよりは、むしろ、より根源的な「印象」というものにちかいのではなかろうか。その「印象」は次のナンバーの、長大な「病の癒えた者の喜び」で、より力強く可能性を確かめられることになるが、それよりも、この楽章において凝縮されて、色濃く表現されているともみられるかもしれない。

パシフィカQの今回の演奏は、スケルッツォに至るまでは、この「印象」を淡々と描いていくことになる。そして、「苦悩を突き抜け歓喜に至る」の有名なモットーのように、スケルッツォ以降、いよいよカンタービレが弾けることになるというわけであった。だが、今回の演奏で私がいちばん楽しみにしていた、この「印象」の部分の表現は、その他の部分と比べて際立ってはいなかった。もしも不満があるとすれば、そのような部分に対するものであろう。

ところで、今回の演奏でパシフィカQは、上に挙げたモットーを月並みではあるが、丁寧に織り込んでいた。もちろん、その点で「ラズモフスキー第1番」はわかりやすい。後半2楽章の主題が暗→明ではっきりと対応し、その関係がよく知られたモットーと容易に重ねられるからである。第2番ではその対応関係はほんの僅かな瞬間に、モーツァルト的な転調の手段で鋭く閃く。では、第14番ではどのようになるのであろうか。

表向き、第14番では「苦悩」の部分については、あまり表現されていないかのようだ。しかし、それは全体をサンドウィッチするように、まるで映画『ニュー・シネマ・パラダイス』(G.トルナトーレ監督)で、現在の時点で成功を掴みながらも、そんな自分を育んだ「黄金時代」に思いを寄せて寂しく佇む場面のように、最初と、最後のほうにしんみりと置かれている。それらはきっと、晩年に入ったベートーベンでなければ、とても選べないような「衣裳」なのであるが、よく見れば、その愛情に満ちた場面は昔、アルフレードが牧師に言われて切り取っていた場面だと気づくというような、ウィットに満ちているのである。つまり、これは老いの境地が生み出した世界ではあるが、それを演じているのは、若いときの彼自身である。

パシフィカQが、そのようなことに気づいたというのは、確かに凄いことではなかろうか。だから、私は不満はないと言ったのだ。

【まとめ】

彼らは地元の米国で、きっちり全曲ツィクルスをおえた後に、こうして日本で、その精髄を確かめているわけである。その下地は、1年、2年という単位で失われるものではない。しかし、そうであるにしても、やはり、「どうせならば全曲を」という主催者のワガママは歓迎すべきものではない。彼らは、それでもかなり良いパフォーマンスをしてくれる。だが、私からみれば、やっぱり余裕残しの部分があるのだ。もちろん、少しばかり目立つ傷があったから、そう言うのではない。私は米国で彼らがやってきたものよりも、一歩進んだものを聴きたいからこそ言うのである。この日程では、その望みには無理があるだろう。

再びマラソンにちなんで言うなら、この演奏会は著名なマラソン・ランナーが主要大会を闘ったあと、もしくは、その直前に、調整、もしくはクール・ダウンのために出場するハーフ・マラソンのようなものだったのではなかろうか。その感覚で、マラソンの距離を走らせるのだから、出てくるタイムは本番のものとは比較にならないはずである。それでも、力のあるランナーだから、それなりの走りは見せてくれるだろう。だが、その素晴らしい走りに不満は感じずとも、少なくとも満足すべきではない。

【プレスラー、再び!】

さて、今後のCMGであるが、16日にメナヘム・プレスラーのソロ・リサイタルがあるので、再び聴きにいく予定である。今回、プレスラーはこのリサイタルとワークショップのほか、17日のガラ的なコンサートと、19日のフェスティヴァル・ソロイスツの公演で演奏する。フェスティヴァル・ソロイスツとは、ヴァイオリンの竹澤恭子、ヴィオラの豊嶋泰嗣、チェロの堤剛によるトリオのことだ。プレスラーは90歳にちかづく高齢で、ソロ・リサイタルの機会も珍しいことから、16日の公演は実質、日本で最後のソロ・リサイタルとなる可能性もあるので期待したい。なお、私ごときが保証するまでもないが、彼の実力のほどは、昨年のアントニオ・メネゼスとの共演でも確認済みである。

なお、この公演のように、午前スタートの公演というのも、もっと企画されていいのではなかろうか。私は午後、夕方まで、ベートーベンを聴きつづける代わりに、堀切の菖蒲園に出かけて「花見」を楽しんだ。ここに咲く花菖蒲というのは、人間の手によってつくられたブルーローズと同じように、人間が手をかけて様々に品種改良を繰り返した芸術品である・・・と、この日、初めて知ったのであった。安価なデジカメによる画像ではあるが、最後に、このブログではじめて画像というものを貼りつけて、ささやかなサーヴィスとしたい。別にプロや、プロ並みの腕でなくとも、写真の撮り方にもまた、その人の性格を表すものがあると思うからだ。

P1000259_2

ひとつだけ主張を書くなら、私は、対象を風景のなかで撮りたいと思っている。風景とは、それとかかわる人間をも含んでいるとも付言したい。もちろん、そんな立派なことが言えるような代物ではないが・・・。ここに写り込んでいるのは、残念ながら、すべて私と寸分の関わりもない人たちだ。しかし、思ったよりも多くの人生がこの写真のなかに(曲がりなりにも)溶け込んでいるのをみて、私は嬉しかったのである。

そういう価値観をもつ私と、ここで下向きにカメラを向けて、花を撮ろうとしているオジさんとでは、かなり考えがちがっているように思われるのは、なかなか興味ぶかいことではなかろうか?

【プログラム】 2011年6月12日 (11:00-)

1、ベートーベン 弦楽四重奏曲第2番

2、ベートーベン 弦楽四重奏曲第7番「ラズモフスキー第1番」

3、ベートーベン 弦楽四重奏曲第14番

 於:サントリーホール(小ホール=ブルーローズ)

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