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2011年6月17日 (金)

メナヘム・プレスラー シューベルト D960 ほか サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン 6/16 ②

【音色の本質】

さて、ドビュッシーは『版画』の演奏である。ドビュッシーといえば、まず真っ先に語られるのが音色の問題である。確かに、それはドビュッシーを演奏し、聴くうえで外せない条件であろうが、一方、そんなことはどんな素人にも思いつく。

本当に大事なのは、音色、音色といっても、その本質とは何かということである。音色といっても、それは響きと響きの組み合わせの妙であり、いってみれば、最終的には構造の産物なのではなかろうか。和声と音色というとまったく別物のように聞こえるが、実際は、和声の組み合わせによって音色がつくられる。だが、その和声は単に音の組み合わせだけではなくて、ペダリングやタッチの質、打鍵の重み、さらにはフレージングやアーティキュレーションによっても、微妙に揺らいでいく。実のところ、この揺らぎこそが、一般に音色と思われている要素なのではなかろうか。

つまり、平面的な音符の組み合わせとしての和声と、それを立体的に構成する要素があわさって、我々が音色と呼ぶようなものになるのだ。

ということは、プレスラーのように、これら2つの系統の要素を常にふかく意識して、演奏している弾き手にとっては、ベートーベンとドビュッシーではさほど変わらないことになるのかもしれない。フランス音楽における音色ということの強調は、ある種のデフォルメであり、ときにはごまかしでもある。むしろ、「音色なんかあとからついてくる」といったほうが正しいのであり、音色のみを先に論じるのは、きっと過ちのもととなるのだ。それは、カンバスを白くきれいに塗り込めないまま、色絵具で絵画を描き始めるようなものではなかろうか?

このことは音色だけに限らないが、プレスラーという演奏家は、どちらかといえば、全部をいわず、仄めかすという表現に徹している。色光ピアノで実際にカラーをスクリーンに映し出すことを考えたのはスクリャービンだが、そのようなことは、プレスラーからしてみれば愚の骨頂であろう。それはもう、聴き手がピアニストの発する響きから感じ取るカラーのイメージを根こそぎ奪ってしまって、厚かましくも、ピアニストの完全管理下に置いてしまいたいという醜い欲望の表れだからである。演奏家をまるで信用せず、のべつまくなしに、具体的な指示をスコアに書き込んでいったマーラー的な愚かさであるともいえようか。

【プレスラーのみせる奥儀】

プレスラーのドビュッシーがなぜ、あれほどまでに私たちのこころに響くのかといえば、いくつかの要素がある。しかし、そのなかでも、1つ1つの素材に対して、見るからに、真剣に向き合っているということは、一見、どのピアニストにもできそうなことなのに、実際は、ほとんどのピアニストにできないことなのだ。プレスラーのつくる音色は、いつも、あとから仄かに薫ってくる。それは、プレスラーがまずもって構造を整えることを第一義とし、然るのちに、その構造力を音色として溶け出させていくという、回りくどくも、正統的な表現手段を貫いていることを示している。否、その道の達人であることを示しているのである。

3曲のなかでも、特に凄かったのは第3曲の「雨の庭」であろうか。上の表現からすれば、このようなテクニカルで、掴みどころのないナンバーにおいて、プレスラーの演奏はあまりにも杓子定規に響きそうなものである。しかし、もちろん、そうはならない。特に、前半のライン・アートのようなシーケンスから、ショパンの「雨だれ」のような左手の刻みがぐっと浮かび上がって、次第に色彩感とポエジーが高まっていくときの表現の、見事な切り替えなどは思い出すだけでも鳥肌が立つほどだ。

【壮大な歌曲】

後半は、シューベルトのピアノ・ソナタ(D960)である。シューベルトのピアノ・ソナタでは最後のもの、作曲家晩年の作品として、ともすれば重々しく捉えられがちな作品である。ときには「遺作」の文字が付され、そのことが強調されていたりもする(ただし、『遺作』とは単に、生前に出版されなかった未発表作品の意である。ただ、なんとなく『遺書』みたいな位置づけに間違われやすいのも事実だ)。しかし、プレスラーの場合、この曲をなにか特別のものとして演奏する意図はない。

正確に言えば、彼にとって、際立って愛すべき作品ではあるのだろう。プレスラーの場合、それが当たり前とはいえ、この曲では本当に、すべてのフレーズに嬉々として向き合っていたし、まるで、ピアノが好きでたまらない初学者のように、ピアノに向き合う姿勢が新鮮であった。そのような意味では、なるほど「特別」なのかもしれないが、上記のような意味での特別さは、なるべく排除される方向で演奏されたというべきだろう。

大体において、プレスラーのピアノは音色が明るく、その点では、イタリアのピアニスト、例えば、ブルーノ・カニーノなどを思わせるところがある。この特徴を生かし、この作品に含まれる歌曲のようなカンタービレの要素を、丁寧に織り込んでいった演奏であったことに注目したいのだ。プレスラーの演奏によれば、この作品は正に壮大な歌曲であり、1人の作曲家による膨大な歌曲のパスティッチョ(共作)ともいえそうである。

そうはいっても、アンダンテはやはり、人生の最後の歌というイメージから切り離せないほど、重々しい。その冒頭の宗教カンタータのような部分が、先に演奏したベートーベンの作品(の『嘆きの歌』の部分)に対して、デジャヴーを引き起こすのは偶然ではあるまい。ただ、ベートーベンよりもずっと息長く、その荘重さが持続されるあたりは、いかにもシューベルトらしいところだ。プレスラーはその展開を、独特の滋味ゆたかな奏法で、たっぷりと弾き込んでくれた。多くの人たちが、この楽章がもっとも印象的と述べているのも頷ける。

【二重のスケルッツォ】

しかし、私は後半2楽章が好きであった。確かに、最終楽章などは技術的に、若干、目立つ隙があったのは否定しない。とはいえ、かつて吉田秀和がホロヴィッツに対して、「ひびの入った骨董品」と述べたような質の破綻からは遠いだろう。そのことは演奏会冒頭から、徹底的につづけられた精妙で、ゆたかな弾力に満ちた打鍵の質や、圧倒的に美しいペダリングと音の保持の厳密性など、多くの点から指摘できることだ(そのことについて、先日、ホロデンコの技巧的な素晴らしさを褒めたばかりだが、その表現はいまから撤回したいと思うほど、プレスラーはあらゆる面で上回っていた)。「技術的に落ちがある」というようなことは、口が裂けても言うべきではないし、そう言っている人がいるとしたら、私はその聴き手を軽蔑する。

さて、この後半2楽章はプレスラーの演奏によれば、スケルッツォの重ね合わせとして考えられる。第3楽章はもちろん、スケルッツォである。あまり使わない強打をフレーズ最後の三連符に用い、その響きのイロニーを直截に示している。しかし、それだけならば、面白くもなんともないだろう。それが繰り返されるごとに、三連符の響きの質があらゆる変容をみせ、ついには、容易に聴こえないほど遠ざかっていく。この弱打と強打のコントラストが、なんとも見事なのである。特に、最弱打のあの優しさときたら!

次の楽章も、イロニーを中心に描いている。それは左手の一打に凝縮される、単純で、素朴なユーモアの産物である。この左手の一打は、ベートーベンの『第九』の「友よ、そうではない」と同じ働きをしているのである。決然として、大胆な切り替えなども含め、この終楽章は明らかに、ベートーベンの『第九』に対する挑戦状・・・もしくは、自虐的な降伏宣言である。この一打の前後では、同じような表現もプレスラーの手にかかれば、まったくちがう表情を見せる。特に、それが執拗に繰り返される最後の場面で、この表現は一層、面白いように思われた。1つ1つのタッチにこだわり、フレージングをあれこれと検討し、タッチの質を徹底的に磨き込んでいくというプレスラーならではの面白さである。

とにかく、プレスラーは全部を出しきった!

【まとめ】

こうして長々と書いてきたわけだが、私はプレスラーというピアニストの秘密の、ほんの僅かな部分を読み取り、こうして表現しているにすぎない。実際には、私が掴みきれていないものがもっとたくさんあるだろうし、掴んでいても、うまく表現できていなかったり、そもそも誤って掴んでしまった情報(印象)だって、たくさんあるにちがいない。しかし、このピアニストの演奏を聴くことで、聴き手それぞれに思うところがあっただろうし、それほど語ることがたくさんあるピアニストでもあったことは事実だろう。

最後に、いちばん最初に感じ、そして、最後まで貫かれた印象について書いてみたい。それはベートーベン冒頭の響きのシーケンスを聴いたときのことだ。それはまるで、ヴァイオリンがノン・ヴィブラート・ベースで弾くときのような響きに似ていた。ボザール・トリオで一緒だった故グリーンハウスもメネセスも、プレスラーは弦のような響きが出せるということを強調していた。そして、トリオの場合は、ヴァイオリンやチェロが中心をとるときには、その特殊な響きを使って、それらの主役を引き立てるような響きを自然に出せたのだという。その手法は、もちろん、独奏においても生きているというわけである。

プレスラーの演奏を聴く場合、単にピアノの演奏を聴いたという感じはしない。弦・管・打、それに、声というあらゆる音楽的要素が、ピアノというマテリアルをいっぱいに使うことで、ゆたかに響いてくるのである。これこそが、プレスラーにあって、ほかの大多数のピアニスト・・・否、そのなかで一掴みの一流ピアニストたちのなかにさえ、滅多にないものだと思う。こんなピアニストはきっと、もう二度と現れないだろう。ということは、プレスラー翁には長生きして、すこしでも長く弾いてもらわなくてはならないし、彼にはその使命があるのではなかろうか。

【プログラム】 2011年6月16日

1、ベートーベン ピアノ・ソナタ第31番 op.110

2、ショパン マズルカ op.7-1/op.7-3/op.17-4

3、ドビュシー 版画

4、シューベルト ピアノ・ソナタ D960

 於:サントリーホール(小ホール=ブルーローズ)

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