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2011年6月17日 (金)

メナヘム・プレスラー シューベルト D960 ほか サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン 6/16

【いきなり出現したトップ・ピアニスト】

先月、ボザール・トリオの創設メンバーのひとりで、チェリストのバーナード・グリーンハウスが亡くなった。1916年生まれ、95歳から96歳にならんとするときに届いた訃報だった。その先輩とともに作り上げた屋台を、近年まで後進の演奏家と分かちあい守ってきたのが、ピアニストのメナヘム・プレスラーである。ヴァイオリニストのダニエル・ホープが多忙となり、トリオはほぼその歴史を終えたが、その梁はまだまだ役割を終えたわけではない。ソロ・ピアニストとしてのプレスラーが、いきなり規定打席に達した4割打者のように、忽然と世界のトップ・ピアニストたちの先頭を歩み始めたのだ。

私の文章はときどきアジテーションが強すぎるが、このリサイタルに関しては、大声を張り上げることにはまったく価値がないと思っている。それなのに、このように言わずにはおられない。私の聴いてきたピアノ・リサイタルのなかで、今回ほど感動したもの他になかった。といっても1979年生まれ、しかも、そのうちの20数年は、ほとんどクラシック音楽と無縁だった私の経験は、さほど誇れるものでもない。だが、その間に私は一生懸命に、理想の音楽を探し歩いてきたつもりだ。

マルタ・アルゲリッチ、レイフ=オヴェ・アンスネス、クリスチャン・ツィメルマン、ブルーノ=レオナルド・ゲルバー、ゲルハルト・オピッツ、ピエール=ロラン・エマール、ラルス・フォークト、エリック・ル・サージュ、アンジェイ・ヤシンスキ、パヴェル・ネルセシアン、パウル=バドゥラ・スコダ、ピオトル・パレチニ、ウィレム・ブロンズ、etc...

確かに、プレスラーには期待もしていた。しかし、私を本当の意味で感動させるアーティストは、私が期待するところを100%とするなら、120%を出すというわけではない。そうではなく、私の想像し、期待していたものを打ち壊して、まったく新しい世界=宇宙を見せてくれるのだ。上に書いたようなピアニストたちは少なからず、そのような新しい領域へ私という愚者を導いてくれたものだが、プレスラーの演奏はまた新しい・・・根本的な革命を、この救いようのない愚者のまえに示してくれたのであった。

【様式によらない不動の真理】

それは、次のようなことだ。

クラシックの様式の表現についてはいろいろな真理が探究され、歴史的に積み上げられてきてもいるだろう。しかし、その究極は結局、あらゆる表現を刺し貫く不動の、ひとつの真理である。プレスラーの表現はどんな楽曲に対しても、常に柔らかい。それはプレスラーが様式観に対してルーズであり、表現のパレットが少ないために、かえって起こってしまうようなことではないのだ。確かにどの作品の演奏を聴いても、プレスラーの演奏は基本的にひとつの原理に基づいている。それは楽曲の持ち味をシンプルな表現で、たっぷりと引き出すという単純な表現によって語られる、しかし、その言葉よりはずっと奥深い秘密である。平たくいえば、プレスラーは楽譜に書かれた響きを、一切の誇張も欠損もなく、静かに描き出していくだけだ。

例えば、この日の前半のプログラムはベートーベン、ショパン、ドビュッシーによって構成された。だが、それぞれに「精神と形式の革命家、強靭で確信に満ちた音楽」「繊細で私的なピアノの詩人、自由で気まぐれな形式」「音楽の印象派、音色のために用意された複雑で自由で、ちょっぴりは型通りの形式」といったような、月並みな評言によって語られるようなちがいを、プレスラーは完全に通り越している。彼にとってみれば、そのようなちがいなど僅かなことで、そのことを親切ぶって、「わかりやすく」表現することなど幼稚だということを知っているのだ。

私が打ちのめされたのは、正にこの点である。かといって、これらの作品の表現は、まったく堅固に描き分けられてもいる。どういうことだろうか?

つまり、それは私たちの想像もつかないような・・・否、もしかして、誰もが自然に体験しているけれど、それがそれほどに大事だとは気づかないような、ちょっとしたところに基礎づけられているように思えてならない。私はこの秘密を、どのように語るべきかのいかなる知見も持たない者であり、私が耳にしたプレスラーの名人芸を完璧に理解することも、表現することも叶わないはずだろう。しかし、私はそれでも理知的に黙っているほど我慢づよい、謙虚な人間でもないのだ。

【ウィーン風のソナタ第31番】

1曲ごとに見ていくことにしよう。まずは、ベートーベンのソナタ第31番である。これはコテコテのウィーン風の演奏で、バドゥラ=スコダのようなスタイルを思い出した。ただ、ダイナミズムにはまったく頼らず、丁寧なカンタービレの構築感と、繊細なタッチの押し引きだけで、9割9分を組み立ててしまうというような演奏であった。楽曲自体、非常な軟構造であるが、それを最大限に生かしたかのようなリラックスした構造観が特徴的だ。時折、うっすらとかけられるルバートは、正にウィーン由来の酒脱さ。ベートーベン作品であるが、メンタルな重みはさほどなく、「老いの境地」「晩年の枯淡」「死への予感」などといったありがちなキーワードとは、いっさい無縁である。

プレスラーの演奏では、むしろ、随所に聴かれる明朗な響きへの切り替えが印象的であり、「嘆きの歌」などと言われる部分は宗教的カンタータを思わせる荘重さこそあれ、多くの録音のように暗鬱ではない。その敬虔な響きには、どちらかといえば、この世の甘い思い出だけが詰まっているようで、その後に現れるフーガはそうした思い出を掃き清めながら、ベートーベンの道行きを天国へと導いていくようである。ほとんどそこでしか使わなかったような印象があるフォルテを堂々と打ちつける、階段的な和音の連打はその象徴となっている。

【プレスラーのコミュニケーション能力】

プレスラーは、フォルテ=強打をほとんど滅多に使わない。1曲のなかで、多くても4-5箇所だ。そして、ほとんどの場面ではメゾ・ピアノぐらいの音量で、繊細に響きを形作っていく。最近、私の愛書となった『死に至る病』のなかで、キルケゴールは言っている。「キリスト教は、あつかましく生意気な押し付けがましさをはなはだ憎む」。プレスラーの表現は、こうした厚かましさからは完全に自由であり、そのため、聴き手はより多くのコミットを通じて、彼の音楽を積極的に感じ取ることが必要である。これは無論、プレスラーのコミュニケーション能力の低さを表すものではなく、むしろ、その逆である。

多くの音楽家はそのどぎつい、厚かましくも、押しつけがましい音楽を「個性」と思い込んで、聴き手とのコミュニケーションなどには初めから気を配ることもなく、勝手に響きを撒き散らして、そのおこぼれを客席に送りつけているだけである。これをコミュニケーションと呼ぶならば、私は噴飯ものだと思う。プレスラーはそうではなく、相手の言うことにも耳を傾けてくれるのだ。そして、私たちが彼との対話のなかで、いよいよ背筋を伸ばして聞くべきときが来たと思う、その最適のタイミングで、プレスラーは重々しく口を開く。その説教は、まるでありがたい高僧の言葉のように、私たちのこころに沁みてくるのである。

私はマナーが悪いことは自覚しており、ロックやジャズのときみたいに、身体をスイングして聴いたりするほうが好きである(実際には、重心を多少ずらしたり、目にみえないところに力を入れたりしているだけだが)。大体、クラシックは舞曲と関係するものばかりで、じっとして聴いているほうがナンセンスだと思う。ところが、プレスラーの演奏を聴くときには、そのような余裕はまったくもってない。

【ショパンから見える未来】

それは、ショパンのような曲目でさえも例外ではない。アンコールでもショパンを取り上げたように、プレスラーはやはり、ピアニストとして、ショパンの曲目に対する愛情はつよいようである。ただ、ルバートのスタイルなどは、ポーランド的な起伏よりは、やはり、ウィーン風の自然な揺らぎという感じが優先するが、(op.7-3)のマズルカなどは、フェリシア・ブルーメンタールのような風合いで、ポーランド的になっていた。

一方、(op.17-4)はよりフランス的で、このたおやかなナンバーに、5-60年ぐらいは先のパリの風景を読むような新しさがあることも示し得ている。つまり、その流れはドビュッシーやラヴェルの印象派、もしくは象徴派の世界と通じるものがあり、音風景のなかに、そのときの風土や作曲家自身のあり方を投影した重層的な世界が広がっていることを感じさせる。特に、このナンバーで顕著なのは、やはり、ピアニスト(=作曲家)の孤独である。ただし、プレスラーの場合、それはいかにも暗鬱な最初のフレーズではなく、次に出現するいくらか明るめのフレーズで、より徹底的に表現されるのが面白い。

この流れで、ドビュッシーが次に演奏されるのは自然なことであろう。プレスラーはショパンの3曲のあと、客席の拍手に応えず、座ったままドビュッシーの演奏に入ったが、それも理解できる。しかし、このつづきは次の記事に譲ろう。

 (②につづく)

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